本能寺の変1582 第160話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第160話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長と光秀、二人は急速に接近していく。
光秀が「言継卿記」に登場するのは、この頃からである。
二人の距離は、一気に、縮まった。
「一目瞭然」
接触状況がそれを物語っている。
光秀は、無名の新参者。
しかも、京都奉行に就任した直後。
山科言継は、光秀のことを、まだ、よく知らなかった。
だが、その名は、次第に、公家衆の間に知れ渡って行く。
以下に、その様子を見ることができる。
地名は、その時の光秀の居場所。
光秀の名は、日を追うごとに、
「明智」→「明智市尉」→「明智十兵衛」→「明智十兵衛尉」
と変化していく。
また、「市尉」とは、光秀のことだろう。
おそらく、「十兵」の誤記・誤写か。
永禄十二年1569
この年、信長は、二度上洛している。
また、光秀は岐阜へ下向もしている。
頻繁に接触していたものと思う。
1月10日 京 濃州より織田弾正忠上洛、
4月21日 〃 (義昭)御門外までこれを送られ、
6月20日 〃 明智返事なきの由申す、
〃 29日 〃 明智市尉来たり、
7月 1日 岐阜 明智市尉に近所にて行き合ふの間、
〃 12日 〃 日乗上人、明智十兵衛方に申し上ぐの間、
(「言継卿記」より一部抜粋)
10月11日 京 (信長)御上京。
〃月17日 〃 (信長)濃州岐阜に至りて御帰陣、
(『信長公記』より一部抜粋)
これらについては、後述する。
信長は、伊勢へ侵攻した。
永禄十二年1569、秋。
伊勢は、十一郡。
内、北八郡はすでに制していた。
残すところは、南五郡。
国司大名北畠具教の支配する地である。
八月廿日、勢州表へ御馬を出ださる。
(『信長公記』)
信長は、名家北畠氏を乗っ取った。
信長は、大河内城を兵粮攻めにした。
城内では、餓死者が出ていた。
国司父子は、堪えきれず。
降伏を申し出た。
和睦成立。
俄かに走入り侯の者、既に端々(はしばし)餓死に及ぶに付いて、
種々御侘言(わびごと)して、
信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
信長は、南五郡も手に入れた。
斯くして、伊勢の制圧成る。
十月四日、大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、
国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城侯ひしなり。
(『信長公記』)
信長は、義昭に伊勢平定を報告した。
信長、上洛。
十一日、御上京。
勢州表一国平均に仰せ付けられたる様躰、公方様へ仰せ上げられ、
四、五日御在洛にて、天下の儀仰せ聞かせられ、
(『信長公記』)
信長は、参内した。
信長は、勤王の人。
朝廷に対する尊崇の念が篤い。
参内。
天盃を授与された。
御礼として、太刀と三千疋(30貫)を進上。
十三日。
のふなかのほりて。
御しゆりみまいまいらせ候とてまいり。
なかはしにててんはいの御さか月たふ。
なかはし御しやくにてたふ。
おとこたちはみな々々しこうなり。
かたしけなきとて。
御たち。
三千疋しん上申。
御つかいあすか井中納言。
なかはしのわたくしへも御みやまいらせ候よし御申あり。
(「御湯殿上の日記」)
信長と義昭が衝突した。
この直後に、問題が起きた。
二人の間に、何か揉め事があったらしい。
おそらく、北畠氏に関することか、・・・・・。
それとも、内裏に関することか、・・・・・。
何れにしても、口論になるようなことがあった。
信長、十二日に上洛、
十六日に上意(義昭)とせりあいて下りおわんぬと、
(「多聞院日記」永禄十二年十月十九日条)
信長は、突然、岐阜へ帰った。
義昭の一言が、腹に据えかねた。
十月十七日、濃州岐阜に至りて御帰陣、珍重々々。
(『信長公記』)
光秀は、これを見ていた。
信長が在洛した十月十一日から十七日までの六日間。
光秀は、ほとんど連日、信長の側にあったものと思う。
この間の出来事を、全て、周知していた。
以上、詳細については、後述する。
⇒ 次へつづく 第161話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
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