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犬童一心監督 『ジョゼと虎と魚たち』 : 障害者とハッピーエンド

映画評:犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』(2003年・日本映画)

ここ数年来の話だが、「映画」というものの全体像に興味を持って、古今東西の作品をあれこれピックアップして見るようになった。そこで、これまではほとんど見てこなかった「日本の劇映画(実写映画)」の中でも、かつて「気になった作品」くらいを見てみようという気にもなった。
その第1弾が、本作『ジョゼと虎と魚たち』である。

公開当時からこの映画の評判は聞き及んでいたし、その奇妙なタイトルが気になって、ずいぶん前にネット検索してみたところ、田辺聖子の同名短編恋愛小説を原作にした作品だというのも知った。

ただ、それでも私が意外に感じたのは、田辺聖子というのは「大阪のブスなおばちゃん小説家」であり、「恋愛小説の名手」だとは知っていたのだが、それでも「大阪のブスのおばちゃん」というイメージからか、「大人の恋愛」小説を得意とする人、という印象があったのだ。そのため、本作のような、二十歳前後の「若い男女の恋愛映画」の原作者が田辺聖子だったというのは、すこし意外に感じられたのである。

もちろん、田辺聖子にも若い頃があったのだし、「大阪のブスなおばちゃん小説家」が「若者のおしゃれな恋愛」を描いても、何も不思議ではないのだが、やはり「イメージ」というか「偏見」というか、そういうものの力は侮りがたいものだったのだ。

ところで、本作を見てまず思ったのは、主演の妻夫木聡が「若い」ということだ。
長く続いている「ジャンボ宝くじ」のTVコマーシャルで「お兄ちゃん」役をやっている彼なのだが、童顔の美男も、さすがに四十の声を聞いた後では、「お兄ちゃん」と呼ぶには、いささか苦しくなってきている。
しかし、本作での彼は23歳で、主人公・恒夫とほぼ同年の本物の若者だから、「若い」し、やっぱり「私好みのイケメン」だと、あらためて感心させられた。

「私好みのイケメン」というのは、こういう美青年なら「抱きたい(抱かれたい)」とかいった話ではなく、「生まれ変われるものなら、こういう容貌に生まれ変わりたい」という意味である。
田辺聖子について「大阪のブスのおばちゃん」などと失礼なことを書いたが、もちろん私自身、長らく「大阪のブスなおっちゃん」だったし、今や「ブスもへったくれもない、小汚いじいさん」になっているのだから、遠慮なく「理想」を語らせてもらえば、「生まれ変わるのなら、容貌は妻夫木聡」ということだったのである。

(デビュー当時の妻夫木聡)

もちろん、妻夫木聡の人間性など知らない。だが、その容貌や表情などからうかがえる彼の性格は、いかにも好ましいもののように思える。つまり、そういう「印象」を与えるというところまで含めて、彼の「容貌」が、私のベストなのだ。

もっとも、もっと「のっぺりした顔」のアイドルが人気を博す昨今であれば、今の若い人には、妻夫木聡の顔は「濃すぎる」と映るのかもしれない。
だが、少なくとも私個人や、同世代の多くにとっては、「可愛らしさと色気と端正さを兼ね備えた」彼の「容貌」は、かなり理想的なもので、彼が、三島由紀夫原作の映画『春の雪』に主演したのは、いかにも「さもあらん」とそう思った記憶が、はっきりと残っている。2000年代の彼は、同世代や少々年長の男から見ても「理想的に美しい容貌」の持ち主だったのである。

だがしかし、私は「小説」であれ「映画」であれ、「恋愛もの」が苦手なので、本作を見て「いわく言いがたい魅力がある」とは思ったものの、当初は、それをどう言葉にしていいのかわからなかった。少なくとも「批評」にまではならないのではないかと、そう危惧されたのだ。

本作でいちばん「引っかかった点」とは、妻夫木聡が演じる青年「恒夫」が、いまいち「何を考えているのかわからない」ところであった。
なぜ彼は「ジョゼ(本名・クミ子)」に惹かれたのか。惹かれていながら、結局は別れて、別の女の子(香苗)のもとへと去ったのか。また、それでいながら、彼はなぜジョゼのことを引きずり続けたのか。一一そんなことだ。
彼のやることは、どこか「不徹底」であり「不安定」で、そこに「一貫した理路」が見出せなかったのである。

無論、「恋愛とは、そんなものだ」と言ってしまえば、その通りではあるのだが、しかしそれでは「批評」にはならない。
恒夫の、そうした「揺らぎ」の意味を説明できなければ、この作品を論じたことにはならないと思い、あれこれ考えているうちに、ジョゼの「変わった性格」を合わせて考えれば、この「謎」は解けると気づいたのである。

 ○ ○ ○

本作の「あらすじ(実写映画)」は次のとおりである。

『恒夫は、雀荘でアルバイトをしている大学生。最近、卓上で話題になっているのは近所に出没する婆さんのこと。その老婆は乳母車を押しているが、乳母車に乗せているものがわからないというのだ。恒夫はある日、偶然老婆に遭遇し、乳母車に乗っているのが少女であることを知る。それが、ジョゼとの出逢いだった。足の不自由なジョゼは外の世界をほとんど知らなかったが、恒夫と出会ったことで様々な経験をする。恒夫はジョゼのことを愛していたものの、障がいのある人間と向き合う責任、ジョゼを抱えきれない自分への弱さから涙を流す。』

(Wikipedia『ジョゼと虎と魚たち』

本作を「語る場合」に、ほぼ間違いなく強調されるのが、ここでも言及されている「障害者」問題である。
つまり、本作において、「恒夫がジョゼへの愛を貫徹し得なかったのは、障害のあるジョゼを一生ささえていくという自信を持てなかったからだ」といった解釈が、その一般的なものであろうし、上に引用した「Wikipedia」の「あらすじ(実写映画)」も、その線でまとめられたものだと言えるだろう。
一一だが、私に言わせれば、それはあまりにも「皮層的な見方」であり、作品解釈として「まったく不十分」だと思う。つまり、恒夫を揺るがせ迷わせた「ジョゼの(背負い切れない)重さ」というものは、そんな単純ものではない、ということなのだ。

ジョゼの存在感を考える上で、ここではさらに、「原作小説のあらすじ」を紹介しておこう。

『下肢麻痺の山村クミ子はジョゼと名乗り、生活保護を受ける祖母と二人暮らし。祖母はジョゼを人前に出すのを嫌がり、夜しか外出させない。ある夜、祖母が離れたすきに何者かがジョゼの車椅子を坂道に突き飛ばす。車椅子を止めたのは大学生の恒夫だった。それをきっかけに恒夫はジョゼの家に顔を出すようになる。ジョゼは恒夫を「管理人」と呼び、高飛車な態度で身の回りの世話をさせる。恒夫は就職活動のためジョゼの家から足が遠のく。市役所に就職が決まり、久しぶりにジョゼを訪ねると、家は他人が住んでおり、ジョゼは祖母を亡くして引っ越したという。

引っ越したアパートを探し当てるとやつれたジョゼが杖をついて出てくる。ジョゼは引っ越しのため家財道具を売り払い、二階に住む「お乳房(ちち)さわらしてくれたら何でも用したる」という中年男性に悩まされていた。心配した恒夫が「痩せて、しなびとる」と口にすると、ジョゼは激昂し出ていけと叫ぶが、恒夫が帰ろうとすると引き留め、すがりつく。その夜、二人は結ばれる。

翌日、恒夫は車を借りて、車椅子を積み込み、ジョゼとドライブする。ジョゼは動物園に行きたいとせがみ、車椅子で虎の檻の前に行く。虎の咆哮に怯えるジョゼは恒夫にすがりつき「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに」という。

ジョゼと恒夫は「新婚旅行」という名目で九州の海底水族館に行く。ジョゼはホテルの対応に悪態をつきながら、水族館の海底トンネルを堪能する。夜中に目を覚ましたジョゼは、自分も恒夫も魚になった、死んだんやな、と思う。それから恒夫はジョゼと籍も入れず親にも知らせない結婚生活を続けている。ジョゼはゆっくり料理を作り、洗濯をして、一年に一遍二人旅に出る。ジョゼは「アタイたちは死んだモンになってる」と思う。ジョゼにとって完全な幸福は死と同義だった。』

(Wikipedia『ジョゼと虎と魚たち』

細かく説明し出すとキリがないのだが、実写映画版は、大筋で原作に従いながらも、細かいところでは、いろいろと重要な変更なされている。私は原作の方を読んでいないので、そちらに関して、正確なところは語れないが、しかし、その細かな違いから「映画独自の狙い」を見て取ることは可能だ(ちなみに、同名原作から、2020年には劇場アニメも作られている)。

(劇場用アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』・2020年)

例えば、原作では、当たり前に「車椅子」の少女として登場するジョゼだが、実写映画である本作では、なんと「乳母車」に乗せられて登場するのだ。
だから、映画冒頭部の「雀荘」シーンでは、客たちが「謎の乳母車の老婆」の噂話を、まるで怪談のように語って、ちょっと氷川瓏の怪奇短編小説「乳母車」を連想させるような出だしとなっている。
また、乳母車に乗せられて登場するジョゼ自身、単純に「可哀想な少女」ではなく、「かなり変わった、クセのある少女」として描かれている。普通なら「なんだ、この女は? 脚だけではなく、ちょっと頭もおかしいのか?」と疑ってしまうようなキャラクターなのだ。

だが物語が進む中で、ジョゼの生育環境が明らかになってゆき、彼女のそのクセのある性格の由来も、徐々に理解できものとなってくる。

映画では、彼女は、もとは孤児院にいたと語られる。障害のために、幼くして親に捨てられた、ということなのかも知れない。
彼女は、同じ孤児院にいた少年(幸治)と共にそこを脱走し、彼女はその後、身寄りのない老婆(役名なし)に育てられた、ということになっている。
したがって、映画を見たかぎりでは、ジョゼと老婆に血縁関係があるのかどうかはハッキリしないのだが、本作「実写映画」版の「Wikipedia」では、老婆は「ジョゼの祖母」と書かれている。
これは、この実写映画版も、実際そういう「設定」だったということなのかもしれないが、「原作」がそうなっていたから、勝手にそう思い込んだだけの記述なのかも知れない。だが、いずれにしろ、作品に「描かれていないこと」を鵜呑みにするべきではない。
事実、映画の中で老婆は、ジョゼを「壊れもん(壊れ物)」と呼んで、家から出すのを嫌がるだけではなく、学校へも行かせてはいないのである(老婆がゴミ捨て場から拾ってきた本や教科書による自習だけで、ジョゼは成長した)。
ジョゼが本物の孫なのであれば、外に出したがらないから「学校へも行かせない」では済まないので、少なくともこの映画の場合は、ジョゼと老婆には血縁関係はなく、老婆が幼いジョゼを拾って育てたので、ジョゼを奪われることを怖れて、その存在を世間から隠し続けてきたのだと考えた方が、合理的なのではないだろうか。
だからこそ、この実写映画版では、ジョゼは「車椅子」を持っておらず、外出の際は、乳母車の中で毛布を被り、その姿を隠していたのではなかろうか。

(お婆が拾ってきた本を読む。ここで読んでいるのは「極道」本)

次に、ジョゼの「性格」を考える上で注目すべきは、孤児院を一緒に脱出した、今は自動車整備工になっている「不良青年」幸治による思い出話である。
幸治が言うには「孤児院」の入所者である子供たちは、みんな「お母さん」という言葉を発しては母親を恋しがり、幸治を苛立たせたのだが、「お母さん」という言葉を決して口にしなかったのは「俺とあいつ(ジョゼ)」だけだった。だから、孤児院を脱出する際に、幸治はジョゼを連れて逃げたのだと言うのである。
そして、それ以降、ジョゼは幸治に「あたしが、あんたのお母さんになったる」と言って、母親気取りの口をきいては、彼の勤める自動車整備工場に、彼の様子を(老婆の乳母車に乗って)見にくるので、それが「ボケか」と思う、と言うのだ。
ちなみに、彼は、きわめて口が悪く、乱暴者のヤンキーで、口癖は「ボケが」「シバくぞ」「殺すぞ」などという乱暴なもので、ジョゼに対してもそんな言葉しか発しないのだが、しかし、ことジョゼに関しては、あまり認めたくはない親近感を覚えているようである。

また、ジョゼという人を理解する上で決して見逃せないのは、ジョゼと恒夫が、幸治の「ヤンキー仕様の愛車」を借りて、ジョゼの生涯初めての旅行に出て、なぜか「魚」好きのジョゼの命令で「お魚の世界」というラブホテルに泊まった際の、ジョゼの一人語りである。

(ラブホの貝殻ベッドで、一人語りをするジョゼ)

この時ジョゼは、セックスを終えて、同じベッドの横で寝ている恒夫に「目ぇ、瞑ってみ」と促し、恒夫が目を瞑ると、「何が見える?」と問う。
恒夫が「真っ暗で、何も見えないよ」と当たり前の返事をすると、ジョゼは横で目をつむり、寝入りかけている恒夫に、語り聞かせるように、話し始める。

「あたしがおったとこも、そういう場所や。真っ暗で、静かで、誰もおらへん」

恒夫が「それは寂しいな」と言うと、ジョゼは、

「そんなことあらへん。あそこはあそこで、それなりにええとこや。あたしはそんなところを、貝殻のようにコロコロ転がってるんや」

恒夫が「そこから、俺に会いに来てくれたの?」というようなことを尋ねると、

「そうや、あたしは、あんたに会うために、海の底から出てきたんや。でもな、いつかあんたが、あたしの前からいなくなった時は、またそんな世界に戻るんや。でも、そんな世界もまんざら悪いもんでもないし、嫌いでもない」

この段階で恒夫はすでに寝入ってしまっているのかもしれないし、寝たふりをしているだけなのかもしれない。

というのも、恒夫にとってのこの旅は、もともとは、実家の法事に合わせてジョゼを実家へ連れ帰り、結婚相手として親に紹介するつもりのものだったからである。

ところが、ジョゼは、そんな旅の途中の自動車サービスエリアで、トイレへ行くのにも恒夫におぶってもらい、恒夫が、壊れた乳母車の代わりに「そろそろ車椅子を買おうよ」と弱音を漏らしても、「そんなん必要あらへん。あんたがおぶってくれたらええんや」と勝手なことを言うので、恒夫も「俺だって、いつかは歳をとるんですよ」と冗談めかしながらも、つい愚痴ってしまう。
そして、ジョゼが、障害者用の広い個室トイレに入っている間に、恒夫は、彼とジョゼのことを応援してくれていた(この時すでに実家に戻っていた)実弟に電話をして、「どうしても断れない仕事が入ったので、帰省できない」と、帰省をキャンセルし、弟から「兄貴、怖気づいたな」と、鋭く指摘されるのである。

(ジョゼの勝手な言い草に眉根を寄せる恒夫)

そして、その直後、恒夫は、ジョゼが入っているトイレの中に、優しげな笑みを浮かべて入っていき、驚いて「出ていけ!」と言うジョゼの言葉を無視し、便座に座っているジョゼの膝に顔を埋めるのである。
一一つまり恒夫は、まだジョゼには伝えていなかった「結婚の決意」を、そこで翻してしまった申し訳なさを、笑顔で誤魔化しながら、心の中で詫びていたのである。

また、話は前後するが、恒夫の実家への帰省のために、ジョゼに頼まれて愛車を貸しにやってきた幸治が、家に一人でいたジョゼに「おまえら、結婚するんやな?」と問うシーンがある。
その問いにジョゼが「アホか。そんなことありえへん」と答えると、幸治は激昂して「おまえこそアホなこと言うな。一緒に住んで、毎日やりまくっとって、それで実家に行くゆうたら、結婚のために親に合わせるのに決まっとるやろ、このボケが!」と怒鳴るのだが、ジョゼは恒夫からもらったタバコ(じつは、ぐうぜん再会した香苗から、恒夫がもらったもの)を吹かせながら、冷めた口調で「そんなアホなこと、絶対あらへん」と言うので、幸治は怒って、車を残して帰ってしまうのである。

つまり、かつてのジョゼは、いつかは愛する人に出会いたいと思ってきたし、現に恒夫と出会えたことを喜んでいるのだが、しかし、恒夫と生涯を共にすることはないだろうというのを、直感的に察していたのである。
なぜならば、彼女が「身体障害者」だから、ではなくて、「住む世界の違う人間」だからだ。

明らかにこの映画では、ジョゼの「下肢麻痺」は、彼女が、人間ではなく、本来は「暗い海の底」に生きる「人魚」であることを、暗示している。
だから、二人は、結ばれることはないのだけれど、しかし、彼女には帰るべき「暗い海の底」の世界もあり、そこが必ずしも嫌いではないということなのだ。

一方、恒夫の方はどういう人間かというと、「遠い世界に憧れ惹かれつつ、その一方で、そうした世界に踏み込んでいくことを怖れてもいる」と言えるだろう。
恒夫には、ラグビーにうち込みながらも、その夢をケガで失い挫折した、という過去がある。そんな彼が、彼に気のある香苗を部屋に連れ込み、いちゃついた後、壁に貼られていた彼の昔の写真を見た香苗から「ラクビーのこと、今でも思い出すん? ケガしてやめたんやね」と聞かれると、恒夫は、気のない調子で「もう、そんなこと考えない。と言うか、俺って、考えても仕方のないことは、深く考えたりしない主義なんだよ。考えたって、暗くなるだけだしな」みたいな返事をする。

つまり、恒夫は「未知の可能性に開かれた世界」に惹かれるものを感じつつ、しかし、そうしたことにのめり込むことの危険性をも同時に感じているから、戻らない過去の夢を思い返したり、物事を深く考えたりもしないのだ。
まただからこそ、モテ男の彼は、悪びれた様子もなく、複数の女の子と同時につきあったりもできるし、そんな「軽い関係」の方が、楽でもあれば無難でもあると考えているようなのだ。この時の彼は、ジョゼと香苗、それに、それ以前からつきあっている、恒夫が誰と関係を持とうと気にしないといった風の、サバサバした性格の別の女の子(ノリコ)との関係も続けていたのである。

(大学の学食で歓談する恒夫と香苗)
(上とは別の時、対面で歓談する二人の、香苗の後方に陣取って、フェラチオの真似をして恒夫をからかうノリコ)

だが、本来ならそんなフワフワした感じの彼が、ジョゼと出会い、ちょっと理解しにくい、その「個性的な存在感」に魅入られてしまう。

初めは軽い気持ちでジョゼに近づいた恒夫だが、老婆が居眠りしている間に、勝手にジョゼを外へ連れ出したことがバレて、老婆に激怒されたり、社会福祉関係の仕事につきたいと話していた香苗に、ジョゼたちの家の改装助成金を役所に出してもらうための相談をした結果、改装工事の当日に、恒夫から聞かされていた「障害者だけれど元気な少女」のことが気になっていた香苗が、「社会福祉の勉強のため」と称してジョゼの家へ敵情視察に乗り込んできたため、ジョゼに、恒夫と香苗の関係を察せられ、怒らせてしまうといったことがあり、ついに恒夫は、出禁を命ぜられてしまう。

(お婆が居眠りしている隙にジョゼを連れ出し、乳母車を暴走させる青春シーン)

そして恒夫は、就職活動をしている際に、ジョゼのお婆さんが死んだという話を聞かされ、矢も盾もたまらず、ジョゼのもとへと駆けつける。
ひさしぶりに姿を見せた恒夫を、ジョゼは素直に招き入れ、「ちゃんと食事してるか?」と問う恒夫に、「そら、食うとるわな」と、あっけらかんと答える。
恒夫が心配して問うた買い物のことについても「役所の人が週に二度届けてくれるから大丈夫や」と答えたのだが、ただ「近所に気色悪いおっさんがおってな、最初のうちは『困ったことがあったら、なんでも言い』とか言うてくれとったんやけど、こないだ『乳さわらせてくれたら、これからゴミ出ししたるで』と言われたから、さわらせたった」などと話したことから、「なんでそんな奴に頼るんだ」ということで恒夫と喧嘩になり、ジョゼが恒夫に「帰れ」と言い、ヘソを曲げた恒夫が本当に帰ろうとすると、今度はジョゼが「本当に帰るんか?」と引き留め、結局そのあと二人は結ばれて、恒夫はジョゼの家に移り住むことになるのである。

(ジョゼの言葉に腹を立てて帰ろうとする恒夫の背中を叩き、彼を引き止めようとするジョゼ)

だが、その関係も(たしか)1年ほどで終わることが、玄関から出て行こうとする恒夫に、餞別としての「エロ雑誌」を手渡すジョゼ、という二人の淡々とした様子に重ねて、恒夫の独白(心内語ナレーション)として、おおよそ次のように語られる。

「しかし、僕たちの関係は、それほど長く続いたわけではなく、別れるときは、意外とあっさりしたものだった。別れた理由は、それはいろいろだと言っておこう。一一でも、本当の理由はわかっていた。要は、僕が畏れをなして、ジョゼから逃げ出したってことだ」

ジョゼの家を出た恒夫が小さな橋に差し掛かると、そこには香苗が立っていた。
あきらかに、ジョゼの家を出てくる彼を待っていたのであり、「お待たせ」「ううん」といった感じで軽く言葉を交わすと、二人は並んで歩き始める。
いったんはジョゼに恒夫を奪われたかたちの香苗は、結局のところ恒夫を手に入れたのである。

(恒夫がジョゼの家で同居を始め、怒りに駆られた香苗が、ジョゼの散歩を待ち伏せして詰め寄る、女の戦い。この時は、香苗がジョゼをビンタし、ジョゼが返し、また香苗が返したところで、香苗は自らの敗北を認めて去っていく)

歩道を並んで歩く恒夫と香苗。香苗は「お昼はどこで食べよう?」「おうどんにする?」「あそこは2時までだから」などと、しきりに恒夫に話しかけるのだが、恒夫は俯き加減のまま返事を返さない。
そのうち、香苗が車道を挟んだ反対側を指して「あそこは、前に恒夫が住んでいた家だよね」と言うと、恒夫はいきなり「うっ」と嗚咽を漏らし、「ごめん」とひとこと詫びて、歩道柵に手をかけて俯いたまま嗚咽する。
そして、ここに、次のような恒夫の「心内語ナレーション」が重なる。

「別れても、そのあと友達でいられる女の子もいる。でも、ジョゼはそうではなかった」

(ジョゼのことが忘れられず泣きくずれてしまう恒夫を、なすすべもなく見守る香苗)

この後、ジョゼが障害者用の電動バギーを運転して、買い物から帰る様子が、斜め後方、または後方から映される。バギーのスピードはけっこう早く、ある種の「力強さ」を感じさせる。
この後、ジョゼが、いつものように自分の家の台所で食事を作っている様子が、バストアップで映し出されるのだが、その彼女は、髪を上げて、少し大人っぽくなり、その表情も実にしっかりしたものだった。一一つまり、もはや恒夫との別れを引きずっている様子はなく、むしろすっかり独り立ちした大人の女性に変貌していたのである。

そして映画は、ここで終わる。

人魚の娘は、王子様と別れて死んでしまうのではなく、ふたたび自分ひとりの「海の底の世界」へと帰ってゆき、そこで結構しっかりと平気で暮らしていくことになったのである。

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この作品について、「障害者」問題を前面に立てることを、私があまり好ましく思えないのは、それは「障害者」を、自明な「弱者」であり「庇護しなければ生きられない、弱い存在」だと決めつけているような節を、そこに感じるからだ。
そして、そんな「社会的な綺麗事の建前」であり「紋切り型」にこそ、「逃げ腰」なものを感じるからである。一一「(弱い)障害者の味方ぶっておきさえすれば、間違いない」というような「逃げ腰」である。

これまでの説明で分かるはずだが、結局のところ、ジョゼは一人ででも生きていける強い人間だったのであり、一方、恒夫の方は、自分にはない「孤独に耐えられる強さ」を持つジョゼに惹かれながらも、彼女の「マイペースな世界」に踏み込んでいく勇気が、最終的には持てなかったのだ。
だから最後は恒夫の方から逃げ出し、仮に将来、別れることになっても、あとを引かなないとわかっている女性、つまり香苗の方に逃げ込んだ、ということになるのである。

だから、私が恒夫に見た「理解困難な一貫性のなさ」というのは、結局のところ、「恋愛」うんぬんではなく、「自分の世界」を怖れずに貫いていく「強さ」を、持ちたいが持てないという恒夫の、そんな「揺らぎ」であり「迷い」だったのだ。

だから、本作を「重荷となるであろう身障者のジョゼを、一生支えていく自信をついに持てなかった恒夫が、最後は逃げ出した」という物語だと解するのは、「身障者は重荷である」という「思い込み(偏見)」にとらわれた解釈でしかない、ということになるのだ。

そうではなく、この物語が語っているのは、「自分の世界を生きていく力に満ちた人魚のジョゼ」と、彼女に惹かれながらも、結局は彼女と共に「海の底の世界」で生きていく覚悟の持てなかった恒夫の物語だと言えるのである。

その意味で、二人は「結ばれない」。
けれども、二人は、一時とはいえ愛し合ったことによって、自分の生き方を見定めた「大人」になったのだ、とは言えるだろう。
強いジョゼは「ジョゼらしく」、強くなりきれなかった恒夫は、強くはなりきれない「恒夫として」、それぞれに自分の生き方を見出すことになったのではないだろうか。

だからこそ、結果的には結ばれることのなかったこの「恋物語」は、やはり「ハッピーエンド」と呼ぶべきものなのである。

(初めての旅行。ジョゼの希望で海を見に行ったときの記念写真。二人は波打ち際で戯れるも、ついに水の中まで入ることはなかった。象徴的なシーンである)



(2024年4月24日)

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