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子ども「どうして勉強しないといけないの?」福沢諭吉が伝えたかった「学問の目的」とは?【学問のすすめ2.0:二編】

二編
端書
 学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理、化学等は形ある学問なり。いずれにてもみな知識見聞けんもんの領分を広くして、物事の道理をわきまえ、人たる者の職分を知ることなり。知識見聞を開くためには、あるいは人の言を聞き、あるいはみずから工夫くふうを運めぐらし、あるいは書物をも読まざるべからず。ゆえに学問には文字を知ること必要なれども、古来世の人の思うごとく、ただ文字を読むのみをもって学問とするは大なる心得違いなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 学問はとても幅広い概念で、形のない学問と形のある学問がある。心学、神学、理学などは具体的な形がない学問だ。一方、天文学、地理学、物理学、化学などは具体的な形を持つ学問だ。どちらも、私たちの知識や経験を広げ、物の理、人としての役割を理解するためのものだ。知識や経験を増やすためには、人の話を聞いたり、自ら考えたり、書物を読んだりする必要がある。だから、学問をするには文字を知ることは大切だが、昔の人々が考えていたように、ただ文字を読むだけが学問だとするのは大きな誤解だ。


 文字は学問をするための道具にて、譬たとえば家を建つるに槌つち・鋸のこぎりの入用なるがごとし。槌・鋸は普請ふしんに欠くべからざる道具なれども、その道具の名を知るのみにて家を建つることを知らざる者はこれを大工と言うべからず。まさしくこのわけにて、文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者と言うべからず。いわゆる「論語よみの論語しらず」とはすなわちこれなり。わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。経書けいしょ・史類の奥義には達したれども商売の法を心得て正しく取引きをなすこと能あたわざる者は、これを帳合いの学問に拙つたなき人と言うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金しゅぎょうきんを費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎うとき人なり。これらの人物はただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その功能は飯を食う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。ゆえに世帯も学問なり、帳合いも学問なり、時勢を察するもまた学問なり。なんぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 文字は学問の道具で、例えば家を建てるのに必要な槌や鋸のようなものだ。槌や鋸は家を建てる際に不可欠な道具だが、それらの名前だけを知りながら実際に家を建てる技術を持たない者を大工とは呼べない。同様に、文字だけを読むことしか知らず、物事の本質を理解していない者を学者とは呼べない。言わば「論語を読むだけで内容を知らない」ということだ。我が国の『古事記』を暗唱できるが、今日の米の価格を知らない者は、生活に関する知識が足りないと言える。経典や歴史の深い意味を理解しつつ、商売の基本を知らずに正しく取引ができない者は、経済に関する知識が不足していると言える。洋学を数年かけて学び、多額の学費を使ったが、一つのビジネスアイディアも持たない者は、時代の変化についてきていないと言える。これらの人々は、単に文字の知識だけを持つ者として見られるべきだ。彼らの役割は、単に情報を引き出すことだけで、国にとっては不要な存在であり、経済にも悪影響を及ぼす可能性がある。だから、家計の管理も学問であり、会計も学問であり、時代の変化を読み取る能力も学問だ。なぜ、和文、漢文、洋文の書物を読むだけが学問であると思うのか。

 この書の表題は『学問のすすめ』と名づけたれども、けっして字を読むことのみを勧むるにあらず。書中に記すところは、西洋の諸書よりあるいはその文を直ちに訳し、あるいはその意を訳し、形あることにても形なきことにても、一般に人の心得となるべき事柄を挙あげて学問の大趣意を示したるものなり。先に著あらわしたる一冊を初編となし、なおその意を拡おしひろめてこのたびの二編を綴り、次いで三、四編にも及ぶべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 この書のタイトルは『学問のすすめ』と付けられているが、ただ文字を読むことだけを推奨するものではない。この書には、西洋の多くの文献から直接その文を翻訳したり、その内容の意味を解説したりしている。形のある事や形のない事、一般的に人々が知るべき重要な内容を取り上げ、学問の本質を示している。先に書かれた一冊を初編とし、その内容をさらに深めてこの度の二編を書き上げた。そして、この後も三、四編を書く予定である。

人は同等なること
 初編の首はじめに、人は万人みな同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在云々とあり。今この義を拡めて言わん。人の生まるるは天の然しからしむるところにて人力にあらず。この人々互いに相敬愛しておのおのその職分を尽くし互いに相妨ぐることなき所以ゆえんは、もと同類の人間にしてともに一天を与ともにし、ともに与に天地の間の造物なればなり。譬えば一家の内にて兄弟相互に睦むつましくするは、もと同一家の兄弟にしてともに一父一母を与にするの大倫あればなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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人々は等しい存在である
 初編の最初に、人々はみんな平等に生まれ、階級や制約なく自由であると記述されている。この考えをさらに詳しく説明しよう。人が生まれるのは自然の摂理であり、人の意志ではない。私たちがお互いに敬意と愛情を持ち、各々の役割を果たし、他者を邪魔しない理由は、元々私たちが同じ種族の人間であり、同じ宇宙の一部として、またこの世界に存在する者として生まれてきたからだ。例えば、一つの家族内で兄弟が仲良くしているのは、彼らが同じ家庭から来て、同じ親から生まれたからという大きな絆があるからだ。

 ゆえに今、人と人との釣合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理道義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あることはなはだしく、あるいは大名華族とて御殿に住居し美服、美食する者もあり、あるいは人足とて裏店うらだなに借屋して今日の衣食に差しつかえる者もあり、あるいは才智逞たくましゅうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、あるいは智恵分別なくして生涯、飴あめやおこしを売る者もあり、あるいは強き相撲取りあり、あるいは弱きお姫様あり、いわゆる雲と泥どろとの相違なれども、また一方より見てその人々持ち前の権理通義をもって論ずるときは、いかにも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。すなわちその権理通義とは、人々その命いのちを重んじ、その身代所持のものを守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、なんらのことあるも人力をもってこれを害すべからず。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 そこで、今、人と人との間に平等性を求めると、彼らを同等と見なすしかない。しかしこの「同等」とは、外見や状態が同じという意味ではなく、道徳や正義の観点からの平等を指す。外見や状況について話すならば、貧富、力の大小、知恵の有無には確かに差が存在する。例えば、貴族や上流階級の人々が豪邸に住み、贅沢な服や食事を楽しむ一方で、貧しい人々が借家に住み、日常の生計に困難を抱えることもある。ある人は才能に恵まれ、公務員や商人として社会をリードする一方で、ある人は知恵や分別に欠け、生涯を通じて簡単な商品を売ることしかできない。力強い相撲取りもいれば、繊細なお姫様もいる。これは文字通り「雲と泥」のような差である。しかし、人々の持つ道徳や正義感から考えると、彼らは完全に平等で、わずかな差異も存在しない。この道徳や正義とは、人々が自らの命を大切にし、所持品を守り、名誉や尊厳を重んじる原則である。天は人々に身体と精神の能力を与え、この原則を実践するためのシステムを設けた。だから、どんな状況でも、人々がこの原則を損なうことは許されない。

 大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり。豪商百万両の金も、飴やおこし四文の銭も、己おのがものとしてこれを守るの心は同様なり。世の悪あしき諺に、「泣く子と地頭じとうには叶かなわず」と。またいわく、「親と主人は無理を言うもの」などとて、あるいは人の権理通義をも枉まぐべきもののよう唱うる者あれども、こは有様と通義とを取り違えたる論なり。地頭と百姓とは、有様を異にすれどもその権理を異にするにあらず。百姓の身に痛きことは地頭の身にも痛きはずなり、地頭の口に甘きものは百姓の口にも甘からん。痛きものを遠ざけ甘きものを取るは人の情欲なり他の妨げをなさずして達すべきの情を達するはすなわち人の権理なり。この権理に至りては地頭も百姓も厘毛の軽重あることなし。ただ地頭は富みて強く、百姓は貧にして弱きのみ。貧富、強弱は人の有様にてもとより同じかるべからず。  しかるに今、富強の勢いをもって貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるがゆえにとて他の権理を害するにあらずや。これを譬えば力士がわれに腕の力ありとて、その力の勢いをもって隣の人の腕を捻ねじり折るがごとし。隣の人の力はもとより力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きままにてその腕を用い自分の便利を達して差しつかえなきはずなるに、いわれなく力士のために腕を折らるるは迷惑至極と言うべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 大物の命と一般人の命、命の価値は同じである。大富豪の巨額の財産と、飴やスナックを買うための少額のお金、それを守る気持ちは同じである。昔から「泣く子と上司には逆らえない」とか、「親や上司は無理を言うもの」という言い伝えがある。これらの言葉で、人の正義や道徳を曲げて良いと思っている人もいるが、これは外見や状況と基本的な原則を混同している。地主と農民は、彼らの状況や地位は異なるかもしれないが、その原則や価値観は同じである。農民が痛みを感じることは、地主にとっても痛みであり、地主が甘いものを好むのは、農民にとっても同じである。苦しいことから逃れ、楽しいことを追求するのは、人間の基本的な欲求であり、他人に迷惑をかけずにそれを実現することは、人の正義である。この正義の観点から、地主も農民も同じ価値を持つ。ただ、地主は裕福で力があり、農民は貧しく弱いだけである。しかし、裕福な人がその力を使って弱い人に無理を強いるのは、道徳的に誤っている。例えるなら、強い力士が自分の力を誇示して、隣の人の腕を無理やりねじるようなものである。隣の人が力士よりも弱いことは明らかであるが、その弱さを受け入れて自分の生活を送る権利がある。しかし、理由もなく力士に腕を折られるのは、非常に不快である。

 また右の議論を世の中のことに当てはめて言わん。旧幕府の時代には士民の区別はなはだしく、士族はみだりに権威を振るい、百姓・町人を取り扱うこと目の下の罪人のごとくし、あるいは切捨て御免などの法あり。この法によれば、平民の生命はわが生命にあらずして借り物に異ならず。百姓・町人は由縁ゆかりもなき士族へ平身低頭し、外にありては路を避け、内にありて席を譲り、はなはだしきは自分の家に飼いたる馬にも乗られぬほどの不便利を受けたるはけしからぬことならずや。

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 さて、この議論を現代の状況に当てはめてみると、旧時代には、社会階級の差が明確で、上層階級の人々は自分たちの権力を無差別に振りかざし、一般市民や商人たちは、彼らの足元にも及ばない存在として扱われた。例えば、特定の階級の人々には、無条件で他者を攻撃する権限が与えられていた。このような法律の下では、一般市民の命は、他者のものとして考えられ、まるで借り物のように扱われた。市民や商人たちは、無関係な上層階級の人々に対して、常に頭を下げ、道路で出会うと避けるようにし、家の中では彼らに席を譲るなど、極端な場合には、自分の家で飼っている馬にさえ乗ることができないような不便を受け入れるしかなかった。これは明らかに不合理な状況である。

 右は士族と平民と一人ずつ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄にいたってはなおこれよりも見苦しきことあり。幕府はもちろん、三百諸侯の領分にもおのおの小政府を立てて、百姓・町人を勝手次第に取り扱い、あるいは慈悲に似たることあるもその実は人に持ち前の権理通義を許すことなくして、実に見るに忍びざること多し。そもそも政府と人民との間柄は、前にも言えるごとく、ただ強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし。百姓は米を作りて人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し、善人を保護す。これすなわち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費えなれども、政府には米もなく金もなきゆえ、百姓・町人より年貢ねんぐ・運上うんじょうを出いだして政府の勝手方を賄まかなわんと、双方一致のうえ相談を取り極めたり。これすなわち政府と人民との約束なり。ゆえに百姓・町人は年貢・運上を出だして固く国法を守れば、その職分を尽くしたりと言うべし。政府は年貢・運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと言うべし。双方すでにその職分を尽くして約束を違たがうることなきうえは、さらになんらの申し分もあるべからず、おのおのその権理通義を逞しゅうして少しも妨げをなすの理なし。

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 確かに上層階級と一般市民との間の不平等は顕著だったが、政府と市民との関係においては、さらに目を覆いたくなるようなことが起こっていた。当時の幕府や多くの地方領主たちは、それぞれの領地に小さな政府組織を設け、市民たちを好き勝手に取り扱っていた。たまに慈悲に見える行動もあったが、本質的には人々の基本的な権利を認めずに様々な圧迫を行っていた。

 政府と市民との関係は、基本的には力のバランスだけが異なるもので、両者の間には本質的な権利の差は存在しない。農民は米を作り、人々を養っていたし、商人は商品を取り扱い、社会の機能を支えていた。これらはそれぞれの役割である。一方、政府は法律を制定し、悪を取り締まり、善を守る役割があった。この仕事を行うためには多額の資金が必要だが、政府にはその資源がないため、農民や商人から税や貢納を徴収し、それを基に政府の役割を果たしていた。これは政府と市民の間の暗黙の契約だった。したがって、市民が税を納め、法律を守れば、彼らの役割は果たされると言える。同様に、政府が税収を適切に使用し、市民を守れば、彼らの役割も果たされると言える。両者がその役割を適切に果たし、約束を守れば、互いに何の不満も生じることはない。すべての人々がその役割と権利を十分に果たすことで、何の問題も生じることはない。

 しかるに幕府のとき政府のことをお上かみ様と唱え、お上の御用とあればばかに威光を振るうのみならず、道中の旅籠はたごまでもただ食い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、はなはだしきは旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。あるいは殿様のものずきにて普請をするか、または役人の取り計らいにていらざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、いろいろ言葉を飾りて年貢を増し御用金を言いつけ、これを御国恩に報ゆると言う。そもそも御国恩とは何事をさすや。百姓・町人らが安穏に家業を営み、盗賊・人殺しの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と言うことなるべし。もとよりかく安穏に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するはもと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言うべからず。政府もし人民に対しその保護をもって御恩とせば、百姓・町人は政府に対しその年貢・運上をもって御恩と言わん。政府もし人民の公事くじ訴訟をもってお上の御厄介と言わば、人民もまた言うべし、「十俵作り出だしたる米のうちより五俵の年貢を取らるるは百姓のために大なる御厄介なり」と。いわゆる売り言葉に買い言葉にて、はてしもあらず。とにかくに等しく恩のあるものならば、一方より礼を言いて一方より礼を言わざるの理はなかるべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 だが、幕府時代には、政府は「お上」と呼ばれ、その名の下にはかなりの権力をふるっていた。道中の宿屋や食事の代金を支払わずに利用し、川の渡し賃を支払わず、労働者に賃金を支払わなかった。最悪の場合、主人は労働者を脅して酒代を取った。このような行為は限度を超えていた。また、領主や役人が無駄な建築をしたり、無用な出費をした場合、さまざまな口実で税を増やしたり、追加の金を要求し、「これは国への恩返し」と言っていた。だが、この「国への恩返し」とは一体何を指しているのだろうか。市民が安心して生計を立て、犯罪に巻き込まれる心配がないのは、政府の恩恵だと言えるだろうか。もちろん、このような安心して暮らすことができる環境は政府の法によるものだが、その法を制定し、市民を保護するのは政府の基本的な役割である。これを恩恵とは言えない。もし政府が市民を保護することを恩恵と考えるならば、市民も税や貢納を恩恵と考えるだろう。もし政府が公的な問題や裁判を「お上の面倒」と考えるのならば、市民も「十束のうち五束を税として取られるのは、市民にとっての大きな面倒である」と言えるだろう。言葉の応酬が無限に続く可能性がある。いずれにしても、双方に恩恵があるのであれば、片方だけが感謝の意を示す理由は存在しない。

 かかる悪風俗の起こりし由縁を尋ぬるに、その本もとは人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の有様を悪あしき道具に用い、政府富強の勢いをもって貧弱なる人民の権理通義を妨ぐるの場合に至りたるなり。ゆえに人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界にもっとも大切なることなり。西洋の言葉にてこれをレシプロシチまたはエクウオリチと言う。すなわち初編の首はじめに言える万人同じ位とはこのことなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 このような悪い習慣がどのようにして生まれたのかを追求すると、その根源は人々が平等な価値観を見失い、経済的な差や力の大小を悪用することからきている。政府の権力や富を持つ者が、経済的に劣っている人々の正当な権利を侵害してしまうことになる。だから、私たちは常に平等な価値観を忘れてはならない。これは人間社会で最も重要なことである。西洋の言葉でこれを「レシプロシティ」や「エクイティ」と呼ぶ。つまり、すべての人が同じ地位にあると最初に言及したこと、それがこの意味である。

 右は百姓・町人に左袒さたんして思うさまに勢いを張れという議論なれども、また一方より言えば別に論ずることあり。およそ人を取り扱うには、その相手の人物次第にておのずからその法の加減もなかるべからず。元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬たとえば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹つつしみて守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁のがれ、国法の何ものたるを知らず、己おのが職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うにはとても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威おどし、一時の大害を鎮しずむるよりほかに方便あることなし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 この議論は、一般の市民や商人を支持するように見えるかもしれないが、別の側面から見れば、また別の話がある。人と接する際、その相手の性格や立場に応じて適切な方法を選択するべきだ。本来、市民と政府の関係は、彼らが同じコミュニティの一部として異なる役割を果たし、政府が市民の代わりに法律を制定し、市民はその法律を守るという合意の下に成り立っている。例えば、今、日本全国で明治の元号を尊重する人々は、現政府の法律に従うべきという合意のもとに存在している。だから、一度国法として定められたことは、たとえそれが一部の市民にとって不都合であっても、改革するまで変更することはできない。慎重にそれを守るべきだ。これは市民の責任である。しかし、教養がなく、正しいことや間違いを区別できない人々、日常の基本的な生活以外の知識がないが欲望だけは強い人々、彼らは法律や社会的な責任を理解していない。彼らは子供を育てる能力はあるが、教育の方法を知らない。このような無知な人々は、彼らが増えれば国全体に害をもたらす可能性がある。こういった人々を適切に対応するためには、残念ながら理論や論理だけでは不十分で、時には強制的な方法を取る必要がある。

 これすなわち世に暴政府のある所以ゆえんなり。ひとりわが旧幕府のみならず、アジヤ諸国古来みな然り。されば一国の暴政は必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず、その実は人民の無智をもってみずから招く禍なり。他人にけしかけられて暗殺を企つる者もあり、新法を誤解して一揆を起こす者あり、強訴を名として金持の家を毀こぼち、酒を飲み銭を盗む者あり。その挙動はほとんど人間の所業と思われず。かかる賊民を取り扱うには、釈迦も孔子も名案なきは必定、ぜひとも苛刻かこくの政を行なうことなるべし。ゆえにいわく、人民もし暴政を避けんと欲せば、すみやかに学問に志しみずから才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これすなわち余輩の勧むる学問の趣意なり。

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 これこそ、世の中に暴政が存在する理由である。私たちの旧幕府だけでなく、アジアの多くの国々も古くから同じ状況にある。そのため、国の暴政は必ずしも独裁者や暴君のせいだけではない。実際には、市民の無知が自らの不運を招く原因である。中には他人の唆しで暗殺を計画する者、新しい法律を誤解して暴動を引き起こす者、裕福な家庭を破壊して金を盗む者もいる。彼らの行動は、まるで人間らしくない。このような問題を抱える市民を対処するためには、釈迦も孔子も最善の策を持っていないかもしれない。厳格な政策を採用することが必要である。だからこそ、市民が暴政を避けたいのであれば、早急に学問に励み、自らの知識と徳を高め、政府と対等の立場に立たなければならない。これこそが、我々が推奨する学問の真髄である。

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