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本能寺の変1582 第122話 15信長の台頭 2尾張統一 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第122話 15信長の台頭 2尾張統一 

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岩倉落城の事。

  一、或る時、岩倉を推し詰め、町を放火し、生(はだ)か城になされ、
    四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、

信長は、岩倉城を包囲した。

 太田牛一は、「或る時」と言っている。
 年次を明確にしていない。
 迷うところである。

 永禄元年1558、七月。
 浮野の合戦。
 
信長は、この戦いで、岩倉織田氏に壊滅的な打撃を与えた。
 同氏は、再起不能に陥った。

 信長は、同年九月、家臣らに、岩倉織田氏の領地を新知として分け
 与えた。

  【参照】15信長の台頭 1信勝謀殺 117   118     

 また、同年十一月には、弟信勝を殺害した。 

  【参照】15信長の台頭 1信勝謀殺 117   118   
 
 結果、岩倉織田氏は、孤立無援の状況に追い込まれた。
 信長にとっては、正に、ベストタイミング。

 用心深い信長のことである。
 永禄二年二月の上洛は、岩倉織田氏を攻略した後、
 すなわち、後顧の憂いを断ってからのことになる、のではないか。
 その様に、思う。
 とすれば、話の順序が逆になる。
 このことをご留意の上、お読みいただければと思います。

戦いは、二ヶ月余りつづいた。

 兵の損耗を忌避したのだろう。
 信長は、兵糧攻めに徹した。

  二、三ケ月、近陣にとりより(取り寄り)、

ここで、鉄炮隊が活躍した。

  火矢・鉄炮を射入れ、様々攻めさせられ、
                          (『信長公記』)

岩倉方は、戦意を失っていた。

 浮野での大敗が尾を引いていたのだろう。
 兵力が激減していたようである。

  越訴(おつそ=訴訟)拘へ難きに付いて
  (これ以上、支えることは出来ないと判断して)、

信長は、岩倉城を攻略した。

 城主織田信賢は、城を捨て逃亡した。
 信長は、これを追わず。
 同城を破却し、清州に帰城した。

  渡し進上侯て、ちりぢり、思ひ々々罷り退き、
  其の後、岩倉の城破却させられ侯て、清洲に至つて御居城侯なり。
                          (『信長公記』)

尾張統一、成る。

 斯くして、信長は、下四郡のみならず、上四郡をも手に入れた。
 ここに、尾張の統一成る。
 これが、永禄元年終り頃の状況。

 とすれば、翌二年の上洛目的は、
 表向き、義輝に対する祝意言上。
 その実は、統一の報告。
 すなわち、尾張の支配を認知させるため、となる。
 こちらの方がスッキリする。 

 美濃の斎藤義龍は、尾張の協力者を立て続けに失った。
 それ故か。
 永禄二年は、大きな戦いが見当たらない。

 となれば、次は、東方、今川義元。
 三河となる。
 信長は、忙しい。

尾張は、豊かな国である。

 近隣諸国の石高である。
 すなわち、国力。

   甲斐  22万7千石
   信濃  40万8千石
   越後  39万石
   越中  38万石
   越前  49万1千石  

   駿河  15万石
   遠江  25万5千石
   三河  29万石

   美濃  54万石
   尾張  57万2千石
   伊勢  56万7千石
                (「当代記」より) 



 ⇒ 次へつづく 第123話 15信長の台頭 3桶狭間 



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