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常識破壊と、常識正し!

更地は、常識を建てる場所として必要に成ってくるので、終末のおりには、それまでの常識を破壊して、新たに、はじめから、作る為に、常識を改め、見直すと言う事が、必要である。

たとえば、セクハラ、パワハラ、ハラハラ、等々や、ジェンダーの
問題で、発言一つ、身動きが、容易で無くなって来た現在こそ、正義を正義、悪を悪としていた、根拠なき根拠を見つめなおし、たとえば、ヒットラーを、あるいは、やくざ、暴力団を、たとえば、麻原彰晃を、たとえば、ジャニーきたがわを、悪と言う、くくりの中から解放し、人間の、本当の、問題点を、見直し、考え、改めるべき所は、改めるべき所として、改めていかなければ、ならないところまで、来ているのでは、ないだろうか?
それまで、セクハラ、パワハラの問題が異次元の中で現に存在して居る事を理解しなかった私は、最初は、セクハラ、パワハラが出た当初から、人間の自然な営みに、極論的に正当性を振りかざすのには、反対だったが、ただ、誰しも、嫌なものはいやであり、きしょいものは、きしょい、と言う事を理解すれば、パワハラ、セクハラも、根拠なき事ではないと知ったが、しかし、本当に、純な田舎育ちの、人情的行為を、ハグとせず、セクハラ、パワハラとして我々、田舎者勢を責めるのは、やはり、違うのでは、ないだろうか?

我々、生命は、弱肉強食ではあっても、お互いが、お互いを思いやって、初めて生きていける。
たとえば、ライオンは、めったやたらと捕食しないし、する時も、ターゲットと弱点、急所を一撃で留め死にゆく者を苦しめないどころか、仏教帰依させ「ない」の世界で永眠させる。
話は変わるが、存在では、対立する意見があっても、当然では、あるなれど、だからこそ、お互いの、妥協点を見出して、出過ぎた釘は、出過ぎた釘としてちゃんと、打ってもらい、本当の、高さと言うモノを、指摘しあって、争うのではなく、協議として、適切に、指摘しあえる中となるべきであると、考える、
しゃぶや、薬物の問題、たばこの問題、ジェンダーの問題、入れ墨の問題、いかさまの問題など、様々に、微妙な問題はあるにはあるが、一体、何が、微妙であるのか?そうであるなら、何が、確かに、なれれば、問題はないのであるかを、把握し、そうであるから、荒治療に、厳しく、躾(しつけられた方が、難無きに有りけりなのである。



しかるに、しかるに、しかるに、である。
手加減を望む声もある。また、しつけが、ひどければ、苦情もくるであろう。

そもそも、存在における問題点は、しあわせでなければ、生きてはいけないと言う正論である。
存在は、元々矛盾しており、何もなければ、それで完璧だった。
しかるに、存在がある事を、知らされてしまった我々には、もはや、ないは、ありえない、必ず、再び、意識を拾う。なぜなら、時はあくまで、無限であり、これと、同一で、あり続け「ない」ままでいられるはずが、ないからである。
「ない」とは、無感覚であった時の事を、実際にあるのと、区別して「ない」と言うのであるが、本来、すべてが、存在であり、有ると言う事から逃れる術は、あり得ない。なぜなら、もし、「ない」が、真実、ありえたなら、その真実は、有った時もあると、我々が証言台に立たされるが故、有った時は、有ったという以前から、証言台に立たされる時点で、存在して居る事を、証明しているのであるから、「ない」と言う真がない事は、あきらかであると言うよりしょうがない訳ある。
そして、すべては、意識であり、感ずるがゆえに、存在してしまっている。「ない」と言う真が、あり得たなら、たえきれなくとも、耐える軌跡を描く場合もあるが、しあわせでないなら、「しね」の一言で、かたずくほど、過酷な現実でもあるのです。
しかし、わたしの為にいっておく。とにかく頑張れ!そしてあくまくまでゆずりあえ。

話はもどるが、ヒットラーにせよ、麻原にせよ、その罪の原因は、過度の脅迫観念であったのであり、確かに、殺された遺族には、申し訳ないが、彼らには彼らの、どうしようもない言い分もあり、最後の審判であるコロナ時代、および、弥生計画つまり、あまねく生きる八色人からの時代においては、歴史の影に隠れて、生きるのではなく、歴史と言うドラマを演じた役者面々として、再登場し、最後の審判があった事を裏で付ける出来事も、ちらほら耳打ちしてこなければ、まだ、試験の最中であり、解くべき課題が残っているためと言えるだろう。

薬物、入れ墨、ジェンダーなどの問題は、自由と、社会の理解の間での事によるが、入れ墨、タトゥーは、ともかくとして、掛け違えたボタンをそのままに、しておきたいなら、それは、それで結構だし、同じ宿命の者への援護射撃として、主張、反発、団結しても、一向に、かまわないが、ただしく、着なおせると言う事実も知っておくべきだろう。と付け足して
ひとは、ある意味、神でもあり、何にでもなれる点において、両性を所有している。
かけ間違いととらえるか。生まれつきの個性と捉えるかは個人の判断であるが、あえてわざと間違えたままにして置くほど、大事にしておきたい、要素でもないのに、何故、みずからもチャップリンを演じたいのか今一度、自己の理性と相談してはどうだろう。
しかし、あえてこだわる必要もなく、たばこにこだわるように、ありのままを受け入れても、いいのはいいが、個人が個々選択するところでは、あろう。
一つ外部をきずつけたので、わたしも、白状しよう。
わたしは、必要でないなら風呂には、入りたくない不潔者(ふけつもの)だ!

わたしが、現在の人生の60歳の序盤、突如として、数式解体、科学式解体と証し、あり得ない計算式を解いたことから始まったが、この世の次元においては、現在、過ち80%の数式であるが、解いた。
それは、100/100÷1=1=100/1÷1×1./100=100/1÷1/100=100/1÷100/1=10000/1=10000
と言うものであった。
この数式の発見当初、この数式は、オリジナルで、目を引いたが、もはやありふれているのかも知れない。

それよりも、何よりも、常識破壊として、ゲっとさせる事で、日増し改める時が来ている事を知らせる為に成していた行為であったが、ただ、間違いだったとしても、それは、この世においては、と言う事であり、夢の中で辻褄のあっていた事が、目覚めると、でたらめだったと言う様に、この世界を解脱した世界においても通用するとは、行かないのと同じ事が、この数式については、そう言えるものである。
とにかく、正義と悪、善と悪は、コインの裏表であるだけに過ぎず、悪が、悪くて、あるいは、悪が悪ゆえに、いけない訳ではない事を、善も正義もお人よしさんも、痛い目を見る前に、常識を疑えと言っておきたい。
おどして来たのは、健常者と呼ばれる精神薬を必要としない者たちの方からであり、薬を飲まないなら注射と脅して来た健常者の方であり、また、国のお陰で、幸せに成れるところを、福祉のくせに、パチンコ、麻雀と、障害者の仕事に文句を付けて来た方であり、障害者が、同等の働きをしても、普通よりうんと低い給金でしか雇わないほうである。
また、やくざと言うだけで、反社会勢力として締め出す社会の罪、とが、ゆえである。
反社会勢力との関わりを否定するサービスは、マクロスによって粉砕されるであろう。
自分たちさえ幸せならばそれで良いとする、自分本意な思考、態度が、もたらす苦境、それは、自分の性であるのだから仕方のない事である。


面倒では、御座いましょうが、お心使いお願い申し上げます。発表する場合が、ありますので、匿名希望の方は、匿名とお申し付けください。