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本能寺の変1582 第111話 13上総介信長 9斯波義銀の裏切り 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第111話 13上総介信長 9斯波義銀の裏切り 

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信長は、今川との和睦を模索した。

 この頃だろう。
 信長は、尾張の斯波氏と三河の吉良氏を対面させた。
 表面上は、両国守護の講和である。
 しかし、真の狙いは、今川との和睦。
 信長は、義元の攻勢に、押され気味であった。
 これ以上の尾張侵攻を、何としても、阻止せねばならなかった。

武衛様と吉良殿と御参会の事。

 信長は、斯波義銀を利用した。

  一、四月上旬、三川国吉良(義昭)殿と武衛(斯波義銀)様、
    御無事(講和)御参会の扱ひ、

    駿河(=今川氏)より、吉良殿を取り持ち、
    相調へ侯て、
    武衛様御伴に、上総介殿御出陣。

 参会の場所は、三河上野原(愛知県豊田市上野町)。

    三州の内、上野原に於いて、互に人数(=軍兵)立て備へ、
    其の間、一町五段には過ぐべからず。

    申すに及ばず、一方には武衛様、一方には吉良殿、
    床木に腰をかけ、御位のあらそひ(序列)と相聞こえ、
    十足計り宛(づつ)双方より、真中へ運び出だされ、
    別の御品(成り行き)も御座なく、又、御本座に御直り侯なり。

    さて、それより御人数(=軍兵)御引取り侯なり。

信長は、大義名分を重んじた。

 守護斯波氏の権威を尊崇する姿勢をみせた。 

  一、武衛様、国主と崇め申され、清洲の城を渡し進(まいら)せられ、
    信長は、北屋蔵へ御隠居侯ひしなり。

 清洲織田氏の最期を見よ。
 「下剋上」
 信長は、斯波氏を、「隠れ蓑」として利用している。
 
  【参照】13上総介信長 2富田聖徳寺 98   99   
  【参照】13上総介信長 5清洲乗取り 103   

やがて、これが裏目に出る。

 今川義元は、この裏を掻く。
 斯波義銀を抱き込んだ。

 これについて、年次がよくわからない。
 おそらく、桶狭間の合戦(永禄三年1560)の少し前の頃。
 それに、連動するものだろう。

吉良・石橋・武衛三人、御国追出しの事。

 ここに、二の江の坊主(服部左京助)が、再び、登場する。
 
  一、尾張国端、海手へ付けて、石橋殿御座所あり。
    服部左京助、駿河衆(今川勢)を海上より引き入れ、
    吉良・石橋・武衛仰せ談(かた)られ、

今川義元は、尾張の西海岸を狙っていた。

 「駿河衆を海上より引き入れ」、とある。
 二の江の坊主の背後には、義元がいた。

信長は、暫く、これに気づかなかった。

やがて、密事が露見する。

 永禄四年(1561)のこという。
 義元が、討死(永禄三年五月十九日)した後のことである。

  御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞こえ、

信長は、斯波氏を追放した。

 「裏切り」
 これすなわち、大義名分。
 
 義元、亡き今。
 義銀は、最早、邪魔者にすぎない。
 信長は、躊躇しなかった。  

  則ち、御両三人、御国追ひ出だし申され侯ひしなり。
                          (『信長公記』)

信長は、下剋上の男である。

 これで、二度目。
 先ず、守護代清洲織田氏を殺害し、清洲城を乗っ取った。
 そして、今また、守護斯波氏を追放。

 二度あることは三度ある。
 このような、時代だった。


 ⇒ 次へつづく 第112話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首 


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