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本能寺の変1582 第105話 13上総介信長 6道三の最期 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第105話 13上総介信長 6道三の最期 

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道三には、三人の息子がいた。

 同、天文二十四年1555。
 十月。

  山城道三討死の事 

  山城子息、一男新九郎(義龍)・二男孫四郎・三男喜平次、
  兄弟三人これあり。

道三父子は、ともに稲葉山に住していた。

 道三は、美濃の国主。
 「ならばこそ」
 由々しき事件が勃発する。

  父子四人、共に、稲葉山に居城なり。

道三と義龍の間に、大きな亀裂が入った。

 道三の老い。
 「智慧の鏡も曇り」
 義龍の嫉妬・焦り・不安。
 「蔑如に持て扱ひ」
 それに、後継問題が重なった。

  惣別、人の総領たる者は、必ずしも、心が緩々(ゆるゆる)として、
  穏当なるものに侯。


  道三は、智慧の鏡も曇り、

  新九郎(義龍)は、耄(ほ)れ者(愚か者)と計り心得て、

  弟二人を利口の者哉(かな)と崇敬して、
  三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら官を進められ、

  ヶ様に侯間、弟ども勝ちに乗りて奢(おご)り、蔑如に持て扱ひ侯。

義龍は、廃嫡されると思った。

 同、十三日。
 義龍は、策を講じた。
 「作病を構へ」
 つくり病で床に臥せた。

  新九郎(義龍)、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、
  奥へ引き入り、平臥(ひれふし)侯ひき。
                          (『信長公記』)

義龍は、弟たちを言葉巧みに誘い出した。

 弘治元年1555 *十月二十三日改元。

  廿三日、弘治と改元す、
                          (「史料綜覧」)

 
同、十一月二十二日。
 道三が山を下りた。

   霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下りられ侯。

 義龍は、その時を狙っていた。
 弟たちを呼び寄せた。
 使者は、長井道利*。

   爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、

   既に、急病、時を期する事に侯。
   対面候て一言申し度き事侯。
   入来侯へかし、と申し送り侯。

   長井隼人正、巧みを廻し、異見申すところに、
   同心にて、
   則ち、二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり。

  *長井道利 道三の弟というが、詳細は不明である。
        道三・義龍・龍興の三代に仕えた。
        『信長公記』にも、度々、登場する。

義龍は、弟たちを殺害した。

 戦国時代である。
 これが、当時の風潮だった。
 正に、悪魔の所業。
 恐ろしい、時代だった。

  長井隼人正、次の間に刀を置く。
  是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀をを(置)く。
  奥の間へ入るなり。

  態(わざ)と盃をと侯て、振舞を出だし、
  日根野備中、名誉の物切れのふと(太)刀、作手棒兼常を抜き持ち、
  上座に侯ひつる孫四郎を切り臥せ、
  又、右兵大輔を切り殺し、
  年来の愁眉を開き、

道三は、驚いた。

 道三は、長男に裏切られた。
 そして、二男・三男を殺された。
 「生き地獄」
 これ以上の責苦はない。

  則ち、山下にこれある山城道三かたへ、右の趣申し遣はすところ、
  仰天致し、肝を消すこと限り無し。

道三は、山県へ退いた。

 落ち行く先は、大桑城。
 己が殺害した土岐頼純の城。

  爰(ここ)にて、螺(ほら)を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、
  悉く放火し、井口を生(はだ)か城になし、
  奈賀良の川(長良川)を越え、山県と云ふ山中へ引き退き、
                          (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第106話 13上総介信長 6道三の最期 


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