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春日武彦 『しつこさの精神病理 江戸の仇をアラスカで討つ人』 : 復讐するにも我は無し

書評:春日武彦『しつこさの精神病理 江戸の仇をアラスカで討つ人』(角川oneテーマ21 新書)

「しつこさ」については、かなりの自負を持っている。しかし、その反面「忘れっぽい」という自覚もある。これは矛盾したことなのだろうか?
そんなこともあって、本書については前々から興味があったのだが、最近になって、異色の精神科医である本書著者の本を読むようになり、今回はたまたま本書ということになった。要は(シリーズものは別にして、古本で)手に入った順に読んでいるということである。

さて、本書がどのようなことを語った本なのかについては説明は、本書の帯やカバーに刷られている内容紹介文を紹介することで代えたい。

『恨みと復讐の念に苦しむ人へ』(帯・表)
『水に流せないのはなぜか?』(同上)

『 恨みの呪縛で自らを不幸にするのはなぜか?
▶︎「不条理感」と「被害者意識」
▶︎他者の時間感覚をぐらつかせる執拗さ
▶︎ステレオタイプの恋愛妄想
▶︎ストーカーのあざとい自己表現
▶︎心の安らぎはどこにあるか
▶︎恨みの誘惑から脱出する方法 』(カバー背面)

『 我々が他人を深く恨んだり、意趣返しを夢想したり、不条理に絶望して嘆いたり、復讐を心に誓うとき、おそらくそれは、実に不快な形で無力感を実感させられた結果であるに違いない。(中略)だからいかに無力感と共存していくか、手なづけにいくかは人生の大きな課題であり、一方無力感はときに倦怠や自暴自棄に姿を変えて人を惑わせる。(「あとがき」より)』(帯背面)

「恨みと復讐心」ということが本書のテーマとなるわけだが、本書を読んでいて、私としては、かなり本質的なところで、引っかかりをおぼえた。
それは「恨みや復讐心を抱えて生きるなんて、結局は当人にとって不幸なことだ」という、著者の良識的な意見について、一応ごもっともだとは思いはするものの、人は誰でも、好きで恨みや復讐心を持つわけではなく、それ相応の目にあわされたから、そういう感情を持つのであって、それでも、恨みや復讐心を持たない方が幸せなのだから「(苦笑でもして)忘れろ」ということで、果たして済むのだろうか、という疑問である。
それでは「やった者勝ち」ということのなるのではないか?

無論、「恨みや復讐心」に目が眩み、度を失ってしまってはまずい。「恨みや復讐心」を晴らすにしても、やはり、許されて良い範囲と、許される範囲を超えたもの、つまり「やりすぎ」というのはあるのだから、言い換えれば「やりすぎ」にならない範囲内での「報復」なら「許される」し、いっそ「すべき」なのではないか?
要は、「泣き寝入り」の後に「忘れてしまおう」で、本当に済むのだろうか、という疑問である。

こう考えてくると、肝心なのは「泣き寝入りの後に忘れてしまうこと」ではなく、「客観的に正当性のある報復」なのではないだろうか。
その「報復」の中身を聞いて、第三者が「なるほど、それは正当だ」「そうすべきだ」というような「報復」をすべきではないだろうか? また、それができない人こそが「不条理な、恨みや復讐心」を抱えて「暴走する」ことにもなるのではないだろうか?

そして、精神科医である著者は、こうした「暴走=逸脱例」を中心に目にしているから、「恨みや復讐心」と言えば、「不条理な、恨みや復讐心」だと思い込んでしまっているのではないだろうか?

つまり、私が思うに、肝心なのは、「逸脱」にはわたらない、「正しい報復」の範囲規定、ということ。
言い換えれば、なにより大切なのは、感情に振り回されない、冷静な判断による、正当行為としての報復、なのではないだろうか。

しかし、こう書くと、本書著者と同じ立場の人は「恨みや復讐心の不毛さに気づいて、それを放棄することこそがベストだ」と言うのかも知れないが、そもそもそんな「全否定的なきれいごと」は、当たり前の人にも可能なことなのか?
そりゃあ、稀にそれが可能な人、つまり「聖人君子」もいるにはいるだろうが、そんなものは一般化できないのではないだろうか。

キリスト教には『復讐するは我にあり』という言葉がある(新約聖書「ローマ人への手紙」)。
これは「復讐(報復)は、神である私の仕事(天罰)なのだから、あなたがた人間は、復讐などということは考えるべきではない」ということで、復讐を戒める言葉である。
しかし、この言葉の言外に語られているのは「人間には、適切な復讐なんて、できるわけがない」という、人間の不完全性に対する(神の絶対性に立った)認識であろう。

たしかに人間は不完全であり、誤った復讐をすることも多々あるだろう。
しかし、そもそも「神」が存在しないのであれば、悪や誤りを正すのは、人間しかいないだろうし、だから法律を作らなければならなかったのではないか?
存在しない神に期待するのは、現実逃避でしかなかったから、やむなく人間は、自分たちで何とかせずには済まされなかったのではないのか。

だからこそ、私が思うに『大切なのは「正しい報復」の範囲規定なのではないか、ということになる。感情に振り回されない、冷静な判断による、正当行為としての報復、ということだ。』ということになる。

いもしない「神」の裁きに期待して、自分では何もしない、というのではなく、「正しい範囲で、自分でやる」しかない。
そして、それをやったら、それ以上のことは望まずに、諦める。それ以上のことを望むのは、「恨みや復讐心」という感情にとらわれて、自分を、そして他者の権利を見失なっているということなのだから、それは自分に対しても許すべきではない。自分だけを甘やかすべきではないのだ。

つまり、理由があれば「恨みや復讐心」を抱くのは仕方のないことだし、それを頭から「忘れろ」というのは、もともと無理のある話。
だから、最も適切なやり方とは、「正当化し得る報復の範囲」を厳しく自己確定して、その範囲内で「報復」をし、それをやったら、それ以上は「自分に許さない」という厳しさを持つ、というようなこと。自分を無闇に甘やかさない、自己規律心を持つというようなことである。

もちろん、こうしたことは「頭のおかしい人」や「頭のゆるい人」には出来ない。
彼らは、理由があるとは言え、いったん「恨みや復讐心」に囚われると、その感情に囚われて、理性が働かなくなってしまう。常識的、理性的、客観的に考えての「正当な報復」の範囲、などということへの配慮ができなくなって、「自堕落で無制限な感情」に身を任せてしまうのだ。

だから、こうした「自分勝手」については、もちろん私だって認めはしないが、本書著者のように、それとこれとを一緒くたにして、全部まとめて「忘れろ」というのは、実際のところ無理な話なのではないか。
前述のとおり、そんなに簡単に忘れられれば苦労はないが、仮に「恨みや復讐心」を忘れたところで、それは所謂「抑圧」でしかなく、結局は、変形されたかたちでどこかに保存され、違ったかたちで(八つ当たり的に)噴出することになるのではないだろうか?

 ○ ○ ○

無論、著者の言うことは、所謂「正論」である。テレビのコメンテーターが言いそうな「きれいごと」だ。基本的に、今の社会では「復讐」ということは認められていないのだから、それで一応は通るだろう。

しかし、ある男性が、妻子を殺されたとしたら、その犯人(加害者)を「殺してやりたい」と思うのは、ごく当たり前の感情だろう。
しかし、法治国家においては、国はそれを許さない。なぜならば「犯罪」を罰する権限を持つのはあくまでも「国家」であって、国民個々ではないからである。
では、なぜ国家は「仇討ち」的な、国民個々の報復を認めないのかと言えば、国民個々の「暴力行使」を認めてしまうと、「法治国家」が成り立たず、無政府主義的(アナーキー)になってしまうからだ。皆が勝手に、「誰が悪い」かを判断し、その判断に基づいて報復暴力を行使したのでは、国家の存在意義がなくなってしまうから、国家は「法律」を制定し、「裁判制度」を設けて、何が「犯罪」かを国家機関である裁判所が、法に基づいて公正に判断し、独占した「暴力」によって妥当な「罰(暴力)」を与える、という仕組みになっているのである。

そして、このような社会においては、「報復」というのは、国家がその法の定める範囲でしか代行してくれないものであり、それ以上のことを望んでも、その期待には応じてくれない。だからといって、個人で「報復」をしようとすれば、それは「法」に反する「犯罪」ということになるから、今度は、その人自身が犯罪者として罰せられることになる。

したがって、基本的には、法治国家においては、個人による「報復・復讐」は許されない。自分が「反社会的な犯罪者」になる覚悟がなければ、それはやれないのである。
つまり、国家が代行してくれる、加害者への処罰以上のことを求める気持ちを持っていても、それは我慢するしかない。いつまでもそんな「法判断に反した感情」を持っていれば、その人本人が、その「正当には満たされない欲求」に苦しむことにしかならないのである。

そんなわけで、何らかの被害を受ければ、自分が個人的に「報復」するのではなく、国家に対して加害者の処罰を求めるしかないし、それが処罰に値する行為か否か、どの程度の処罰が妥当かの判断は、国家に委ねるしかない。
だが、往々にして、その判断は、被害者が期待するものよりは軽いことが多いから、被害者は、それに不満を抱くことになりがちなのだ。

だが、なぜ「国家」による加害者への処罰が、被害者の期待するほどではないのかと言えば、それは被疑者の多くが求めるものは「報復」だが、国家による「処罰」は、実のところ「報復の代行」などではなく、「社会秩序の維持」をその最大の目的としているからである。
つまり「こんな犯罪を犯すと、こんな処罰を課されることになりますから、法を犯してはいけませんよ」という、犯罪者本人への教育と社会に対する見せしめのためであり、被害者を満足させることが目的ではないのだ。

 ○ ○ ○

したがって、自身が受けた被害に対する「報復」は、どのようなかたちでなら「正当になされうる」ものなのかを考え、その範囲でそれを実行しなければならない。
何もしないで我慢するというのでもなければ、やりたいだけやるというのでもない。一一その意味ではこれは、じつは一番難しいことなのかも知れない。

なにしろ、他人まかせにするのではないから、自分が動かなければならない。あれこれ「恨み言をタレている」だけではなく、何が正当な範囲でできるのかを考えて、その範囲に自制して、具体的な行動を採らなければならない。
そしてそれは、すべては自己責任だから、結果として、うまくいこうがいくまいが、その結果は自分が引き受けなければいけない。言い換えれば「やり過ぎ」れば、今度は自分が「報復」される立場に立たされることになるし、その結果は、当然のことながら、引き受けなければならない。それが出来ないのであれば、そもそもその人には、他人の「過ち」を責める資格などないのである。

しかし、このように考えていくと、「正当な報復」というのは、よほどの「克己心と自制心」に恵まれた人にしか出来ない困難事だということになるのではないだろうか?

例えば、あなたの人生行路において、いきなり目の前に、断崖絶壁の地面の裂け目があらわれたとする。その幅は約1メートル。普通に考えれば、楽に跳び越せる程度のものでしかないのだけれども、その裂け目の深さは目も眩むほどのもので、万が一誤って跳び越え損ねたら一巻の終わり。だから、あなたの脚は、否応なく、すくんでしまう。
さて、この場合、あなたは無理をしてでも、この裂け目を跳び越すべきなのだろうか?

たしかに、そんなものに自分の行手を遮られる謂れはない。自分には、その裂け目を超えて、その先へ進む権利がある。一一だが、これは「権利」の問題ではなく、自分にできるか否かの問題なのだ。

要は、できる人にはできるし、できない人にはできない。
だから、自信のない人は、無理をして跳び越えようとする必要はない。なにしろ失敗すれば死ぬのだから、その選択権は本人にあって、仮に跳び越えることを諦めて、その手前で生きていくことを選んだとしても、誰もそれを責めはしないだろう。

しかし、跳び越えられない人の中には「あいつは跳び越えたのに、自分は手前に止まらなければならないなんて、不公平だ」と考え、その「運命」に対し「怒り」を覚え、そんな運命を与えた神様だか何だかに「恨みと復讐心」を抱くかも知れない。
しかしながら、こうした感情は、それ自体が「不条理」でしかない。正しくやれる者とやれない者の違いというのは確かに存在していて、誰にでも同じようにできるわけではないというのは、偽らざる「現実」だからだ。

だから、出来ない者は、否でも応でも「我慢するしかない」。
しかし、我慢するのは苦しいことだから、できるならば、どんな理屈をつけてでも、自己欺瞞であっても、忘れる方が良い。
その抑圧によって、他のところで、問題が生じたとしても、それはそれで対処するしかないし、最終的には「対処可能な形式」へと変換される(例えば、復讐ものの映画を観てウサを晴らすとかできるようになる)までは、その「感情」を抑圧するしかない、とも言えるだろう。

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そんなわけで、私は「自分の心の安らぎために、恨みや復讐心など忘れてしまえ」という正論が、間違っているとは思わない。
しかし、それを言うだけでは不十分なのではないかと考える。

仮に、著者の正論に納得したらしい、Amazonカスタマーレビューのレビュアーたちだって、他人事のように読んでいるから、ご立派なことが言えるのであって、実際に、自分が不条理な目に遭わされれば、本書を支持したことなど忘れて、とち狂ってしまうのではないだろうか?

例えば、自分は「くだらない喧嘩なんかしない」と言っている人が、いきなり知らない人に唾を吐きかけられて、黙っていられるだろうか?
あるいは「不倫なんてしない」と思っている人が、思いもよらず、自分好みの異性に誘惑されたら、本当に不倫しないでいられるだろうか?

自堕落な欲望の自己肯定が、社会的に許されないことだというのは、分かりきった話である。だから、自己抑制(我慢)というのは、絶対に必要なことなのではあるけれど、何でも我慢できるようには、人間はできていない。
だとすれば、必要なのは「どこまでが我慢すべきことか」をきちんと見定める「強靭な理性」なのではないだろうか。

要は、それがない者は「報復」なんてことは考えないことだ。
そんな人が「報復」を考えると、必ず「やり過ぎ」であったり「筋違いの報復」をすることになるだろう。
そうなれば、その者自体が「恨みと復讐心」を抱かれて然るべき対象となり、「理性」において程度の低いところで、「復讐の連鎖」という「苦痛」だけを生むことになるのである。

じつのところ、こうした「検討」も、「しつこさ」がなければ出来ないことなのだが、あなたには、こんな「しつこさ=執拗さ」があるだろうか?

無いのであれば、悪いことは言わない、「報復」などを考えるのはやめて、我慢した方が良い。それが身のためである。

(2023年9月6日)

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