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考察・メモ・ポエジー

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抽象性の高い文章、何らかの考察、あるいは展覧会用のキャプションなどを載せています。
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記事一覧

対岸、超越、外部(フリードリヒ・ニーチェについて)

対岸、超越、外部(フリードリヒ・ニーチェについて)

フリードリヒ・ニーチェは1844 年のドイツはライプツィヒのリュッケンにある、比較的裕福なポーランド系の家庭で生まれた思想家である。1900年に亡くなるまでに記された彼の著書は過激な社会風刺を含み、出版時にセンセーションを巻き起こしたが後世に至るまでに多大な影響を及ぼした。

ナチス・ドイツ時代にナチスによる彼の思想の引用があって以来少し影を潜めていたが、近現代になって彼の思想は再び評価され、社会

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ツールに操作されるアイデンティティ(メモ)

ツールに操作されるアイデンティティ(メモ)

①「自分の思っていること」を表現するのは難しく、ある程度の技術があればその程度に依ってその意識的なものを敷衍して表現することはできても、頭の中で思っていることとは違う、っていうのはよくあると思う。

②そこで言うところの「考えたこと」的なものを表現する程度にも難しいものがあり、作業の過程である種の脱線が起こっていく的な、インプロビゼーションのようなものが実際の作品的なものの面白さになったりするので

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ロベール・クートラスとヘンリー・ダーガーから絵描きの人生を想う話

ロベール・クートラスとヘンリー・ダーガーから絵描きの人生を想う話

画家の人生を想う際に、モーリス・ブランショやエマニュエル・レヴィナスが言うように、異なる二者間の(終わりなき)対話の敷衍としてのアートを考えるならば、私自身はむしろ、今まではスタンスとしてはネイサン・ラーナー(=非画家)に近かったのだと思う。裕福で自身も美術に精通していた彼は、管理していたアパートの片付けで訪れたヘンリー・ダーガーの部屋で膨大な量の文章とその挿絵を見つけることになるのだが、彼はその

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ビジネスモデルとしてのアートとアイデンティティの喪失、およびアートの市場原理主義的志向から見る批評の可能性について

ビジネスモデルとしてのアートとアイデンティティの喪失、およびアートの市場原理主義的志向から見る批評の可能性について

マイケル・フィンドレーは自著『アートの価値』にて、アーティストはマーケットに意図的に参画することにより自己同一性を失いつつあり、それにより作品そのものの「意味」は喪失し、しばしば他の商品と代替可能であるという「抽象性」を持つとした。

ただしそれはアガンベン的な「なんであれかまわないもの」としての個物ではなく、そのものの個々の独立性を失ったものとしての「商品」としての作品であり、そこに存在するもの

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ヘロインとヒロインの漸近線、アガンベンとワイルドの知見(片鱗をいつも掴み損ねるものとしての「愛」について)

ヘロインとヒロインの漸近線、アガンベンとワイルドの知見(片鱗をいつも掴み損ねるものとしての「愛」について)

「愛」とは何だろうか?オスカー・ワイルドに質問をしてみると、だいたいこんな内容が返ってくるだろうー

本当に魅力的な人間には、2種類しかない。何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。

"There are only two kinds of people who are really fascinating – people who know absolutel

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喪失と情動と死について(オブセッシブなカテゴリをゆるくモリッシーと巡る)

成長の過程や文化の発展の程度に於いて語彙力の差異はあれど、思考する内容について差異はない、とファイヤアーベントは考古学者を批判する。文明が存在していた「石器時代の精神的能力」が現代の人間より劣る、未熟なものである証拠はないし、人間そのものは変わらず同じ営みを続けているからだ。

文明の発達により人間の思考が抽象的になればなるほど、それは「自然」なるものから乖離する・・つまり、ラカンの言う所の<現実

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なんかそろそろのアレなのでというお話(2019年の展覧会、良かった本など)

なんかそろそろのアレなのでというお話(2019年の展覧会、良かった本など)

さて年の瀬になりましたが、なんだか色々と間に合いそうに無いので、今の時点でできることを書いておきます。今これを読まれているあなたにとって、2019年はどんな年でしたでしょうか。

私は、そうだなあ、色々なセレンディピティに出会って自分自身を取り戻せたと言うか・・めっちゃ平たいこと言ってしまった。

駆け足になりそうですけど、今年よかったものなどを振り返ろうと思います。

今年よかったなあと思った展

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孤独のバイアス、アイデンティティのパラドックス

孤独のバイアス、アイデンティティのパラドックス

「孤独感とは本来的な意味で「孤独」な人間には訪れず、人は誰かと接触をすることにより、孤独感を味わうものである」というようなことが、高校生の頃に読んだ医療系エッセイの中に書かれていたことを時々、思い出す。

それを誰が書いた文章だったか覚えておらず、また、原文が英語だったのでニュアンスが違うかも知れない。・・そもそも孤独というものは「我々が一人である」と感じる時に自覚するものではないのだろうか?

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幽霊・分散・ディスクール(2019年の投稿を振り返る)

幽霊・分散・ディスクール(2019年の投稿を振り返る)

今年も早いものであと数週間となりました。巷では今年の仕事内容や、今年のベストディスクなどについての発表が俄かに盛り上がっていて羨ましいなと思う反面、

何度か書いているのですが筆者は長らく自分自身を失った状態で過ごしていたため、このように何かについて話ができるようになったのは2019年10月からとなります。

また、noteの投稿には過去の作品のブラッシュアップも含んでいるため、投稿された記事の割

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自由・孤立・ワインおよびチーズ(アイデンティティについての考察)

自由・孤立・ワインおよびチーズ(アイデンティティについての考察)

本稿は「もし何でも叶えられる魔法が使える神様が現れたら?」というテーマを元に私が19歳のちょうど今頃に書いた手記と、29歳になった筆者が考えたアイデンティティについての思考をめぐるエッセイ?的なものです。

「神様、チーズをください」はほとんど原文ママで載せていますが、全体的な意味を損ねない程度に一部、補足として文章を追加しています。



後半の「余、アイデンティティの普遍性について」は、「神

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視点・余剰価値・外部性(「1 review/ day」プロジェクトのキャプション)

視点・余剰価値・外部性(「1 review/ day」プロジェクトのキャプション)

本稿は2012年に書かれたもので、美術大学の学生に対して行ったレクチャーの概要でもあります。

基本的には自分が行っていた「1 review/ day」というプロジェクトのために書いたものですが、(現代)アートに関するアプローチについて、美術批評家はどのようなアクションができるのか、また、当事者としてのアーティストはどのように立ち振る舞うのか、ということについて、私自身の考えを纏めたものでもありま

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(不)可能性、アキレスの亀、宇宙の孤独(展覧会『Sabbat』によせたキャプション)

(不)可能性、アキレスの亀、宇宙の孤独(展覧会『Sabbat』によせたキャプション)

①庭にいる天使の羽根をすべてもぎとっても、
君はもう二度と外へはばたくことはできない。
②重力は罪に似ている。ただし罪は正義に対置される。
③葬送の儀式で我々が定義することは、「それ」がもう二度と起き上がらないということである。

『Sabbat』(22:37)
パフォーマンス:D▲ S/M
撮影:Mayu YAMADA、動画編集:Chihiro KURODA

<キャプション>

あるひとつの

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記号・フィードバック・ダイナミズム(展覧会『ファーブルの手仕事図鑑』によせたキャプション)

記号・フィードバック・ダイナミズム(展覧会『ファーブルの手仕事図鑑』によせたキャプション)

” ファーブル先生、行き交う人を蜜蜂とするならば、
僕もあなたも花弁であり、またミツバチであるのです。

僕とあなたの反転する自意識を時間とするならば、
僕はあなたのようにまだ、
永遠につづく旅を始めようと思います。 "

レヴィナス=ブランショ的にいうならば、「終わりなき対話」とは異なる二者間の対話、よって、ひいては人間のことを刺しますが、その時のアプローチとしてレヴィナスは、”そうすることによ

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ナラティヴの洪水、暴力の終着

ナラティヴの洪水、暴力の終着

①でも、日々交わされる会話のロジックとかも、何かを構築しながら拡散するよりは寧ろ何処かに収斂されていくようなイメージしか持てなくて、何となく遣る瀬ない気分になっています。いや…というか、自分の思考の出典を紐解くというのはそもそもが不可能なことなのかな。

②という考え方は“過剰と退屈”的かもしれないし、他者の中に見出だすのは他でもない自分自身だという文脈に沿うなら、発見とは自己の思考に言葉を付ける

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