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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈51〉

 オランの町で「本物の」病禍に出くわすずっと以前から、自分はすでにペストに苦しめられていたのだとタルーは言う。ではそれまでタルーは一体、その「ペスト的なもの」を何と呼んでいたのか。
 彼自身の口からはっきりと語られているわけではないが、それはやはり「悪」と呼ぶべきものだというのは言うまでもないことだろう。そして彼は、オランにおいて「実際の」ペストに遭遇し、彼なりの観点からその事態の中に、それまで彼自身が見聞きしてきたこの世界のさまざまな悪と、今ここで実際に遭遇している病禍との間にある、「人間に対する非道と邪悪さ」という一つの共通項を見出したわけである。
 しかし、タルーにしたところでそういった事柄については、検事であった彼の父から死刑を求刑された赤毛のフクロウや、胸に銃撃の穴を穿たれた裏切り者の同志、さらには数多くのペスト患者という「犠牲者」を、実際に目の当たりにした後になってようやく気がついたのだ。もしそれを悪と呼ぶならば、彼が気づいたときにはすでに多くの悪が、この世界において為されてしまった後だった、ということになるのではないか。とすればやはり病と同様に悪もまた、それが現れた後にようやく気がつくより他ないものなのだ、ということになるのではないだろうか。

 ある人間に対して死刑を宣告すること、あるいは他者を殺し、それによって自らの正当性を証明しようとすること。それが人の心に巣食うペストなのだとタルーは考える。
 しかし、ペストによる死刑宣告は、単に一方的に病人=死刑囚にだけ下されるわけではない。それらの者と何ら区別をつけることもなく、求刑する検事や判決を下す裁判官、さらに実際に刑を執行する刑務官にも同時に宣告され、同様に執行されることになるのである。
 ペストは、死刑囚も死刑執行人も全く区別をつけることなく、それらを「平等」に扱う。そればかりか、いっさい判決を告げることもなく、またその判決理由をいっさい説明することもなく、いきなりその首に縄をかけ、躊躇なく上に引っ張りあげる。ペストにおいては、死刑執行そのものが判決であり、執行事実自体が判決理由なのだ。
 ペストのこの「残忍さ」は、しかしはたして悪なのであろうか。むしろそうではないのだ。なぜならペストは、あくまでも「病」であり、それがもたらす死と共に、「自然」であるのにすぎないのだから。自然に、善も悪もない。ただ、それに関わる人間の思惑が、そこに何らかの善悪の意識を見出させるのである。

 タルーは、この世の悪をペストという病禍になぞらえた。それはまさに「被る」という形で、人間の心に忍び入り寄生し蝕む、とでもいうように。しかしこのような認識は、やはり錯誤なのだと言わなければならない。
 悪とはけっして「自然なもの」でもないし、まして「天災」などではけっしてない。病とは全く異なり、悪とはあくまでも「人間の作り出したものの中」にしか生じない。それはまさしく、「意志」によるものなのだ。ゆえに人はそれに「与する」ことが可能なのであり、逆にそれに与することを人が拒絶するためには、そこにはやはりまた「意志と緊張」を要することにもなるわけである。
 悪に対して人間は、けっして一方的な被害者ではありえない。むしろ人間は「世界に対して、一方的に加害者でありうる」のであって、なおかつ人間はその本性に、自己保存の欲求を原理として抱えていることが認められる限り、そこから生じうる悪から免れることはけっしてない。パヌルーの言葉を借りれば、「悪に離れ島はない」のである。
 もし人間が、自らの中にある悪を遠ざけたい、そこから自身として遠ざかりたいと願うなら、それが「際限のない敗北」であることを受け入れつつ、それでもなお、「意志と緊張」をもって戦い続ける他はない。せめてそのような戦いを続けていられている間だけならば、それが戦いである限りにおいて人はその敵、すなわち悪と、一定の距離を取っていることもできなくはないのだろう。

〈つづく〉

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