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#日記
【きれいなものは、たしかにあるのだ】
やさしい気持ちで生きていたいのに、全然やさしくなれない。だからせめて、読んだ人がやさしい気持ちになれる文章を書いてみようと思う。
どういうものを読んでやさしい気持ちになるかは、人それぞれ違う。だからこれは、私の主観のお話。
*
頭のなかがいっぱいで、色んなものがいっぱいで、ぱんぱんに膨らんだ風船みたいに今にも破裂しそうだった。家のなかに籠っていると余計に苦しくなるので、思いきって外に出てみた
一言で済む話を何千字、何万字という言葉にする。その気持ちを、笑われてたまるか
「結局、〇〇ってこと?」
呼吸がつままれた気がした。
遠回しに、遠回しに。
一言で済ますこと、それが適切である場面は多くある。
上司への報告は簡潔に。
わたしが長々と経緯を話そうものなら、途端に相手は目の色を変えて言う。
「結局、結論はなんなんだ。」
でも待って。まだ早いの。
気持ちを一枚一枚重ねているところだから。
ひとつひとつ色を足しているところだから。
風が一瞬でも強く吹けば、
終点は今ではない。ただどう足掻いても、わたしはここへ来るしかなかったのだろう。
痩せ細った、自分の白い手首が頼りない。
どうして、どうしてと。
これが涙なのか、わからない。
だってわたし、今まで何も出来なかった。
"何も"というのは当然話を盛っていて、ただ丁度いい言葉を探すと「何も」になってしまう。ここまでたった数百字書いただけで、わたしの目頭は熱くなっている。忙しい奴だなと、我ながら思う。
笑顔でいるのも、きっと貼り付けている。
わたしのことが大好きな人も、わたしが大好
「休むこと」の大切さを 休まずに考えたい
頭に刺さって抜けない、その言葉が鬱陶しい。
書いています、今も、これからも。
朝起きるとわたしはいつだって書くことを考えていました。別にわたしなんて素人だけど。でも素人だから負けていられない。才能がないことがわかっていること、それを才能にしようとしていました。
朝起きて、顔を洗う。
ラフな格好のまま、髪を整える。
鏡と向き合い、わたしはその日書くエッセイのタイトルを考えていました。正確には意識
名前があると愛着をもてる
先日、『やさしくなりたい』というnoteを書いた。
内容をまとめると、「昔から人のマイナスな感情が流れてくるのがしんどくて、情緒不安定になってる人は見ないようにしちゃうの。あ~~やさしくなりてぇ~~」って感じの文章。
読んでくれた友人から連絡が来たり、SNSなどで「わかるわかる」と意見をもらって驚いた。自分だけじゃなかったのか!
いただいた意見の中でも気になったのが、あいかもさんが記事
日常のふとした瞬間に溢れ出る虚無感は どうしたら埋められるのだろう
小さな幸せに気づけない。
誰とも約束が出来ないというのは人生を放棄しているようだ。
わたしは刺し殺したいほど好きな相手もいないし、刺し殺されるほど人と関わりを持っていない。電話をするほどの相手もいないし、煙草を一緒に吸ってくれる相手もいない。ほとんどの時間わたしはひとりで過ごしている。仕事をしている時は引っ切り無しに人と会話をしているが、どこか壁に向かって話をしているみたいだ。別になんの感情の跳
「書きたい」と「書かなきゃ」の境界線
ここまで私は内側から溢れ出るものを書かずにいられなく、欲求として文章を書いていることが多かった。
「書きたい」は抑え込むことはできても、自分を楽にするため、苦しさを和らげるために、救いのような道として書くことを位置づけていた。
けれど少し落ち着きを取り戻し調子が良くなってきた今、「書きたい」は「書かなきゃ」に移行しつつある時があるように思っている。
毎日更新を掲げていると、次第に義務感が生じてく