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エッセイ/染井吉野とSOMEI YOSHINO
今にも降り出しそう空の下、満開になった桜の木々が土塁を覆っていた。風が吹く度に流れ落ちていく桜吹雪で、土塁を囲む水堀は薄桃色に染まっていた。二二年ぶりに見た日本の桜は、記憶のままの姿をとどめていた。中学・高校時代、この山形城跡の霞城公園を通り抜けて通学した。空の暗さと桜の輝きのコントラストに、開花した桜に心を躍らせながらも寒の戻りへの不安を拭えなかった子供時代の心情を思い起こした。暮れかけた空気
もっとみる【旅行記】冷戦下(1986年)の東西ベルリン 第四部 ベルリンの壁崩壊と2020年 (完結編)
東京(1989年11月10日 東京時間) その日も残業に追われ、一人暮らしのアパートに帰宅した時には夜十一時を回っていた。いつもの様に、電気をつけた後すぐにテレビをつけた。目に入ってきた映像を、俄には信じられなかった。
ベルリンの壁に登った沢山の若者が、抱き合ったり、シャンペンをがぶ飲みしたり、踊ったり、兎に角大騒ぎをしているのだ。現実の出来事であると認識するのに、ステップが必要だった。まず、
【旅行記】冷戦下(1986年)の東西ベルリン 第三部 西ベルリン・西ドイツ(3/4)
西ベルリナーの憂鬱 翌朝、宿泊していたB&Bのダイニングルームに行くと、朝陽にさざ波が反射するシュプレー川が見えた。横長の木製のテーブルの上にはゆで卵とチーズと堅いパンの朝食が用意されていた。席につくと、前日と同じように女主人が、コーヒーをサービスしてくれた。ゆで卵をエッグ・スタンドから取り出して殻を割ろうとすると、彼女が
「やってあげるわよ」
と言って、私から卵を取るとエッグ・スタンドに戻した。
【旅行記】冷戦下(1986年)の東西ベルリン <第二部 東ベルリン> 2/4
東ベルリンへ 西ベルリン動物園駅から、Uバーン9番線に乗り込むと、車内の雰囲気は東京の地下鉄とそれ程変わらなかった。レオポルトプラッツ駅で、東ドイツに向かう6番線に乗り換えた。三つ目の駅からの東ドイツ領内に入った。そこからの途中駅は全て通過したが、ホームを通り過ぎる時、銃を持った警備兵が数メートル間隔で並んでいるのが見えた。「幽霊駅」をいくつか過ぎた後、国境駅のフリードリヒ通り駅に到着した。
【旅行記】冷戦下(1986年)の東西ベルリン <第一部: ベルリンへ>1/4
ニューヨーク(2018年8月) 「ママにおみやげ」と渡された小さな箱を開けると、ちっぽけな灰色の瓦礫の欠片が入っていた。北イタリアの大学に交換留学中だった息子が、秋の気配が感じられるようになったニューヨークに帰省してきたのだ。取り出してみると、欠片には三角形のヘルメットを被った兵隊が駆け出そうとしている画像の切り抜きが貼ってある。その白黒写真は、私の遠い記憶を呼び起こした。それは、西側への亡命に挑
もっとみる書評エッセイ/『エタンプの預言者』(アベル・カンタン著 中村桂子訳)一冊の本の大炎上と熾烈なキャンセル・カルチャーを描いた仏文学の傑作
二〇一九年にデビュー作がフランス最高の文学賞であるゴンクール賞候補となったアベル・カンタンの第二作は、「レイシスト」のレッテルを貼られ大炎上してしまう六五歳の元大学教授の話である。大バッシングの嵐に晒され身も心もボロボロになるなか、主人公は自身の反人種差別信条が時代錯誤であることを教えられる。読者の多くは主人公と共に、欧米の新しい反レイシズムの考え方を学び、その厳格さに当惑するかもしれない。
書評/『異常【アノマリー】』(仏ゴンクール賞受賞/エルヴェ・ル・テリエ著・加藤かおり訳):この世界が仮想現実でないと言えるのか?哲学もSFも織り込んだ深遠なエンタメ小説(歯ごたえ半端ない仏文学)
パリ発ニューヨーク行きのボーイング787が超弩級の乱気流を抜けた時、それまで信じられていた人類の存在目的が覆るような超常現象が発生するーー二0二0年にフランスで最も権威ある文学賞のひとつであるゴンクール賞に輝いた本書は、SF・哲学・宗教・スリラーと多岐に渡る要素を兼ね備えている。上質なフレンチ・フルコースを堪能するような満足感を与えるが、バケットのように歯ごたえある小説だ。
物語は、超常現象
拝啓 村上春樹先生 (1960年代生まれの読者からの書簡・2023年4月初旬)
はじめに
これは村上春樹氏への手紙に模した書評エッセイです。私にとって村上春樹氏は、心のどこかで羅針盤となって存在してきた小説家であり、その作品を語るにあたっては、『個人的な書簡』という形式が、一番自然に言葉が紡げるように思えました。一九六〇年代生まれ世代にとっての『村上春樹』を考える一助になれば幸いです (2023年4月初旬)。
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拝啓 桜花
書評/『星の時』(クラリッセ・リスペクトル著・福嶋伸洋訳)ブラジルの文豪リスペクトルが半世紀前に放った「不幸な女の矢」(2022年第8回日本翻訳大賞受賞)
二十世紀の文豪、クラリッセ・リスペクトルの『星の時』が半世紀の時を経て、2021年に日本語で翻訳出版された。それに先んじる2015年に、アメリカでもリスペクトルの短編集が出版され、翌年『翻訳本のアカデミー賞』と称されるPEN Translation Prizeを受賞している。20世紀の南米文学の金字塔である彼女の作品が再び注目を浴びているのは何故だろう?
本書は濃いブラック・コーヒーのよう
書評/『我が手の太陽』(石田夏穂著):能力減退に直面した時、過信とプライドがキャリアと人生のクライシスを招く……
石田夏穂の二回目の芥川賞候補作となった本作は、技能の低下に直面した熟練溶接工が現実を受け入れられず苦悩する物語である。心身の衰えと共にキャリアが停滞した時に自尊心と社会性をどう保つのかという問題が作品の底流にある。
主人公の伊東は、技術の高さを売りにしている配管工事会社のエース溶接工であった。太陽と同じ温度の炎を自らの手で制御して鉄を溶融させる時、こんな危険で困難な仕事をできるのは僅かな人間
書評/『東京都同情塔』(九段理江著):生成AIは我々の価値観と言語をどう変えるだろう?
九段理江著の『東京都同情塔』は、第一七〇回(二〇二四上半期)芥川賞を受賞した。本書は、ザハ・ハディド設計の国立競技場が建設された東京という仮想の近未来を舞台に、巨大な刑務所塔の設計に携わる女性建築士の葛藤を通じ、弱者への過剰な同情を助長する社会の矛盾を浮き彫りにしている。生成AIが紡ぎ出す「正しい」回答への依存が人々の言語と価値観の深みを蝕む様も描かれており、AIとの共存への警告もこめられている
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