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人生を大きく変えた、2度の挫折経験


こちらの記事は、自己紹介記事にて省略した、私の人生を大きく変えた2度の挫折経験について述べたものです。

※自己紹介記事は近日公開します。
公開が終わったらリンクをこの位置に貼ります。

「気になるよ!」という方は、このアカウントをフォローして公開を待っていただけると嬉しいです。

内容が繋がっているので、是非合わせて読まれてください。



人生を変えた大きな挫折経験



私がこんなにも大きくて特殊な目標を持ったのには、もちろんそれなりの訳があります。

「思想家になりたい」とか、普通思わないですよね。
自分でもびっくりしています。

(思想家は『なるもの』ではないので、そういうマインドを持って生き続け、作品を作り続けたいという意味です)

私がこの目標を持ったのには、二度の大きな挫折経験が深く関わっています。一つずつ順を追って説明しますね。


 『一回目の挫折』


 「建築士への夢」——3歳から15年間も続いた道


一回目の挫折は18歳のときです。

3歳の頃から15年間追い続けてきた、『建築士になる』という夢を諦めることになったんです。

3歳のときに、保育園からの帰り道に、私は家の近くにあった建設現場を見て『大工さん』に憧れを抱きました。

とてつもなく大きな木材の束をひょいっと持ち上げる人がいたり、上を見上げると足場を忍者みたいにスタスタと歩いていく人影が見えました。

「かっこいい!!!」

彼らの姿はかっこいいもの好きの子供の心を鷲掴みにしました。

幼いながらに『これをやりたい!』と本気で思い、『大工』『宮大工』『建築士(一級建築士)』へと変化し続けたものの、以来高校3年生の夏まで15年もの間目指し続けていました。

それに、これは少し年齢が上がって来てから感じたことですが、自分が作ったものが数十年、下手すると数百年もの長い間、そこに存在し続け、しかも、自分が工夫したらした分だけ人が快適に暮らすことが出来たり、楽しく生活することが出来るということに凄く惹かれたんです。

自分が頑張ったら頑張った分だけ、いい物ができる。
そして、それによって喜ぶ人がいる。

『なんて素敵な仕事なんだろう!』

当時の私は、ここまで綺麗に言語化は出来ていませんでしたが、この仕事に心の底から惹かれました。


詳しくは以下のエッセイに載っているので、興味あれば是非。
凄く短いですが———。



中学校2年生の頃から本格的に勉強を始め、高校の理系特化コースへと進学し、高校の最初の定期テスト期間には週に50時間勉強し始めました。

勉強の鬼にでも憑りつかれていたと思います。

私よりも一日に勉強していた人なんて、ごまんといると思いますが、私なりに全力を毎日出して勉強していました。

ものすごい勢いで私は建築士の夢、具体的にはレベルの高い建築学科への進学に向かって進んでいたのです。

本気で目指していたから。

当時世界中の名建築について詳しかったり、どこの国でどういう建築物を建設してみたいのかというものは、正直あまり良く分かっていませんでした。

今思い返すと、建築士になってからの具体的な計画はガバガバだったのですが、具体的な話は建築学科へ入ってから決めようと思っていました。

今は勉強するほうが先だろうと思っていたんです。

それよりは、海外でも通じるようにと英会話を毎週行ってニュージーランドへ短期留学したり、3年間学級委員をして理系特化コース特有のありとあらゆる行事を仕切ったりと、いろいろな経験まで積んでいきました。

1200人の前で集団でプレゼンをする機会があったり、文化祭の指揮をしたり、韓国の高校とSkypeを使って行う研究発表会の司会を英語で行ったり、本当にいろいろなことをしました。

相当高校生のときに鍛えられたなと思います。
私は順調に高校生活を進めていきました。

たまに歴史の教科書や地理の教科書、英語の教材に出てくる海外の街並みやサグラダファミリアなどの名建築を見てわくわくしていました。

こんなん作って伝説の男になりたい!


「自分もいずれはこういうものを作るんだ……!!」
そう思って胸を高鳴らせていました。


しかし私は、高校三年生の夏に、建築学科への進学を断念せざるを得なくなったんです。

それは、私にある致命的な欠陥があったからです。


 ある致命的な欠陥と挫折


それは、理系的センスです。
私はとにかく、理科科目が苦手でした。

私は特に、どうしても、『物理』が出来なかったんです。数学は好きだったんですが、物理と化学は、どうしても苦手意識が取れなかった。

公式の意味を理解して、回答の導き方を覚えても、なぜか定期テストなどの実践になると頭が真っ白になって「あれ、これどうしたらいいの……」となるんです。

授業を担当してくれていた理系の先生にもよく言われていました。
「理系のセンスがない」と。

クラスメイトは理系特化コースだからか、「問題集の答えを写したら解けるようになる」という凄い人達ばかりでした。

「え、何で——?」
私は不思議で仕方がありませんでした。

しかし、受験では数学や英語の方が配点が高くて重要なので、この二つをメインに高校2年生まで私は勉強し続けました。

学年でも一桁は常連になって、一度校内で2番になったこともあります。

しかし、受験が迫って来て、いよいよ本格的に物理や化学も含めた理科科目の勉強をしなければなりなくなりました。

しかし、勉強すれどもすれども、全く理科科目は点数が伸びませんでした。

もちろん基礎的な問題は解けるようになるのですが、大学受験の本番で出てくるような問題には一切歯が立ちませんでした。

——建築学科へは、進学できないかもしれない。

そういう考えが私の脳裏に段々とちらつき始めました。

少なくとも、世界で活躍できるような建築士になるなんて、無理なのかもしれない。私は額に変な汗をかくようになっていました。

ペンを持つ手が震えます。

世界中で活躍できるような人になるには、優秀な人達が集まる建築学科へ行くべきなのに、自分はそこに全く歯が立たない———。

そして、額に変な汗を書きながら必死に勉強を続けたのですが、あるとき心がぽっきりと折れました。


 文字通りほぼ死にかけの数ヶ月間

私は父親がしていた多額の借金が原因で両親が子供の頃に離婚しています。

ですので、幼少期からそういった話を聞いてきた私は「自分は大人になったら夢を叶えて、立派な仕事をするんだ」と意気込んでいました。

自立して、大きな仕事を手掛けて、自分の周りの人達を幸せにする。

「自分は立派な大人になるんだ!」
——そう思っていました。

家庭の事情についてはこちらに詳しく書いたので、もし良ければ覗いてみてください。あなたもきっと自分の人生を前向きに捉えようと思えるはずです。


しかし、当時それすらも、目の前で崩れていきました。

受験という明確なタイムリミットがある状況で、ただただ何も進まない自分だけを割にしっかりと認識できるのです。

そして、ストレスで毎日泣きながら勉強していました。


本当に、生きた心地がしませんでした。
呼吸の仕方も分からなくなりそうでした。

ずーっと、胸の内側にとげが刺さっているような痛みを一日中感じていて、毎日泣いて過ごしたのはあれが初めてでした。




 本当にやりたかったことって何だ?『夢の本質を見極める』


ただ、ここまで聞いていると「そんなに悩むもんか?」と思うと思います。

高校の物理学が苦手だからと言って、一概に建築士としての素養が全くないのかと言われれば、それは違うと思いますし、いくら理科系科目が苦手だからと言って、別に建築士になれないなんてことはないはずです。

実際、これは親の知り合いの建築関連のお仕事をされている方からも言われました。

「別に高校の物理が出来なくても、建築士にはなれるよ」と。

しかし、実際に優秀な人達が集まるレベルの高い大学へ行くには、受験をクリアしなければなりません。

まずは入口として高校の勉強が出来なければ、お話になりません。

それに、確かに『建築学科への進学』に目的を絞っていく場所にこだわらなければ、問題なく建築学科への進学は可能だったと思います。

しかし、私は『世界中で活躍する』建築士になりたかったんです。

大層なスパイスが人生の目標についていたので、中途半端にやるくらいなら諦めて別の道を探した方が賢明だろうと考えました。

それに、自分がやりたかったことの本質が見えていれば、その本質を捉えた『別のやり方』なんて、たくさんあります。

なので、素直に自身の適性に合ってないなら引っ込むべきだと思いました。





 無知は損ではなく、罪である


しかし、当時の私は建築士に本気で憧れていたからこそ、建築士になること以外の将来の選択肢をほとんど考えてきませんでした。

他の道に見向きもしてなかったんです。


ですから、今目の前で目指していた夢が崩れ去っていくのを見ていると、本当に生きた心地がしませんでした。

それに、高校に入学した当初から全力で勉強していたので、少しずつ周りの人に追いつかれて、追い越されていくような感覚が、凄く怖かったんです。

字面だけ見ると『なんだそれだけかよ』ってなると思うのですが、本当にあの時期はきつかったです。

「若き日に夢に挫折した程度で何をいう」と思われる方もいるかもしれませんが、当時の私にとっては、『建築への道が断たれること』=『全てを失うこと』だったんです。

他に選択肢何ていくらでもあるはずなのに。
無知は損ではなく、罪である。

視野が狭いと本当にろくなことにならないと、この時痛い思いをして学びました。



 結局やりたかったことは何だったのか?


私が建築の仕事に憧れていたのは、本質的には『自分が工夫したらした分だけ人が幸せになる』という創造の余白があることと、『数十年、下手すると数百年もの長い間、形として自分の作ったものが存在し続ける』ことの掛け算に惹かれていたんです。

これらを満たす仕事ややりたいことは他にいくらでもあるのだということを当時の私は知りませんでした。

厳しい受験の世界で受験のタイムリミットが迫っていたので、ゆっくり自身が夢見ていたものの本質を理解しなおすような余裕が全くなかったというのもありますが、私は当時本当に『全てを失った』と錯覚してしまいました。

ストレスや無力感に焦燥感を掛け算すると本当にいいことがありません。
何があっても『焦ってはいけない』と本気で思うようになりました。

死にたいと思ったことは一度もありませんが、どうやって生きていけばいいのか全く分からなくなって、当時はただただ絶望していました。

残りの人生が途方もないものに感じられて、全てを失った無力な自分が残り80年近くもの長い間この厳しい世界で生きていけるとは到底思えなくなったんです。

正直、この世で「死にたい」と言っている人達は言葉通り「死にたい」のではないと私は思います。より正確な表現をするならば、彼らは、「どうやって生きていけばいいのかどうしても分からない」のです。

「死にたい」というよりは、「生き地獄から逃げ出したい」というのが正確な表現だと思います。

あの世以外で逃げる場所があるのなら喜んでそこに逃げ込むと思います。

そして須らく、追い詰められている人達はこの世に存在している『逃げ場』を知りません。真っ暗闇の中に自分だけぽつんと置かれているような錯覚に陥っているんです。



 コロナ鬱の影響でカウンセリングが不可能に


しかし私は、苦しい日々を送りながらも、別に落ち込んだり泣いたりすることが真の目的ではありませんでしたので、何とか早く立ち直るために、母に『心理カウンセリングを受けに行きたい』と相談しました。

(きついときや苦しいときに、『もう無理です』『限界です』と素直に言えるのは私の長所として自負しています)

しかし、その時期には新型コロナウイルスによる『コロナ鬱』の影響か、カウンセリングの予約がどこも2週間先、酷いところでは1か月先まで埋まっていました。

近くにカウンセリングして貰えるようなところが一つもなかったんです。

「みんな病みすぎ!!」

流石に追い詰められていた私もこの時だけは一瞬無になってツッコミました。コロナウイルス恐ろしすぎる……。

完全にお手上げ状態になりました。自分で立ち直ることは当時不可能なように思えてしまっていたので、私はさらに絶望しました。

時間との勝負である受験において、二週間は命取りです。

どうしよう、このまま沈むところまで沈み切ってしまうのだろうか……。

そういう恐怖感が私を襲いました。
このままズルズル沈んでいくと、本当に自分が壊れてしまうかもしれない。


この社会の最も難しいところは、『締め切り』があることだと私は思います。勝負の世界では必ず勝者と敗者がいますし、恐らく大部分の勝敗を決めている大きな要因の一つは、『制限時間』です。

あらゆる物事には、締め切りがあるのです。

時間を大量に投下すれば大抵のことは出来るのでしょうが、成果を期限付きで求められるから、競争社会は厳しいんだと思います。

泣き言をいってウジウジしていたら、冷静に淡々と積み上げてきた人たちにあっさり負けます。

ですから、私は何としてでも早く立ち直りたかった。
――でも、どうすればいいのか分からない。

今まで努力して積み上げてきたものが目の前でバラバラに崩れ去っていってしまう。先頭を走っていたはずなのに、どんどん追い抜かれる。

やめて、置いていかないで!
私は発狂しそうでした。

しかしそこに、一筋の光が降りてきました。
親が、一冊の本を買ってきてくれたんです。




 ある本との出会い


そんなある日、私の絶望っぷりを見かねた母が、心配して一冊の本を買ってきてくれました。この本です。



有名な本なので知っている人も多いかもしれませんね。韓国人のハ・ワンさんが書かれた「危うく一生懸命生きるところだった」という本です。

四十歳を目前に会社を退職し、好き勝手生きると決めたハ・ワンさんの『無理して頑張らない』と決めた生き方が、当時の追い詰められた私の心を癒してくれました。

この本が私を救ってくれたんです。
私は恥ずかしいことに、私はこの本に縋りつきました。

縋りつくしかなかったんです。

カウンセラーの先生に相談出来るわけでもなく、相変わらず受験のタイムリミットが迫ってきていたので、自身の力で立ち直る必要がありました。

毎日この本を持ち歩いて、何か嫌な考えが頭に浮かぶ度にこの本を読みました。

まるで、地獄の底で暗闇に飲み込まれジタバタともがき苦しんでいる自分に一本の蜘蛛の糸が降りてきたような感覚でした。

そして、私は後に建築学科とは違う、別の行きたい学部を見つけました。
それが、今通っている『共創学部』という近年九州大学に新設された学部です。

よく、「共創学部って何するところなの?」と聞かれますが、端的に言うと「国際的な社会問題の解決をすることが出来る人材を育成するところ」です。

(詳しくは次章で説明します)

そしてこの本にしがみ付きながら何とか立ち直って方向転換し、一度は落ちたものの、何とかしがみついて推薦で合格することが出来ました。

対策に付き合ってくれていた先生に合格の知らせをしたとき、泣いて喜んでくれたのが凄く嬉しかったですね、、。

高校のときにお世話になった先生とは稀に温泉に行ったり、同窓会で再会してとても嬉しかったです。

自分一人で生きてきたのではないんだなと、心の底から感じました。




 『二回目の挫折』


しかし、私は大学で二回目の挫折を経験します。

「挫折しすぎ!」と感じると思いますが、私は別にネガティブベースで生きている訳ではないですよ、、笑

ここ数年いろいろと挫折や絶望を味わう機会が多かったんです。
今は、立ち直っていろいろ頑張っている最中です。



  『本物の自由』と『虚無感』


その前に、私が在学している『共創学部』について軽く説明しておきます。
(私の挫折経験を説明するうえで必要なのでいれておきます)


先程説明したように、共創学部は『現代の国際的な社会問題の解決に取り組むことが出来る人材の育成』をテーマに近年、半世紀ぶりに新設された学部です。

例えば、「地球温暖化を解決したい」という目標を取ったときに、地球温暖化にまつわるサイエンスだけ勉強しても、実際に『解決』するところまでは至らないですよね。

実際に『解決』まで持っていくには、具体的な『政策』や『施策』を作る必要がありますし、その施策の影響が及ぶ現地の『経済』に与える影響を加味する必要がありますし、『宗教』との兼ね合いも考えなくてはなりません。

もし仮に、打ち立てた政策がキリスト教の禁忌に触れるような行いを誘発した場合、世界中の人口のうち20億人近くを一気に敵に回すことになります。

これは避けなくてはなりません。

それに、近年の社会問題は、規模が大きくどこか一国が解決に向けても効果がとても薄いです。

ですから、世界規模で解決に向けて動かなくてはなりません。

そうなると、外国語で情報を収集したり、海外の人達とも協力して動ける人材にならなくてはなりません。

ですから、必要な学問の知識も言語も能力も、種類がたくさんあるんです。だから、『全部やろうぜ』というのが共創学部のコンセプトです。

ですから、共創学部の授業は種類が豊富で、学生は自身が取り組みたい課題の種類に応じて、必要な学問を学び、自分なりに解決に向けてアプローチしていきます。

ですから、共創学部での大学生活はとても自由です。
「共創学部」では、自由が一番特徴的なんです。

何を選んでもいい。何をしてもいい。
ただ、その代わり全ては自己責任。

どんな道を選んでもいい。
それが、共創学部の最大の魅力であり、恐ろしいところでもあるんです。




 大学で味わった何物にもなれない焦燥感


ただ、私が共創学部に入って来た一番の理由は『優秀な人達のあいだで刺激を受けながら、新しくやりたいことを見つけたい』というのが正直なところでした。

何か具体的な『この問題を解決したい!』というものはなくて、『人の役に立てる人になりたい』というただそれだけだったんです。

夢を失って、でも人の役に立てるような凄い人になりたいという漠然とした欲求は強くあって、『ここに入れば何か起きそうだ』と、そういった考えで入って来たんです。

大学の中で何か見つけてやろうと、そういう意気込みで入ってきました。
今思い返すと凄く浅はかな考えで入って来たなと反省しています。


ただ、とにもかくにも入って来たからにはここで何かしら取り組まなければなりません。

実際に大学に入学してきて、「君は何をしたいんだ」「何者になるつもりなんだ」ということを絶えず聞かれ、私は焦り始めます。

直ぐに建築士に代わるような目指したいものが見つかる訳もないので、私は完全に路頭に迷いました。

ただただ大学の難しい授業で膨大な課題が出て、それに何とか必死にしがみついてバイトをして、部活に行って、という時間が過ぎていきました。

それと共に膨らんでいく『このままじゃまずい』という実感。
しかし考えれば考えるほど、あまりいい未来が想像できませんでした。

就職活動や大学院進学へ向けての準備はとてつもない労力がかかるはずだから、大学1年のうちからでも「やりたいこと」を決めなければ後々大変なことになることは分かっているはずなのに、全く進まない。

また、タイムリミットです。『締め切り』です。
無力感や絶望に焦燥感を掛け算するという状況に置かれていきました。

ただの一介の大学生に『社会問題を解決する』なんて不可能ですし、結局それっぽく大学生活をこなして就職するのかと思うと心底嫌な気持ちになりました。何もできない無知で力のない自分に腹が立ってきました。

このまま忙しない日々に追われているだけでは、結局何も出来ずに就活に追われて何も為せずに終わってしまう。

焦りが募る一方で、何をすればいいのか全く分からない状態が続きました。




 積極的分離期間へ


そして、何とか耐えながら必死に大学に通っていたのですが、今でも鮮明に覚えていますね、12月の第二週の木曜日、朝の一限に間に合うように大学に向かったのにキャンパスに体が入らなくなりました。

一緒のバスに乗っていた人達はするすると教室に向けて歩いていくのですが、私だけキャンパスと道路の境目に結界が貼ってあるみたいに体が入らなくなりました。

(厨二病の末期患者みたいなこと言ってますが、大まじめです)

私は焦りました。

「ここで立ち止まっていちゃいけない!」

そう言い聞かせて何とか授業がある教室へ向かおうと頑張っていたのですが、どうしても体が動きませんでした。

暫く格闘していたのですが、私は少しして『今は無理せずに、一旦逃げるべきだ』と思い、そこから私は何とか家まで帰って、その後大学に関連するあらゆるものから距離を置きました。



授業へは行かず、パソコンも開かず、部活にも行かず、責任があるアルバイトだけは何とか行って、それ以外は全て寝たり、泣きながら紙に自分の考えを書きだしたりしていきました。

いわゆる、『引きこもり』ってやつですね。
(まさか自分が引きこもりを経験するとは。。。)



実を言うと、入学して五月半ばにはもう限界が来ていたのですが、大学の友人が「入口が地獄だからと言って、そこでの全体が地獄とは限らない」と言われて、何とか留まることにしていたんです。

しかし、何とか自分のモチベーションを保ってくれていた楽しい部活もオフシーズンに入り、何とか仕事を覚えることに必死だったアルバイトも落ち着いてきて、いよいよ私の体を無理やり動かしてくれていた支えが無くなっていったんです。

今思い返すと、心身ともに疲労が溜まりすぎて、体が強制的にストップをかけたのだと思います。とっくに限界を迎えていたんです。



苦しみの先に何かが手に入ると分かっていれば、人は頑張ることが出来ます。何とか耐えることが出来ます。

ただ、当時の私には何も見えていませんでした。




 自身の浅はかさを痛感する


大前提私は共創学部のことが好きなので、批判していると誤解しないでほしいですが、共創学部で生活することは、個人的にはかなりしんどいことが多かったです。

ただ、よくよく考えてみれば、これは私の考えが甘かっただけなんです。

大学生にもなって、周りの環境がおんぶにだっこで自分の進む道を照らしてくれる、助けてくれるなんて、そんな都合のいい話があるわけがないんです。

本物の自由を与えられて、私はのたうち回りました。
ただの山奥で勉強している大学生に、社会なんて変えられるわけありません。

ただ社会に片足を突っ込もうとして現実社会の洗礼を軽く受けただけなんだろうと思います。

何か変えたいなら、まずは自分を変えなくちゃいけない。

私は引きこもっている間に、自己の奥深くと向き合ったり、この社会を冷静に見つめ直してみました。



 今度は本当にカウンセラーの先生に面談をしてもらうことに


そして、私は高校生の頃とは違って、本当にカウンセラーの先生に相談して定期的に面談をして頂くことになりました。

大学のキャンパスライフ健康支援センターというところに連絡して、カウンセラーの方についてもらったんです。

(もし大学関連で悩みがあるんだったら、恥ずかしがらずに素直にこういった機関を頼ることを本当におすすめします。一人で抱えるとろくなことがありません)

定期的に面談をしてもらって、自分自身を落ち着け考えを整理する機会を与えて下さったのは本当にありがたかったです。

カウンセラーの先生には感謝してもしきれません。
やっぱり、人を救える人ってかっこいいですよね。

憧れます。


こうして、私は療養&自己の奥深くや今後の将来について時間をたっぷりかけて向き合ったり考えたりする生活を送り始めました。




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こちらの記事は本編とは関係ありませんが、似た系統のものなので載せておきます。気になれば読んでみてください。





 

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