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中村哲 『アフガニスタンの診療所から』 : 私たちの〈正義〉について

書評:中村哲『アフガニスタンの診療所から』(ちくま文庫)


まるで、目の前に刃を突きつけてくるような本である。
もちろん、その向こうには、中村哲の、すわったような鋭い目がある。

私たちは、この情報社会にあって、多くの情報を得ており、それらに対して、良心に基づく「常識的な判断」をそれなりにくだしながら生きている、ように思っている。
しかし、本書を読むと、やはり私たちの「良識的判断」が、多くの「偏見」を含んでいることに気づかされる。例えば、一一「男女同権」などがそうだ。

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私たちはそれが、普通に考えて、つまり個人的な欲望を排して客観的に考えるならば、それが絶対的に「正しい」ことだと考えている。
実際、客観的には、それは「正しい」ことだと、私も思うし、その意味で「男女同権」は、この世界のどこにおいても実現されなければならない理想だとも思う。

だから、本書著者が長年、医療援助活動に携わったイスラム教国であるアフガニスタンにおいても、「男女同権」は実現されるべきであろうと思う。
だが、問題は、一一それが「正しい」ことだからといって、力を持って押しつけることが「正しい」のか、という問題だ。

『 一九八九年、預言者マホメットを冒瀆するとされた出版物、『悪魔の詩』(サルマン・ラシュディ)に抗議するデモがイスラム世界全体であれた。イランの指導者ホメイニ師は著者に死刑を宣告した。同年二月にペシャワールの英国領事館が爆破された。「言論の自由」をかざす西欧近代と、それにはかえがたいものを守ろうとするイスラム社会との対立であった。
 だが、たとえイスラム側の過剰反応であっても、そこに欧米側の思慮と内省が働いていたとは思えない。サッチャー元英国首相はなどは、「共産主義がたおれたあとはイスラム社会が敵になる」と語るありさまであった。
 当時のイスラム教徒の心情は、一昔前の日本で、神社の御神体や寺の仏像に、突然外国人がおしいって小便をかけれた感じにちかいであろう。それが出版物というマスメディアで大規模にやられたと思えば、ある程度想像がつくにちがいない。偶像を否定するイスラムにおいて、コーランの句は御神体以上のものである。「ことばの命」が、現代社会において、氾濫する情報で麻痺したことをかえりみるものは少なかった。「ことばは命であった」(新約聖書・ヨハネ伝第一章)とは、ほかならぬヨーロッパ精神文明の基調でもあり、「近代化」はそれをさえむしばむるものをはらんでいたことは、ほとんどかえりみられなかった。
 重要な点は、抗議の暴動は政治的にあおられたものではなく、ごく自然発生的なるものだったことである。我われは時局がら、意外なはげしさと拡がりに不吉なものを感じていた。ペシャワールではほとんど見聞きしなかった外国人への襲撃・誘拐が頻発するようになったのは、その直後であった。

 明けて一九九〇年四月二六日、ペシャワール市内のナセルバーグ・キャンプで暴動が発生した。ムッラー(イスラム僧)に扇動されたアフガン難民約一万人が英国系NGOを襲撃、略奪のかぎりをつくした。これによって同団体のプロジェクトは壊滅。カナダ・米国大大使館は「パキスタン連邦政府の管理不行き届き」に抗議した。パキスタン連邦政府の難民コンビニコミッショナーは表向き遺憾の意を表明したが、事実上沈黙した。
 ねらいうちされたのはたいていが「女性の解放」にかんするプロジェクトであった。そもそも伝統的イスラム社会では「女性」について外来者がとやかくいうのはタブーである。「胸をはだけて歩く女性の権利」や、自然の母性を無視してまで男と肩をならべることが追及される「男女平等主義」こそ、アフガニスタンから見れば異様だとうつる。問題は、このてのプロジェクトが自国受けするテーマとして選ばれたことと、「女性を虐待する許しがたい社会の是正」が錦の御旗としてかかげられた点である。「文化侵略」とうけとられても不思議とは思わない。動があれば反動がある。女性がより自然に社会進出する傾向は、これによって逆につみとられしまった。』(P120〜129)

若い頃からの読書家である私は、『悪魔の詩』事件についても、当時からその展開には興味を持っていた。
同書の邦訳者が、何者かに殺された事件は、私が邦訳書(1990年)を買った後の話だ。同書は今だ未読ではあるが、今も家の中のどこかで、積ん読の山に埋もれているはずである。

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『悪魔の詩』がイスラム圏で問題視されているという話は、翻訳書が刊行される段階で、すでに「煽り文句」のひとつであったと記憶するが、イランのホメイニ師がラシュディに死刑宣告をしたとかいう話は、邦訳書が刊行される前だったか後だったか、定かな記憶はない。

ともあれ、未解決事件ながら同書の邦訳者が殺害されるという事件には驚いた。『悪魔の詩』が問題となっているというのは、遠い西欧世界とイスラム世界の話であり、まさかこの日本で何かが起ころうなどとは、若い私には想像もできなかったからだ。
犯人が捕まっていない以上、殺害の動機が何なのか、そもそも殺害犯がイスラム教徒なのかどうかも不明なままの迷宮入り事件だが、私も含めて、多くの日本人は、この事件にイスラム教の「野蛮さ」を感じたのは間違いなかった。

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しかし、中村哲が言うように、よくよく考えてみれば、私たちは、自分たちの価値観で「イスラムにおける神聖冒瀆」の重さを測っていた、というのも間違いはないはずだ。「いくら大切な信仰にケチをつけられたからって、それで殺してもかまわないなんて、何と野蛮なんだ」という感想は、あくまでも「進んだ」私たちの価値観による判断でしかない。

そもそも、人間にとっての「信仰(対象)」というものは、長らく「自分の命(人間の命)」以上のものであったのだから、イスラム教徒が今もそういう考えを持っていたとしても、何ら不思議な話ではない。

また、私が「宗教批判者」であるのも、「宗教」というものが「それほどまでに強力なもの」だからこそであり、また、日本人がそのことに、あまりに無理解・無頓着だからだ、と言っても良い。
個々の「宗教(宗派)」について「その教えが、正しいのか否か」という価値判断以前に、「宗教」が「人間の命以上のもの(真理)」だというその絶対的価値観において、私は「宗教」を批判しているのである。

ともあれ、これは「いずれかが絶対的に正しい」ということではない。だから、難しい。
こうした個々人の「価値観」というものは、何に価値をおくか、何が人間や人間社会にとって重要か、といった価値判断によって、どうにでもなる「相対的なもの」であって、絶対的な「正義」など存在しない。

そもそも、人間という存在自体が、他の生物にとっては「邪悪」なものであり、絶滅した方が「全体の利益に適う」という考え方だって可能なのだから、「人間全体の利益」から考えて、ある考え方が「正しい」と考えられたとしても、だからこそそれは「邪悪なものを繁栄させる、邪悪な考え」だと、そう否定することだって可能なのだ。

つまり、この世には「絶対的な正義」など無い。
例えば、「他人を愛し、他人のために生きる生き方」であったも、それは「人間的価値観」の中において、相対的に高い価値が与えられているだけであって、「絶対的な正義」ではない。
とっさには考えにくいことかもしれないが、「他人を愛し、他人のために生きる生き方」だって、時には「悪」になることがあり、価値観の異なる者にとっては「邪悪」だと映る場合も、決して珍しくない。例えば、テロリストというのはたいがい、「誰かへの愛のために、誰かを徹底的に憎む」人たちなのである。だからこそ、しばしば自分の命さえ捧げることができるのだ。

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では、この「絶対的に相違した価値観の林立」状態において、私たちはどうすればよいのか。
それはたぶん、「話し合い」による「価値観の争闘」しかないだろう。「自分の価値観が正しいと思うのであれば、こちらを説得してみせよ」ということである。
それだけが、何とか「異なった価値観の接点」となりうる「非暴力的な方法」なのではないだろうか。

そして、そう考えた場合、「男女同権」も、所詮は、こうした「絶対的に相違した価値観の林立状態」における「ひとつの立場」にすぎず、それを絶対化することは間違いだ。
だから、「男女同権」という考えが「正しい」と思うのであれば、「男女非同権」だと信じている人々を、話し合いによって「説得」しなければならないし、できるはずなのである。

無論、それは一朝一夕にできることではなく、おのずと時間と根気のいる労作業だ。
だが、だとすると、こうした「説得」作業に対し、「そんな悠長なことを言っている間にも、現に差別に苦しんでいる女性が大勢いるんですよ。あなたは彼女たちを見殺しにするしかないと言うんですか」と非難する人が出てくるだろう。確かに、そのとおりである。

ならば、その非難に対して、私ならどう答えるか。
「そうなってでも、話し合いするしかないでしょう。話し合いの間にも犠牲になる人は出る。だが、これは受け入れるしかないことだと思います。私たちが、他の生物を食べないでは生きられないのと同じように、私たちは、他者の一切の犠牲なしには、生きられない。私たちができるのは、それを最小限度に止めようとする努力だけなのではないでしょうか。実際、話し合っている暇などないとおっしゃるあなたは、では、どうなさるというのですか? 話し合っている暇などないから、力づくでも「男女同権」に従わせるとおっしゃるのですか? でも、それは、こちらが暴力的に優位にある場合にしか採れないやり方であり、言い換えれば、私たちがその力を持たない時には、他者から暴力的に価値観を押し付けられても、仕方がないから受け入れるし、それが正しいと、そうおっしゃるのですか? そんなことはないはずです」一一と、こんなふうに反論するはずだ。

西欧世界が、そして日本が、イスラム教圏の「男女不平等」を批判し、アフガン戦争で疲弊したアフガンに「男女平等」を持ち込もうとするのは、実際のところ、人の弱みに付け込んで、力で「男女同権」という「こちらの価値観」を押しつけることでしかない。だから、反発もされるし、恨みも買うのである。

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これは『悪魔の歌』問題だって同じだ。
結局のところ、私たちに「たかが小説じゃないか」という気持ちがあるから、「神聖冒瀆」を理由に「死刑宣告」など「野蛮」極まりないと思うけれど、彼らにとっては「たかが小説」などではないというのは、中村が指摘したとおりなのである。

彼らは『悪魔の詩』が、彼らの信仰を、同時に彼ら自身の尊厳を踏みにじるものだと感じ、そう考えたからこそ、あのように激しく反発したのであり、それは決して「理不尽」なものではなかった。理不尽だったのは、彼らの価値観に、十分な配慮をしなかった、する必要を認めなかった、傲慢な私たちの方なのである。

もちろん、私たちの価値観の範囲内においては、「言論の自由」は、絶対的に守らなければならない。実際には、そうでないからこそ、「言論の自由」は徹して守られなければならないのだけれど、それは、私たちの価値観の「外」にいる人たちに対しては、「無条件に押しつけることのできる絶対的価値=絶対的正義」ではない、ということを心しなくてはならないのである。

無論、私も、自分の価値観が合理的なものだと信じてこのように書いているのだが、しかし、それがどの程度、合理的に「正しい」のかということは、結局のところ、違った価値観と、実際に向き合わないかぎり、わからないことなのではないだろうか。

「話し合っている間にも犠牲者は出る」というのは、事実である。
けれども、それを理由に、話し合いを省き、力で「一方的な正義」を押しつけようとするならば、そこに存在するのは「力の正義」でしかないだろう。

そして、「力の正義」を語る人が、私たちの世界において「正義を語る資格を持たない」というのが、「私たちの正義」なのではないだろうか。

だとすれば、私たちは、どのような犠牲を払ってでも「話し合わなければならない」。
「結果」がどうあれ、それだけが、最後に残された「私たちの正義」だと言えるのではないだろうか。

(2022年9月10日)

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