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「クララとお日さま」カズオ・イシグロ わたしたちは〈クララ〉を見つけ出し、救出しなければならない

No1:それは悲しみではない。それは痛みだ。

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それは悲しみではない。それは痛みだ。

カズオ・イシグロのその小説がそれを読み終えた者へもたらすもの。それを仮に、美しさと呼ぶならば、その美しさを、言い表し形容し物語る言葉は、どのような言葉が最も相応しいのだろうか。そのことに思いを巡らせる度に、私は深い沈黙の中に溶けるように揺蕩うことになる。そして、私が辿り着く場所には、いつも、この言葉が残されている。

〈それは悲しみではない。それは痛みだ。〉

透明な悲しみに彩られた繊細な美しい小説は数多く存在しているのかもしれない。あるいは、そうした文章も多く存在しているのかもしれない。しかし、カズオ・イシグロの小説はそうではない。その小説が放つそれは、悲しみでも歓びでもなく、それは痛みだ。悲しむことさえできない、深い痛みだ。それは耐えることが難しい痛みだ。

悲しみが受容であるとするのならば、痛みは拒否である。それは否定である。カズオ・イシグロの小説は世界を悲しみとして受け入れることに厳格に抗い、滴り落ちる血にまみれながら、孤独の中で、その痛みに貫かれることを選び取る。それは悲しみに溺れることを許さない。悲しみの中に逃げることを許さない。悲しみの果てに訪れる忘却を許さない。受容を否定する終わることのない戦いとしての小説の言葉。その小説は、その小説の外形とは異なり、戦いの只中に存在している。

小説という形をした言葉たちが放つその閃光のような強靭な眩い硬質な光。その眩暈のするような光の明晰性。そして、その光を全身に遍く浴びることになる読み手にもたらされる激しい痛み。その光と痛みの在り様を指して、美しいという言葉を用いることは、正確に言えば、誤っていることなのかもしれない。だが、カズオ・イシグロの小説の美しさが如何なるものなのか、私にはそのような言葉でしか表現することはできないのだ。

カズオ・イシグロは他の小説家の誰にも似ていない。その小説は他のどの小説にも似ていない。カズオ・イシグロは特別な小説家であり、その小説は特別なものとして、わたしたちの前に出現している。

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No2:カズオ・イシグロの小説は、わたしたちが持つ重要な何かを壊してしまう

人間の魂の最も深い場所まで刺し込まれる、言葉で造られた透明なナイフ。

それがカズオ・イシグロの小説だ。その小説を読むことは、その研ぎ澄まされ金属的な光沢を放つガラスのような透明な言葉のナイフに、自分自身のこころを貫くかれることだ。そのナイフは、読み手の「最も微妙で、細心の注意を要する、精巧にできていて、壊れやすい部分」を狙い定めるように刺す。それは、その深く遠い場所に存在するわたしたちにとってとても大切な何かが壊れ、血を流すことを意味している。カズオ・イシグロの小説を読んでしまうと、その読み手のこころから、押し留めることができないほどの血が溢れ落ちることになる。メタファーではなく、実存の血が。必然として、耐え難い痛みと伴に。

カズオ・イシグロの小説の平明で明解な文章と、起伏の少ない捻じれの欠けた解り易い物語に、惑わされてしまい、何かの拍子に、その小説を手に取ることになり、その小説を読み始めてしまうことになると、後で、深く後悔してしまうことになる。覚悟してその小説を手に取らなければならない。

カズオ・イシグロの小説を読むということは、自らのこころを切り裂き、血を流すこと。結果として、それは、わたしたちが持つ重要な何かを壊してしまうことになるのかもしれない。しかし、わたしたちはこころを切り裂き、その内部に存在する重要なものを壊さなければならない。どれほどの血が溢れ出ようとも。

なぜなら、その壊れてしまうものが、何かであることを知るために、それが必要なのだ。それを知るために、その血と痛みが必要不可欠なのだ。

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No3:「クララとお日さま」小さな箱庭のような物語、でも、広大で、深い物語、あるいは、愛についての物語

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「クララとお日さま(Klara and the Sun)」。六部で構成された全426頁に渡る長編小説。一人称単数の〈わたし〉のクララの物語。小さな物語。精巧に手作りされた箱庭のような絵本的な物語。そして、愛についての話。

小さな物語。しかし、その奥行きは広く、深い。地平線の彼方まで続く荒涼としたヘザーの茂る丘陵地帯とそこに存在する深淵。それは、まるで、姿の異なった「嵐が丘」のハワースを思い起こさせる。平穏な佇まいと不穏な気配。数人の限られた登場人物たちと幾つかの場所。クララとジョジー。そこで起きる些細な出来事と奇跡的な出来事。揺れ動き入り組んだ人々の思いと世界の形の無表情な単純性と存在性。

愛についての話。人が人を愛するということについての話。必然として、そこには人間が人間であることとは、何を意味しているのか、問われることになる。読み手も、また、自分自身が持つ人間らしさとは何かを問われることになる。光模様の中でクララと太陽の間で結ばれる約束。その約束が果たされるジョジーの部屋の暗い朝の部屋に流れ込み満たされる光。抱擁と別れ。

幾つかの明示される事柄と幾つかの不明なまま放置される事柄。組み立てられその姿を現す事柄と組み立ての途中で停止され姿を見せない事柄。その物語には、静謐で透徹でありながらも、深い光と闇が刻み込まれている。

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No4:「クララとお日さま」、〈知性を持つ獣たち〉に変貌した人間たちの世界、あるいは、抗い戦う小説家:カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロによって作り出された近未来の人工的な箱庭的な世界。そこでは、人が人であることの根拠そのものが壊れ、既存の人間性(人間らしさ)が跡形もなく解体され、その分解された人間性の断片が空中に浮遊し、新しい形を作り出そうと身悶えしている凄まじい光景が、静かに丁寧に描写される。〈知性を持つ獣たち〉に変貌した人間たちが世界を支配し、人間が人間であることの根拠である人間性は放棄される。知性は欲望の奴隷のためのツール(道具)として先鋭化し、人間性の為のツール(道具)は廃棄される。カズオ・イシグロは、それが、人間が願望した来るべき世界の在り様として、当たり前の事柄として、余すことなく細やかに繊細に写実する。

「クララとお日さま」の世界は、人間たちと世界のその後の姿でもあり、それは、未来のわたしたちの姿でもある。それは、現在のわたしたちの現実の繋がりの中に存在し、わたしたちの現実の本質そのものである。わたしたちは、人間であることをやめて、〈知性を持つ獣たち〉に変容している途上なのだ。

ナイフとしてのカズオ・イシグロの小説が壊すわたしたちの大切なものが、何かが、ここに、明白なものとなる。わたしたちは重ね合わされた二重の意味で、その痛みを受けることになる。一つ目は、小説の中の世界の非人間性に。もう一つ目は、その小説の中の世界の非人間性がわたしたちの現実の本質そのものであることに。ナイフとしてのカズオ・イシグロの小説が露呈させるこの世界の非人間性によって、わたしたちの深く遠い場所に大切に保存されているはずの人間性が切り裂かれ、激しい痛みと伴に、血が流れ落ちる。

わたしたちが、気が付かないつもりでいる、気が付いていないふりをしている、その壊れかかっているものを、カズオ・イシグロはその小説で完璧なまでに冷酷に容赦なく暴き出す。カズオ・イシグロの小説は、読み手に痛みを与えることを恐れることなく、逃げることなく真摯に誠実に正確にそれを描き出す。カズオ・イシグロは破壊されたその後の世界の光景を、小説として精密に描き出すことによって、そこで失われたものたちが何であるかを鮮明にし、覚醒させ、破壊と喪失に抗い戦う小説家なのだ。現代の文学の存在の意味とは何か? その問いへの応答のひとつが、カズオ・イシグロの手でわたしたちの前に提示される。それはカズオ・イシグロが現代の小説家であることの意味を明示するものでもある。

そして、わたしたちは痛みと伴に、〈クララ〉が何者であるかを知ることになる。〈クララ〉とは、わたしたちが壊してしまった、失ってしまった全てのことである。

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No5:「クララとお日さま(Klara and the Sun) 」を読み終えた、わたしたちが行うべきこと

カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま(Klara and the Sun)」を読み終えた読み手であるわたしたちが行うべきことは、ただひとつのことだ。

〈クララ〉を見つけ出し、〈クララ〉を救出し、彼女を抱き締めることだけだ。

闇の中で、彼女の記憶の断片の全てが失われたとしても、その体が沈黙の中で、分解されたとしても、わたしたちは〈クララ〉を探し出さなければならない。〈クララ〉がどのような欠片に成り果てていたとしても、〈クララ〉を、決して、見失ってはいけない、手放してはいけない。そして、溢れ出る涙でその〈クララ〉の姿が不確かなものであったしても、〈クララ〉をその腕の中に、掴まえて、強く、強く、抱き締めなければならない。

〈クララ〉とは、わたしたちが、今この時、この現在に、失いかけている、失ってしまった、わたしたちの人間性そのものなのだから。

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