たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・…

たかぱん

お読みくださり、まことにありがとうございます。プロテスタントのキリスト者・父・塾教師・偏向的な本好きとして、生き生きと歩むことができるような言葉を聖書から誰かに提供できたら、と願っています。書くことに力を注いでおりますが、ここから何かを拾ってくださればなによりです。

マガジン

  • 本とのつきあい

    本に埋もれて生きています。2900冊くらいは書評という形で記録に残しているので、ちびちびとご覧になれるように配備していきます。でもあまりに鮮度のなくなったものはご勘弁。

  • ショートメッセージ

    聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身近に感じられるとお薦めいたします。

  • 教育のはしくれ

    塾産業の中で教育などと偉そうには言いませんが、父親として息子たちと向き合ってきた一人としての体験と意見。時代的に早すぎた「イクメン」としての背景から、言葉を零してみます。

  • 哲学のかけら

    哲学も少しはかじっています。なにもそんなこと考えなくてもいいんじゃない、と言われるところも、でもさ、と考えてみる、それが哲学。独断と懐疑に終わらずに常に自分の至らなさを認めるあたりは、やっぱりカントの精神なのかなぁ、などとも溜息。いま見えているものと違う景色を、楽しみましょう。

  • レスポンス

    礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だと考えました。

記事一覧

『なんやかんや日記』(武田綾乃・小学館)

接点は、やはり『響け!ユーフォニアム』である。専らアニメでしか知らないのだが、多くの青春群像が描かれているのに、それぞれが生き生きと描かれ、それぞれの個性がぶつ…

たかぱん
15時間前
3

言葉を食べて語る先

エゼキエル2:8-3:11    「口を開け、私が与えるものを食べなさい」というそれは、巻物でした。黙示録にも引き継がれた光景です。神の与える巻物を、預言者が食べるという…

たかぱん
1日前
1

知らないこと

やはり、「蠅って、何ですか?」と訊かれたときには、正直面食らった。   ひとそれぞれに、知識も経験も違う。だから、誰それが何々を知らなかった、ということは、たとえ…

たかぱん
2日前
4

自分の足で立ち上がる預言者

エゼキエル2:1-7    祭司の子エゼキエルに、主の言葉が臨み、幻を見せられました。不思議な生き物でした。その遙か上に、人の姿のようなものが見えました。エゼキエルに…

たかぱん
3日前

来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したことを記念する。が、後から身近な教会の説教題などをちらちら見てみたが、真っ向…

たかぱん
4日前
5

力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

◆ペンテコステ?   教会の暦では、「ペンテコステ」礼拝となります。「ペンテコステ」とは何だ? 実は、キリスト教の三大祝祭の一つなのです。訝しく思われても仕方がな…

たかぱん
4日前
4

心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。   プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病…

たかぱん
4日前
13

人からではなく、神から

ガラテヤ1:11-17    パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝…

たかぱん
5日前
1

『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

タイトルが、恰も哲学の問いのようである。スケールが大きいものか、という期待を抱かせるものだが、必ずしもそうではない。サブタイトルに「ミューズの扉を開く七つの鍵」…

たかぱん
6日前
5

真実な言葉の裏

テトス3:1-11    「この言葉は真実です」(8)が強く響きます。この言葉は信じられる、と言い切っています。清々しいものがあります。テトスへの手紙が、信仰者へ、特に伝…

たかぱん
7日前

免罪符

「免罪符」という言葉は、特にカトリックの方面からは、適切な語ではない、と言われるかもしれない。プロテスタント側からの悪いイメージで広まった言葉だ、と見るべきだろ…

たかぱん
8日前
1

あなたのせいで

エレミヤ20:7-13    エルサレムの災難を預言したエレミヤは、神殿の責任者たる祭司パシュフルにより、囚われてしまいます。エレミヤはそこで、主に開き直って言うのでし…

たかぱん
9日前

説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、…

たかぱん
10日前
3

目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタイプがあるように思われる。まず人間的な挨拶から始めるタイプ。人への気遣い…

たかぱん
11日前
5

守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

◆家か妻か 十戒を辿る11週の旅が終わろうとしています。いよいよ最後の戒めとなりました。この第十戒を開くとき、私たちは戸惑います。出エジプト記と申命記とで、始まり…

たかぱん
11日前
2

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8    私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル…

たかぱん
11日前
『なんやかんや日記』(武田綾乃・小学館)

『なんやかんや日記』(武田綾乃・小学館)

接点は、やはり『響け!ユーフォニアム』である。専らアニメでしか知らないのだが、多くの青春群像が描かれているのに、それぞれが生き生きと描かれ、それぞれの個性がぶつかりあい、それでいて心の中に深まる何かが感じられる。こうした描き方ができるのは、たぶん天性のものだと思う。この作品、シリーズで続いていったが、最初のものは21歳で出している。ちょっと妬ましいほどの活躍である。
 
その作者のエッセイがあると

もっとみる
言葉を食べて語る先

言葉を食べて語る先

エゼキエル2:8-3:11 
 
「口を開け、私が与えるものを食べなさい」というそれは、巻物でした。黙示録にも引き継がれた光景です。神の与える巻物を、預言者が食べるという図式。この表現は、神の言葉を自分の内に入れ、自分のものとする、ということについて考えさせます。否、自分の一部が神となり、神の一部に自分がなる、ということかもしれません。
 
預言者は、神の言葉を、イスラエルの家へ行って語れ、と言わ

もっとみる
知らないこと

知らないこと

やはり、「蠅って、何ですか?」と訊かれたときには、正直面食らった。
 
ひとそれぞれに、知識も経験も違う。だから、誰それが何々を知らなかった、ということは、たとえ意外に思っても、それをとやかく言うべきではない。私もまた、無知の極みであるのだ。偶々、自分の知っていることだけを能弁に語るから、物知りのような演技をしているに過ぎない(このことは、物知りで知られる地元人気タレントのカミングアウトであった)

もっとみる
自分の足で立ち上がる預言者

自分の足で立ち上がる預言者

エゼキエル2:1-7 
 
祭司の子エゼキエルに、主の言葉が臨み、幻を見せられました。不思議な生き物でした。その遙か上に、人の姿のようなものが見えました。エゼキエルに向けて語り始めます。「自分の足で立ちなさい」と、エゼキエルはそれを聞きます。しかし、「霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」などと言っています。
 
これは、自分の足で立ったことになるのでしょうか。主は自ら命じておきながら、立ち上

もっとみる
来たれ聖霊よ

来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したことを記念する。が、後から身近な教会の説教題などをちらちら見てみたが、真っ向から聖霊の話をしている教会は、あまり見かけなかった。しかしここには、ルカの描いた事件を辿ることなくして、いまここに働く聖霊の力を届ける説教があった。
 
聖霊降臨の有名な場面は、ルカと称される記者だけが記録する。しばしばそこから、ペンテコス

もっとみる
力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

力を受けて (使徒1:5-8, エゼキエル2:1-8)

◆ペンテコステ?
 
教会の暦では、「ペンテコステ」礼拝となります。「ペンテコステ」とは何だ? 実は、キリスト教の三大祝祭の一つなのです。訝しく思われても仕方がないような、知名度です。「クリスマス」は早くから日本でもおなじみになりました。大正期でしょうか、激しいブームすらあったのだとか。もちろん、宗教的な意味合いではなかったのでしょうが、良かれ悪しかれ「クリスマス」は知られるようになりました。近年

もっとみる
心を病む牧師

心を病む牧師

牧師自身の心は、誰が世話をするのだろうか。
 
プロテスタント教会では、牧師という。礼拝説教を担う。教会員の魂の配慮を司る。教会を訪ねる人を迎える。中には、心を病んだ人も来る。そもそも自分の罪に気づいたからこそ、聖書や教会を求める、というのが筋だ。心の悩みをもつのは当然かもしれないし、実際精神疾患を患っている人も来るだろう。
 
だから牧師は、カウンセリングも学ぶらしい。「牧会心理学」などの名前で

もっとみる
人からではなく、神から

人からではなく、神から

ガラテヤ1:11-17 
 
パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝聞の宗教を信じてしまうことが、世間では多いのです。人を信用することは美徳なのかもしれないのですが、殊神の事柄については、大きな誤りとなりかねず、危険が伴います。
 
パウロは、「イエス・キリストの啓示を通して」福音を受けた、と言って

もっとみる
『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

『音楽とは何か』(田村和紀夫・講談社新書メチエ521)

タイトルが、恰も哲学の問いのようである。スケールが大きいものか、という期待を抱かせるものだが、必ずしもそうではない。サブタイトルに「ミューズの扉を開く七つの鍵」という言葉が見える。ギリシア神話の音楽の神である。実は音楽に限らず、文芸から舞踏など、広く芸術にまつわる神の名であるが、通常音楽をメインに私たちは捉えている。だからmusicなのである。但し、ギリシア語では「ムーサ」が神の名であり、9人の娘

もっとみる
真実な言葉の裏

真実な言葉の裏

テトス3:1-11 
 
「この言葉は真実です」(8)が強く響きます。この言葉は信じられる、と言い切っています。清々しいものがあります。テトスへの手紙が、信仰者へ、特に伝道者へ向けてのマニュアルのような役割を果たすとすれば、伝道をするべく立てられた専門家はもちろんのこと、信じる者すべてに、このメッセージが刻み込まれていなければなりません。
 
「これらのことを力強く主張するように願っています」とあ

もっとみる
免罪符

免罪符

「免罪符」という言葉は、特にカトリックの方面からは、適切な語ではない、と言われるかもしれない。プロテスタント側からの悪いイメージで広まった言葉だ、と見るべきだろうか。しかしそう言うと、そもそも「プロテスタント」という呼称も、いわば悪口である。だからそちらに走っていくのを一度止め、「免罪符」または「贖宥状」の、本来でないかもしれないが、一般にもたれがちな理解に戻ろうと思う(宗教的な意味から離れること

もっとみる
あなたのせいで

あなたのせいで

エレミヤ20:7-13 
 
エルサレムの災難を預言したエレミヤは、神殿の責任者たる祭司パシュフルにより、囚われてしまいます。エレミヤはそこで、主に開き直って言うのでした。「主よ、あなたが惑わした」のだ、とぼやきます。主のせいだ、あなたのせいで、私はこんな酷い目に遭っている。一日中笑いものだ。しかし、私は語らねばならない。主の言葉を、受けたままに。
 
主から与えられた言葉を、そのまま正直に伝える

もっとみる
説教と礼拝

説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、というニュアンスがそこには漂うことと思う。
 
キリスト教会で「説教」があるよ、などと告げると、その瞬間に伝道が終わってしまうかもしれない。信徒にとっては、大切な「説教」。あるいは教団によっては、「宣教」の方を好む場合もある。「説教」は教え

もっとみる
目を覚ますことと祈ること

目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタイプがあるように思われる。まず人間的な挨拶から始めるタイプ。人への気遣いからかもしれないし、講演会ならばそれでよいかもしれない。また、いきなり何かの話題から入るが、本題とは違うところから入るタイプ。新聞のコラムに多い。そこからやがて、本筋へと繋がる脈略が生じる。落語では最もポピュラーな入口かもしれない。そして最

もっとみる
守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

◆家か妻か

十戒を辿る11週の旅が終わろうとしています。いよいよ最後の戒めとなりました。この第十戒を開くとき、私たちは戸惑います。出エジプト記と申命記とで、始まりから大きく違うのです。
 
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト20:17)
 
隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを

もっとみる
立ち上がらせたのは幻

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりま

もっとみる