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日々徒然

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日々の思い浮かぶことを書いています。
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あの日

あの日

 あの日、私は入れ歯になった。

 と言っても、左上あごの第一、第二小臼歯の二本の部分入れ歯だが。それでも入れ歯にするかどうかはずいぶん悩んだ。なにせ、二十代の頃からデンタルフロスを使ったり、虫歯には相当気を遣ってきたからだ。

 二十代で左上あごの第二小臼歯を虫歯で失い、そこをブリッジにした。保険のブリッジはすぐに壊れると歯医者さんが言うので、保険外で治療した。当時の値段で十七万円くらい遣った。

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スマホ

スマホ

 会社の近くのファミマをよく利用するのだが。
 今日は春の陽気で暖かくて気持ちいいなあ、なんて思いながらファミマでいろいろ迷った末に肉まんを1個買った。
 そこまではふつうだが。
 店員さんに支払いを「スマホでお願いします」と言ったところ聞きなおされたので、「スマホでお願いします」としっかりした声で繰り返した。
 ピッと鳴って決済できたのだが。
 手元を見たら、スマホではなくて、定期券に使っている

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昭和40年のクリスマス。

昭和40年のクリスマス。

 昭和四十年十二月二十五日。クリスマスの日。
このころはクリスマスと言えば二十五日にやるもので、二十四日のイブは主流ではなかった。
 とても寒い日だった。
 小学校の授業が終わると、ぼくの家の庭には、いつものメンバーが集まった。
 隊長がぼくより二つ上で六年生のノリ君で、副隊長がぼくの同級生のニシサだった。あとは近所の五、六人の子どもたちだった。
 ぼくたちは、平日はたいていそろばん塾で忙しかった

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ぼくは子どものころからテレビっ子だった。

ぼくは子どものころからテレビっ子だった。

 ぼくは子どものころからテレビっ子だった。
 ぼくの家にテレビがやってきたのは、1961年、ぼくが小学校へ入学する前の年だったと思う。
 それまでは、テレビというと、うちの裏の家でときどき見せてもらっていた記憶がある。
 確か、夏の夜だったと思うが、家族でその家に出かけた。そこにはうちの家族以外に近所の家族もいたような気がする。
 テレビと言っても14インチの今の基準では小さな画面で、しかもモノク

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荻窪らーめんの思い出

荻窪らーめんの思い出

 一九七四年。ぼくが上京したとき、よく使うのは国鉄の荻窪駅でした。
北口にラーメン屋さんがいくつかあって、当時は、荻窪のラーメンが有名だということを知らずに食べていました。
 駅の北口の正面に醤油ラーメンの店がありました。分厚い一枚板のカウンターに出されるこのラーメンは、厨房に入ってスープをじかにすすりたくなろほどコクがありました。
 一杯百九十円。ぷーんと鼻をくすぐるかつお出汁の香りが店の周囲に

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足の親指が痛い。

足の親指が痛い。

 真夜中に右足の親指が痛み出した。針で刺すような痛みだ。
これはまずい、痛風かな、そんなことを思い始めたら痛みもあって眠れなくなった。
 朝はぼんやりしていたので、久しぶりにゆっくり出社した。
 会社の隣のビルに内科が入っているので、そこで診てもらった。壁にかかっている何かの賞状に先生の生年月日があった。五十代のおじさんだが、ぼくより若いおじさんだった。
 半年前にここで採血して検査した時は、痛風

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空を見上げて

空を見上げて

 子どものころ、小学校のグランドに寝転がってよく空を見上げた。
 吸い込まれそうな青空を見つめていると、空の深くへ吸い込まれるというより落っこちてどこかへ行ってしまいそうな気持になった。そして、自分はどこからやってきてどこへ向かっているのか、いずれはこの世界からいなくなるのか。それはいつなのか。そんなことを考えていると頭がおかしくなりそうで、おかしくなる寸前で空を見つめるのをやめた。
 あれから5

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妻が夢を見た。

妻が夢を見た。

妻が夢を見た。
私の妹といとこが上京するというので、銀座あたりでランチするいい店がないか探索していた。
いろいろ歩きまわっているうちに、妻はいつのまにか見たことのない路地にはまりこんでしまった。
建物の住居表示板を見ると、そこは大阪の地名だった。
東京に戻らなければ、と妻はあわてた。
しばらく行くと交差点が現れた。男女数人の若者がいた。
妻は「東京へ行きたいんです」と伝えた。
若者のひとりが、「あ

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ある秋の日の記憶。

ある秋の日の記憶。

 真っ青な空だった。吸い込まれそうだ。
 暑くもなく寒くもなく、空気も適度に乾いて心地よい。
 ぼくは斜面いっぱいに広がるサツマイモ畑の真ん中に立っていた。
 秋の太陽が南の空高くから暖かな日差しを浴びせてくる。
 左からごおんごおんという音が聞こえてきた。
 セスナ機だ。プロペラの回転音が空いっぱいに響きわたる。
 セスナ機から、紙の束がふってきた。
 はらはらと畑いっぱいにひろがって落ちる。

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地下鉄の階段を踏みはずしたその先に。

地下鉄の階段を踏みはずしたその先に。

午後六時五分。会社の帰り道のことだった。
六時十二分発に乗るためにぼくは地下鉄都営新宿線・馬喰横山駅の改札へ急いでいた。
まだ春先の寒い日だったのでコートを着ていた。カバンを斜めにかけていた。コロナの影響ですっかり営業で出歩くことも減ってしまい、運動不足でもたもた小走りにかけていた。
この駅は階段の勾配が急だ。下から列車到着のアナウンスが聞こえてきたので急いだ。うしろから若い女性に抜かれた。
昔は

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逆流性食道炎のぼく。

逆流性食道炎のぼく。

ぼくの慢性胃炎が逆流性食道炎という名前になって久しい。
10年近くにはなるかと。
昔住んでいた家の近所の胃腸科クリニックでは、慢性胃炎ということになっていた。
それが都内の別のところへ引っ越したのを機会に、かかりつけ医をかえることにした。
それまでの胃腸科に通うこともできたが、そこが地元の老人の健診を始めたことで、いつ行っても混むようになったのもあり、医者をかえることにしたのだ。
新しく通い始めた

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YMOを聴きながら。         ~映画「遥かなる山の呼び声」のころ~

YMOを聴きながら。         ~映画「遥かなる山の呼び声」のころ~

1979年の夏。入社二年め。
ぼくは松竹の映画宣伝部にいた。
6月に「第23作 男はつらいよ 翔んでる寅次郎」のロケで北海道支笏湖に行き、寅さんの撮影が終わると、こんどは「遥かなる山の呼び声」(山田洋次監督)の撮影で、北海道中標津ロケに参加した。
中標津は釧路のはるか北の方で、撮影場所は、広大な牧場地帯だった。
同じ北海道でも、札幌とちがい、テレビでは見たことがあったが本物の北海道を見て本当にだだ

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動画配信の解約ボタンが見つからない、という悩み。

動画配信の解約ボタンが見つからない、という悩み。

ぼくは、ビデオテープの時代からTSUTAYAなどでレンタルの日々でしたが、ここ3年ほどはすっかり動画配信で映画や連続ドラマを楽しんでいます。
いろいろな動画配信があるので試してみては解約をしたりしていますが、解約のときにけっこう苦労しています。まいどのように解約のボタンを探しまくっています。
最近では、Amazon経由で入会した「プラス松竹」の解約、つづいて「マンダロリアン」が見たくて「Disne

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「消毒しまくりマン」になったぼく。

「消毒しまくりマン」になったぼく。

ぼくはすっかり「消毒しまくりマン」になってしまった。
もちろんコロナのせいだ。
常に携帯用の手指消毒スプレーを持っていて、実は中身はとっくになくなっているので、目下スプレーに入っているのは、他メーカーの消毒液だ。
通勤で改札を通るたびに手にシュッ。そして電車に乗るたびに手にシュッ。電車を降りるたびに手にシュッ。改札を抜けるたびに手にシュッ。駅舎を出たところで、ほっとして手にシュッ。そして会社の入っ

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