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美味しい時間という贈り物を、たいせつなひとと分かち合いたい。食事はあなたへのラブレター。たとえあなたが愛されないとしても、私はあなたをたいせつに思っていると伝えるために。

私達は神様からちゃんと愛されているんだ。大丈夫だよ。

そんなことを教会は伝えたいんだと思う。

私はちゃんとあなたを愛しているから、心配しないで。

そんなことを恋人は確かめ合っている。

私はちゃんとあなたが世界一可愛いと思っているから、誰に何を言われても気にしないで。

そんなことは親はいつもこどもに伝えている。

もちろん、神様の愛なんてそんなもんないんじゃないかって思うときやひとはいるだろうし、モラハラで支配する配偶者だっているし、機能不全家族だってあるし、そういったことはわかっている。

そういったときには、誰かが、なんらかの理由で愛が足りないのだと思う。それは決して被害者のせいではない。加害者がすべてのリソースを吸い取ってしまうから、あなたの自己肯定感はどうしても下がってしまう。それは加害者のせいであって、あなたはなんにも悪くない。

暴力を正当化するつもりはまったくないし、暴力が許される世の中になってはいけない。暴力が当たり前にあるということは、誰もが被害者になりうるということだ。

ただ、そういったことに犠牲になったひとが忘れていることがある。世界は、必ずあなたを大事に思ってくれる場所やひとを必ずあなたに出会わせてくれるということだ。

それはあしたかもしれないし、10年後かもしれないし、死を目の前にして病院で横になっているときかもしれないし、神の国(天国)でかもしれない。ただ、その希望を捨てないでほしい。あなたはちゃんと誰かに愛されて、そうして自分を愛せるようになって、自分を大切にできるときが必ず来る。

私の夢について語ろうと思う。

私がもし無限のお金を持っているとしたら、間違いなく世界中のなるべく多くのひとを食卓に誘う。地球にいる80億人全員を誘うことが理想だ。その夢を叶えるためには、宝くじ1等どころじゃ足りない。しかも、寿命も300年くらいかかるだろう。

アフリカにもアジアにも日本にもヨーロッパにも、世界のどこにでも、必ず社会から取り残され、飢えているひとはいくらでもいる。いかにも死にそうなひとだけではなくて、毎日の食べるものを削っているひとは、日本にも世界にも、いくらでもいる。

母子家庭の貧困率を考えても、「親である私の食べるものを減らして、食事回数も減らしている」「こどもにお腹いっぱい食べさせたいから、かさ増しするしかない」といった声は結構ある。そういったことが、世界中にある。

そういったひとに、せめて人生に一度だけでも、美味しいものをお金を気にせずいくらでも食べられるという機会があったっていいじゃないか。

貧しいから、諦めたものがたくさんある。

大学に行くのを諦めた。結婚を諦めた。こどもを授かるのを諦めた。そういったひとたちが、せめて食べることを諦めてしまう前に、美味しいものを食べるという経験をしてほしいと切に願う。

高いものでなくたっていい。1人5万円の日本料理の懐石を理想とするひともいれば、いつも我慢している牛肉のステーキというひともいれば、通い慣れた居酒屋のカルパッチョというひともいれば、あるいはファミレスでとにかくたくさん食べたいというひともいれば、おばあちゃんがつくってくれるオムライスというひともいるだろう。

私は、最後の晩餐がもし自由に選べる環境にあるなら、祖母のオムライスと決めている。誕生日、試験に受かった日、頑張った日、あるいはしんどかった日には、いつも祖母にオムライスをリクエストしている。

そんな各個人の最高の食事を、世界中のひとが楽しめるような、そんな世界が早く来てほしい。

戦争で、貧困で、災害で、事故で、あるいはあらゆる悲しいことで、あなたはこの先「こんなの乗り越えられない」と思うときがいくらでも来るかもしれない。世界はあなたをいくらでも絶望させるだろう。あなたが生きる希望を失うときがいつか来るかもしれない。生きているのが嫌だなあ、と思う日が来てしまうかもしれない。あるいは、あなたは既にその渦中にいるかもしれない。

私なんて死んだほうがいい。あの子の代わりに私が死ねばよかった。死んだらあの子に会えるかな。死んで楽になりたい。そう思う日が来たとしても、それを乗り越える力はきっとあなたに残っていてほしいと願う。その力というのは、たとえば宗教であったり、友情や愛情であったり、自分へのご褒美であったり、いろいろな方法があるのだろうが、もっとも簡単で効果的なのは食事なのではないかと思う。

私は、「あなたに死なないでほしい」と伝えたい。ただ、そんなことを渦中にいる人間に伝えたってそれはかなり意味のない言葉だ。「あと5秒以内に100万ユーロ用意してくれ」と言うことが無理難題であるのと同じことだ。こういった際には、どんな言葉も意味をなくしてしまうだろう。そんなときに、私はあなたにあるラブレターを渡したい。それが、食事だ。ミサというのは、食事をともにするといった側面がある。聖体拝領を受け、ともに祈るあの空間は、本来は皆でパンと葡萄酒を分け合うといったことなのかもしれない。

食事はなぜあるのか。生きのびるためだ。あしたも健康でいるためだ。あるいは、病気ならより健康に近づくためだ。栄養を取るためだ。疲れをいやすためだ。ただ、それだけでもない。美味しい食事は、こころの奥底まで染み渡る。美味しいものを食べると、生きていてよかったと思うし、あしたも頑張ろうと思う。あなたは生きていていいんだよ。だいじょうぶ、きっと生きていけるよ。そういったことを直接心に殴りかけるように伝えるのが、食事に誘うということなのだと思う。

だから、私はあなたを食事に誘いたい。あしたもちゃんと私達は生きられると、あしたはきょうよりも楽しくて幸せな日になると、そして私はあなたを愛していると伝えるために。

顔も名前も知らないひとを嫌うことができるのならば、顔も名前も知らないひとをちゃんと愛することだってできるはずだ。その愛が広まれば、世界平和はもはや机上の空論ではなくなる。昨日戦地で死んだ彼は私の友人だ。一昨日殺人事件に巻き込まれて死んだ彼女は私の友人だ。そういった考えが広まれば、生きることは苦しくなるかもしれないが、少なくとも名前も知らないひとに石を投げることは少なくなるだろう。

だから、私は何度でも言う。私はあなたを愛している。

嘘だと思うだろうし、なにを言っているんだと思うかもしれない。それでも、この世界は案外狭いもので、人間というのはだいたい同じ行動をしている。実はあなたと私はどこかですれ違っていたかもしれないし、明日運命的に出会うかもしれない。お腹が空いたらごはんを食べたいと思うし、眠くなれば寝たいと思うし、排泄したいと思えばトイレに行くし、嫌なことばかり続くと胃が痛くなるし、幸せなことがあると自分は生きていてよかったと思う。そういったように、人間というのは、ほんとうに単純な生き物だ。

そして私達はみんな神様の被造物だから、言葉で話せばちゃんとわかりあえるのだと信じたい。そう信じるひとが増えたら、これもまた世界平和に近づくだろう。もう誰も戦争や自殺で愛するひとを失わなくてすむように、私は今日も願う。ひとがひとを殺さなくてすむように、私は今日も祈る。

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