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本能寺の変1582 第107話 13上総介信長 6道三の最期 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第107話 13上総介信長 6道三の最期 

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義龍は、大浦へ軍勢を差し向けた。

 次は、信長。

  軍(いくさ)終り、頸実検して、
  信長御陣所、大良口(岐阜県羽島市正木町大浦)へ、人数を出だし侯。

信長は、および河原でこれを迎え撃った。

 信長は、この動きをいち早く察知した。
 迎撃態勢をとった。
 「足軽合戦」、とある。
 本格的な合戦には、至らなかった。

  則ち、大良より三十町計り懸け出で、
  および河原(不明)にて、取合ひ、
  足軽合戦侯て、
  山口取手介、討死。
  土方喜三郎、討死。
  森三左衛門、千石又一に渡し合ひ、馬上にて切り合ひ、
  三左衛門、脛(すね)の口きられ、引き退く。

信長は、道三の死を知り撤退を決めた。

 道三、死す。
 となれば、「これまで」。
 深入りは、無用。
 即座に、撤退を決めた。

  山城(道三)も合戦に切り負け、討死の由侯間、
  大良御本陣まで、引き入るなり

信長は、鉄炮を手に殿に立った。

 しかし、この退却が難しい。
 信長は、自らが殿(しんがり)に立った。
 ここで、役に立ったのが鉄炮である。

  爰(ここ)にて、大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、
  殿は、信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ、
  上総介殿めし侯御舟一艘、残し置き、
  おのおの、打ち越え侯ところ、馬武者少々、川ばたまで懸け来たり侯。
  其の時、信長、鉄炮をうたせられ、是れより、近々とは参らず・
  さて、御舟にめされ、御こしなり、

道三亡き後の信長である。

 次々に、難題が襲い懸かった。

義龍は、岩倉織田氏を味方につけた。

 程なくして、岩倉織田氏が敵対行動にでた。
 その背後に、斎藤義龍。

  然るところ、尾張国半国の主織田伊勢守、濃州の義龍と申し合せ、
  御敵の色を立て、

  【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 80   

岩倉勢が清州城の近隣に放火した。

 岩倉勢が攻め寄せた。

  信長の館、清洲の近所、下の郷と云ふ村(愛知県清須市春日)、
  放火の由、
  追々、注進これあり。

信長は、即座に、これに報復した。

 岩倉城の近辺に放火。
 やられたら、やり返す。
 戦国の世の、鉄則である。

  御無念におぼしめし、直ちに、岩倉口へ御手遣(てづか)ひ侯て、
  岩倉近辺の知行所、焼き払ひ、
  其の日、御人数御引取り、

信長の周りは、敵だらけになった。

 信長は、道三という強力な後ろ盾を失った。
 その結果、斯くの如し。
 天国と地獄は、紙一重。
 正に、薄氷を履むが如し。

  此の如く侯間、下郡半国も過半御敵になるなり。

岩倉勢が再び攻勢に出た。 

 信長は、岩倉織田氏の動勢を探っていた。

  一、清洲の並び三十町隔て、おり津*の郷に、
    正眼寺とて、会下(えげ)寺*あり。
    然るべき構への地なり。
    上郡岩倉より取出(砦)に仕るべきの由、風説これあり。

     *おり津 同稲沢市下津町。
     *会下寺 会下僧(寺を持たぬ修行中の僧)のいる寺。

 信長は、寡勢だった。
 兵力不足である。

    これに依り、清洲の町人どもかり出し、
    正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出だされ侯へば、
    町人ども、かずへ(数え)見申し侯へば、
    馬上八十三騎ならでは御座なく候(あるかないか)と、申し侯。

 岩倉織田氏は、三千ほどで押し寄せた。

    御敵方より人数を出だし、たん原野(不詳)に三千計り備へ侯。

信長は、これを撃退した。

 信長は、清洲の町人たちを動員した。
 数合わせ。
 見せかけの兵。
 「俄、仕立て」、である。
 斯くして、どうにか切り抜けた。

    其の時、信長、かけまはし、町人どもに、竹やりをもたせ、
    御後をくろめさせられ(取り繕い)侯て、
    足軽を出だし、あひしらひ給ふ。
    さて、互に、御人数打ち納められ、
    ケ様に取合ひ半ばの内、
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく 第108話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 


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