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#24 音楽史⑲ 【1960年代後半】カオス!渦巻く社会運動とカウンターカルチャー

クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。

これまでの記事↓

(序章)
#01「良い音楽」とは?
#02 音楽のジャンルってなに?
#03 ここまでのまとめと補足(歴史とはなにか)
#04 これから「音楽史」をじっくり書いていきます。
#05 クラシック音楽史のあらすじと、ポピュラー史につなげるヒント

(音楽史)
#06 音楽史① 古代
#07 音楽史② 中世1
#08 音楽史③ 中世2
#09 音楽史④ 15世紀(ルネサンス前編)
#10 音楽史⑤ 16世紀(ルネサンス後編)
#11 音楽史⑥ 17世紀 - バロック
#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック
#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
#14 音楽史⑨ 【19世紀初頭】ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期
#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
#16 音楽史⑪【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
#17 音楽史⑫【19世紀後半】 普仏戦争と南北戦争を経て分岐点へ
#18 音楽史⑬【19世紀末~20世紀初頭】世紀転換期の音楽
#19 音楽史⑭【第一次世界大戦~第二次世界大戦】実験と混沌「戦間期の音楽」
#20 音楽史⑮【1940年代】音楽産業の再編成-入れ替わった音楽の「主役」
#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ
#22 音楽史⑰ 【1950年代末~60年代初頭】ティーン・ポップの時代
#23 音楽史⑱ 【1960年代中期】ビートルズがやってきた!ブリティッシュ・インヴェイジョンのインパクト
〈今回〉#24 音楽史⑲ 【1960年代後半】カオス!渦巻く社会運動とカウンターカルチャー

前回に引き続き、ロック専門というわけでは無い僕がこのような内容を解説することについて、ロックファンの皆様にとっては「何を今さら」「お前が語るな」「もっとここに触れてほしい」などの意見も、もしかしたらあるかもしれません。しかし、ロック史単体というよりか、クラシック史やジャズ史から地続きのシリーズでこれを書いているという点に一番の価値を見出していただければ、非常に嬉しいのです。

自分の情報整理のために記事を書いているような部分もむしろあるので、とある音楽好きの書き残したメモのひとつとして楽しんでいただければ幸いです。クラシック音楽史は知っているけれど、ポップスのことはよくわからない、だとか、音楽は好きだけどロックは詳しくない・・・といった方にも読んでいただいて、一緒に勉強していければと思います。同時期のジャズ史についても並行して詳しく書いているので、お楽しみいただければ嬉しいです。それでは参ります。


大きくうねる社会情勢

1960年代はアメリカをはじめとして世界的にさまざまな問題について社会的な緊張や運動が広がった時代でした。さらに、社会情勢と音楽が密接に関わっていくことになります。したがって、そのような社会問題・運動についてここでざっと触れてみたいと思います。

まず公民権運動についてです。1861~65年のアメリカ南北戦争後、黒人奴隷は解放され、憲法上は黒人の自由と平等が認められたはずでした。1875年には人種差別を禁止した「公民権法」も制定。しかし、黒人に対する差別意識は根強く残っており、1883年の最高裁判所の判決によって公民権法は実質無効化してしまいます。

すぐに多くの州で黒人を分離する政策が州法や市条例などで法制化されてしまい、交通機関・学校・レストラン・娯楽施設などあらゆる公共施設で黒人用と白人用が隔離されるようになってしまいました。ガソリンスタンドで黒人が給油を拒否されたり、自動車整備工場で整備や修理を断られたり、旅館での宿泊や食事の提供を拒まれたりといったほか、物理的な暴力も常態化。さらに、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会を与えずにしておいて識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされました。1896年には「分離はしても平等」という屁理屈のような判決が裁判で確立し、これによって日常的な差別が長年にわたって堂々とまかり通るようになってしまいました。

クー・クラックス・クラン(KKK)という白人至上主義団体による黒人へのリンチ犯罪や、黒人の営む商店・店舗・住居への放火、さらに白人至上主義団体と同じような志向を持つ警察による不当逮捕や冤罪判決などが南部を中心に多発。白人至上主義はアメリカ国民の多数を占めていた白人に深く根付いてしまったまま、長い時間が過ぎてしまいます。

そんな中で、1955年にある事件が起きます。アラバマ州モンゴメリーで、一人の黒人女性がバスに乗車中、黒人専用席に座っていたにもかかわらず、白人が席を譲ることを要求、これを拒否したため、逮捕されたのです。この事件に抗議し、マーティン・ルーサー・キング牧師らが主導して1年にわたるバス・ボイコット運動を展開。これが共感を得て、黒人のみならず他の有色人種や白人までもがボイコットに参加し、後にこの運動が「モンゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれ、全米に大きな反響を呼んだのです。そして、1956年に合衆国最高裁判所は、バス車内の人種分離は違憲だとする判決を出し、ボイコットの勝利となりました。ここから、さらに南部諸州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せたのでした。飲食店の白人席に座り、注文が応じられるまで座り続ける「シットイン」という抗議活動も広まりました。こういった活動は、黒人がアメリカに住む者としての当然の権利(公民権)を得るための運動であり、「公民権運動」と呼ばれるようになりました。

抗議活動の多くが、このような非暴力的な手段を用いて行われていたにも関わらず、「治安維持」を理由にして多くの州で警察当局がデモ隊を率いて過酷に弾圧するなどしたため、大規模な暴動に発展することもしばしばでした。これらの非暴力的な運動に対する弾圧や暴動は、世界各国のマスコミで大きく報じられ、アメリカにおける人種差別の酷さと、事態を改善しようとする黒人たちの姿を浮かび上がらせたのでした。

1961年に大統領となったケネディは、黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を示しました。ケネディ大統領が提案した公民権法の成立を求め、奴隷解放宣言から100年が経った1963年8月には、20万人が参加したワシントン大行進と呼ばれる大規模な行進が行われ、この時にキング牧師がワシントン記念塔広場で行った「I Have a Dream」の演説は歴史に残るものとして非常に有名であるだけでなく、未だイギリスやフランスなど白人諸国の統治下にあったアフリカやアジアでの独立運動や、南アフリカなどにおける人種差別解消運動にも大きな影響を与えることとなりました。

1963年11月、ケネディ大統領の暗殺が起きてしまいます。ケネディの政策を継承したジョンソン大統領によって、1964年に公民権法がようやく成立し、一定の前進が見られたように思われました。しかし、白人の差別感情は収まらず、1965年3月7日には「血の日曜日事件」と呼ばれる白人警察官による暴力事件が発生してしまいました。さらに、公民権法の制定や人種差別の解消に抵抗するKKKなど白人至上主義団体による黒人に対する暴行、放火、またそれらに対する白人警察官による取り締まりの放棄なども継続的に起きていました。公民権運動は、キリスト教徒だけでなくイスラム教の存在も大きな役割を果たしていましたが、その中心的存在であったマルコムXが暗殺されると、キング牧師主導の非暴力主義的な運動から、暴力など用いることも否定しない過激な運動が大きく支持を受けるようになってしまいます。

さらに、ここで今度はベトナム反戦運動についても触れます。歴史を振り返ると、ベトナムは長年フランスの植民地でしたが、第二次世界大戦中は日本が進駐。同時に社会主義者のホー・チ・ミンが主導する民族独立運動も高まります。日本の敗戦後、ホー・チ・ミンによって独立が宣言されますが、フランス軍が植民地支配を復活させようと進駐し、南部に傀儡政権を樹立してしまいます。アジアの共産主義化を恐れるアメリカもこれを支援し、南部を支配するフランス・アメリカvsベトナム人民が激しく戦う、インドシナ戦争が勃発しました。結果、フランスを追い出すことには成功したものの、アメリカが南部一帯を占領。1954年に停戦、南北ベトナムが分立という状態となり、南北の抗争に米ソの冷戦の対立がからむことになりました。

ベトナム統一の主導権をめぐって南北ベトナムの勢力が対立する中で、北ベトナム軍と南ベトナムの解放勢力が協力し、南を支配するアメリカ軍や南ベトナム政府軍との戦いが続いていきました。宣戦布告がなく、いつ始まったかの定義は諸説ありますが、これが1960年代にさらに激化していき、20年近く続いて泥沼化したベトナム戦争となったのでした。長期化・深刻化するその悲惨な映像がテレビを通じてアメリカの国民に知られるようになると、反戦運動が活発化するようになったのでした。

1965年頃に、学生の中で反戦集会が始まるようになり、67年頃には全国的な広がると同時に、学生たちは大学の官僚制的な統制とも対立するようになり、大学改革を求める学生運動とも関連していくことになりました。

学生運動と結びついた反戦運動はさらに拡大し、全米を覆います。広汎な人々が反戦集会を組織し、ニューヨークやワシントンD.C.でも大規模な反戦デモ行進や最大規模の反戦集会が開催されました。

さて、ベトナム戦争への戦費拡大につれ、福祉予算が圧縮されていくことに不満を抱いた、キング牧師らの公民権運動の指導者もまた、それまで抑えていた反戦の声を出し始めます。しかし、国内問題の解決が行われないままのベトナム反戦運動への積極的な関与と、非暴力の姿勢を継続するさまは、暴力をも辞さない過激思想へと傾きつつあった黒人らの潮流からずれたものとなっていました。黒人の法的権利の平等だけに留まらない、貧困問題などの是正策の追求という点でも、黒人諸団体によって立場は一致せず、ベトナム戦争に対しても見解の相違が鮮明になっていき、公民権運動の方向性は分散していきます。爆弾テロや刺殺未遂もある中で奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていたキング牧師ですが、1968年にとうとう暗殺されてしまいました。暗殺直後には、ロサンゼルスやセントルイスなど、大都市圏を含む全米125の都市で一斉に暴動が発生したのでした。

ベトナム戦争以外でも、アメリカとソ連の東西冷戦の緊張は非常に高まっていました。1950年代のキューバ革命によってキューバは社会主義政権となりましたが、1962年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚し、アメリカがキューバの海上封鎖を実施して、米ソ間の緊張が高まり、核戦争の一歩寸前までに達してしまいました。これがキューバ危機です。一連の流れの中で人々の政府に対する不信感は高まっていき、反核運動の高まりや、上述した公民権運動や反戦運動を後押しすることにもなりました。

まだまだ他にもアメリカにはいくつもの社会問題が横たわっていました。この時期、進行する工業化から生じる汚染や、化学物質をふくんだ農薬のあやまった使用などについて、一般に急速に知られていき、環境保護活動が始まったのでした。その他、女性、同性愛者、障害者などマイノリティの権利を求める活動も活発化していきました。

このように、総じて政府に対してだったり、既存の価値観や伝統的な権威、さらに旧来のキリスト教社会や西洋中心的・近代的な文化に対して、特に若者のあいだで不信感が募り、政治運動だけでなく、文化的にも反抗・対抗する動きとなっていったのです。これがカウンターカルチャー(対抗文化)と呼ばれて、1960年代、非常に大きなムーブメントになります。



カウンターカルチャーにおけるライフスタイルと文化

この "1960年代のカウンターカルチャー" のムーブメントと切っても切り離せないのが、「LSDLysergsäurediethylamid)というドラッグの存在です。1940年代に合成・抽出され、実験が進められたLSDは、極微量の摂取で、異常な造形と色彩が万華鏡のように展開する幻覚・恍惚状態が巻き起こるという強烈なものでした。その精神作用が1950年代には精神療法に用いられようとしていましたが、1960年代に入ると一般大衆の間にも広がってしまいます。意識解放自己変革が可能になるとして、主に西海岸の研究者や知識人の間でも肯定的に広まってしまっており、トリップ中の強烈な色彩感覚・造形感覚から、アートやデザインの分野にも影響を与えました。このようなLSDによる心理的・視覚的・聴覚的な感覚、極彩色のグルグルと渦巻くイメージ(ペイズリー模様)などの状態は「サイケデリック」と形容されました。ドラッグによる個人的な体験・成長は、国を超えて「世界」に平和をもたらすメカニズムなのださえと信じられており、カウンターカルチャーにおいてドラッグ実験がトレンドとなっていました。(Appleの設立者スティーブ・ジョブズも、青年期にこの影響を多大に受け、コンピューターの発展に大きな影響を与えました。)

【サイケデリックなデザインの例】

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さらに、当時の若者たちはインドなどの東洋の文化や思想に関心を寄せました。ヨガ、哲学、ヒンドゥー教、禅、仏教などの、これまでの欧米の思想にはない概念を東洋から発見することによって、より平和に満ちたユートピアを夢みたのです。アメリカの生活に深く浸透しているキリスト教的価値観に反発し、それとは反対である(と考えられた)東洋趣味・神秘主義へと行き着き、禅や瞑想はそんな彼らのニーズに合致するものでした。そして、LSDが出回り始めると、LSDによるトリップが宗教的体験、意識拡大をさせるものとしてLSDを「インスタント禅」と呼ばれ、好んで使用されたのでした。

ファッションでも中近東の民族衣装の要素が取り入れられたり、Tシャツやジーンズなどの普段着をファッションアイテム化させたりしました。男女問わずジーンズを履き、長髪と花飾りが好まれ、履物はサンダルが流行したのち、裸足へと移行します。男性はひげを生やし、女性は化粧をせずノーブラジャー。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードでした。企業がつくる消費文化に反対して、手づくりや古着の服も着られるようになりました。

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さらに、旧来のキリスト教による、対人関係や性に関する厳格な伝統的行動規範(同性愛・婚前交渉・離婚・中絶・自慰・避妊の禁止など)に挑戦する動きも生まれはじめ、自由恋愛が社会のメインストリームとなりました。経口避妊薬が開発され、性に関する社会通念や性的行動が解放されていき、性解放(セックス革命)と言われます。1960年代にサンフランシスコなどの西海岸から広がっていき、「フリー・ラブ」の新しい文化となりました。

このような、西欧のキリスト教や性規範に対するカウンターカルチャーを担った若者たちはヒッピーと呼ばれました。「ラブ&ピース」をキーワードにして、反戦運動、マイノリティの尊重、自然回帰、東洋趣味、セックス、ドラッグなどが結びついたムーブメントとなっていったのでした。「武器ではなく花を」をキーワードに花柄に身を包んだため、フラワーチルドレンとも呼ばれました。

このようなヒッピームーブメント、カウンターカルチャーが1960年代後半のポピュラー音楽とも密接な関連を持ったのです。




楽器、エフェクター、レコーディング技術の発展

サイケデリックな文化が音楽と結びつくに当たって大きな役割を果たしたのが、レコーディング技術の発展でした。60年代の半ばに、4トラックが録音できるMTR(マルチ・トラック・レコーダー)が登場したのです。その後、8トラック、16トラックと新しいレコーダーが導入されていき、作業効率が上がっていったのですが、この時代に録音技術の実験的な試みがなされたのが、ビートルズ作品なのでした。

60年代初頭のガールズグループにおいて既にオーバーダビング(多重録音)の手法を発展させて音楽制作者に大きな影響を与えていたフィル・スペクターや、ビートルズのプロデューサーを務めて「5人目のビートルズ」とも言われるジョージ・マーティンによって、録音の実験は推し進められ、テープの編集を用いた作品作りが行われました。テープスライス逆回転早回し遅回しフランジング(同じ音を重ねて音をうねらせる)、ADT(Artifical Double Tracking = 1度歌うだけで声がダブリングされて重ねられる技術)などが積極的に採用されたのでした。

このような技術によって得られる、今までに無かった奇妙ともいえる音の出現は、音楽によってサイケデリックな状態を表現するのに最適だったのです。1960年代が進むにつれ、加工技術が発達し、現実にはありえない音さえ作られるようになると、録音物が「記録」から「作品」へと性質が変貌していき、概念の大きな転換が発生したのでした。

さらに、新しい楽器も次々と開発されていきます。1962年、メロトロンという楽器が発売されました。これは、鍵盤を押している間だけ、その鍵盤に割り当てられたテープが再生されるというもので、現在のサンプラーの元祖と言われています。フルートが録音された音色が有名で、これもまたビートルズ作品で認知度を高めました。


クラビコードというバロック期のヨーロッパで用いられていた小型のチェンバロのような楽器に、ピックアップを付けて音を電気増幅したクラビネットという楽器も、1960年代半ばに開発されました。これはもう少し後、70年代にスティーヴィー・ワンダーによって多用されて有名になります。

さらに、この時期にはシンセサイザーも登場しています。1964年にロバート・モーグ博士がモーグ・シンセサイザーを開発。電気信号を発信するオシレーター、周波数を狭めるフィルター、定期的な変調を加えるLFOなどの「モジュール(部品)」を、パッチケーブルでつなぎ合わせて音を合成(シンセサイズ)していくのでモジュラー・シンセとも言います。シンセサイザーもまた、音楽として主流になるのはもう少し先の話になります。

楽器の誕生だけではなく、エフェクターの発展もこの時期に大きく進みました。1963年、マーシャルのJTM-45という、よくひずむアンプが登場します。ロックバンドが大音量を求めていく中で、アンプの設定を過剰にすると音がひずむことが発見され、1960年代後半、ギタリスト達はアンプのつまみをフルにして激しくひずませ、今で言う「ロック」な音になっていったのでした。1966年には、Fuzz Faceというエフェクター製品も発売され、ひずみ系エフェクターがここから発展していきました。




サイケデリック・ロックの成立とビートルズ

さて、非常に長くなりましたが、ここまで書いた状況が背景として、1960年代後半のロックミュージックが、カウンターカルチャーを代表する音楽としてヒッピーたちに絶大な支持を得ることになったのです。1960年代中盤のロックの状況としてはフォーク・ロックとブリティッシュ・インヴェイジョンがありましたが、これらのロックミュージックが、LSDの影響を受けてサイケデリックな様子や東洋趣味と結びつき、サイケデリック・ロックというジャンルになったのでした。

ここでビートルズのアルバムを軸に、少し細かく時系列を整理して、その成立の過程を見てみたいと思います。

前回書いた通り、ビートルズは1963年の1枚目〈プリーズプリーズミー〉~ 2枚目〈ウィズザビートルズ〉で英米で人気となり、1964年の3枚目〈ハード・デイズ・ナイト〉の頃にイギリスのバンドが続々とアメリカへやってきてブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれました。その後、1964年の4枚目〈ビートルズ・フォー・セール〉と、1965年8月の5枚目〈ヘルプ!〉で人気は絶頂に達します。このころまで、ビートルズに限らず、ポピュラー音楽はシングル中心の産業であり、アルバムはその寄せ集めでしかありませんでした。ビートルズはアイドル・ライブバンドとして世界各地を回っています。

一方で、フォークミュージックのボブ・ディランは1963年の「風に吹かれて」の頃はアコースティックでしたが、1965年にバンドサウンドに転換し、フォーク・ロックの発生となりました。このころ、ビートルズとボブ・ディランはお互いに影響を与え合いました。ボブ・ディランはジョンレノンと面会した際に「君達の音楽には主張がない」と言い、それ以降ビートルズは、政治や社会についてのメッセージを含んだ楽曲も発表するようになるのです。その一方でボブ・ディランもまたビートルズの影響により、アコースティックからエレキギターに持ち替えたのでした。

また、ビートルズとドラッグの関係で重要な事実として、1964年にボブ・ディランはビートルズのメンバーたちにマリファナを教えています。さらに、1965年4月、ディナー・パーティでLSDが混入されたコーヒーをビートルズメンバーが飲んでしまったことにより、トリップ体験をし、ここからビートルズのサウンドの変化の大きなきっかけとなります。

1965年12月、ビートルズは6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」を発表します。このアルバムの特徴は、ボブ・ディランらフォークロックからの影響が強くみられることと、使用される楽器の幅が広がったことです。精神面ではマリファナの影響が強いと言われています。この時期、インドの歴史的音楽やインドの楽器シタールを紹介され、その影響を受けてポップミュージックに導入されたのでした。さらに、タンバリンやマラカスなどの使用も増えています。これらは、当時発達していった多重録音技術が大いに活かされた結果であるともいえます。このアルバムによって、ビートルズはアイドルバンドからロックアーティストへと変貌しつつありました。


この「ラバー・ソウル」に衝撃を受けたのが、もともとサーフロックで活躍していたビーチ・ボーイズなのでした。対抗心を燃やし、このラバーソウル超えのアルバムを作るべく、ボーカル&ベース担当のブライアン・ウィルソンはツアーをほかのメンバーに任せて、アルバム製作のためスタジオにこもってしまったのでした。それまでの、カリフォルニアのビーチをイメージした脳天気なイメージのサーフロックから一転し、1966年5月「ペット・サウンズ」をリリースします。このアルバムで、多重録音の名手であったフィル・スペクターの技術を参照しながら、理想の音、今までなかった音を徹底的に追い求めたのでした。管弦楽器だけでなく、アコーディオンやティンパニ、ヴィブラフォン、オルガン、テルミンなど、さらには、犬の声や電車、自転車の音まで、先入観にとらわれず使えそうなものは何でも試して録音されました。

アルバム全体でひとつの物語のような仕上がりになっていて、そのサウンドの変化は当時賛否両論でしたが、今ではロック史の重要な一枚となっています。そして、今度はこの「ペット・サウンズ」にビートルズが触発されることになるのでした。

ビートルズは「ラバー・ソウル」のあと、さらにLSDや東洋思想に強い影響を受けて、1966年8月に、7枚目のアルバム「リボルバー」を発表しています。このアルバムでは、ヴォーカルにオルガン用のスピーカーを通して強いエフェクトをかけたり、テープを逆再生・早回しさせた音を導入するなど、音色面での実験が導入されました。これがLSDの神秘体験のイメージをあらわすものとして、サイケデリック・ロックと呼ばれるようになったのでした。

ビートルズはこのころ、1964年~1965年にかけての過酷なライブスケジュールによるメンバーの体調や私生活の破綻、さらに観客動員数増加に伴ってコンサート会場が球場になったことによる音質面の問題など、メンバーがライブに対して不満を募らせていました。さらに、1966年6月に初来日して武道館でコンサートが行われた際、ファンの熱狂に警戒して厳重な警備態勢が敷かれた結果、日本人特有の非常に静かな客席の前で演奏することになります。ここで、ビートルズメンバーは初めて自分たちの演奏力の低下に気付き、ショックを受けたのです。さらにその後のフィリピン公演では暴動に巻き込まれ、1966年8月のサンフランシスコ公演をもって一切のライブ活動を止めることを発表します。ここから、ライブ演奏を前提としない、現実に再現できない録音上での表現・実験に没頭していくことになったのでした。

そして、このタイミングでビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」に触発されたビートルズは、最重要作品となる8枚目のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を1967年6月に発表しました。このアルバムは、架空のバンドがショーをしているという設定で曲目が進んでいき、それまでの曲の寄せ集めではない、アルバム全体で聴かせるという「コンセプト・アルバム」がロックバンドとして成功した初めての例だとされています。

それまで国や地域によって勝手に収録曲・曲順・アートワークが変えられたり、数合わせのカバー曲が入ることも普通だった「アルバム」が、この段階から「収録曲・曲順・アートワークも含めて作品」として重要視されるようになったのです。

ビートルズのサイケデリック・ロックへのシフトにより、多くのバンドがサイケデリックなファッションやデザイン、サウンドを取り入れてサイケデリック・ロックへ接近し、アルバムを制作する現象が起こるようになったのでした。




サマー・オブ・ラブ

1967年の夏。ヒッピー達による文化が一気に盛り上がり、ピークを迎えます。サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区に10万人以上もの若者が集まり、共同体を形成して共同生活をはじめ、大きな社会現象となったのです。これをサマー・オブ・ラブといいます。自由思想、自由恋愛、ヒッピー・ファッション、フラワー・パワー、政治的意思表示、ドラッグ、芸術的表現などを追い求める若者達が集い、異常な熱気が渦巻いていました。これにより、ヒッピーが作り上げてきた思想や、カルチャーが、一気にたくさんの人に知られたのでした。サンフランシスコ以外にも膨大な数のヒッピーがニューヨーク、ロサンゼルス、フィラデルフィア、シアトル、ポートランド、ワシントンD.C.、シカゴ、カナダのモントリオール、トロント、バンクーバーやヨーロッパの各都市に集って運動を起こしたといいます。その中で特にサンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治的意思表示の中心地・ヒッピー革命の本拠地とみなされていました。

サマー・オブ・ラヴの中心にあったのがロック・ミュージックであり、サンフランシスコで結成されたバンドであるグレイトフル・デッドがヒッピー文化、サイケデリック文化を代表する存在となっていました。彼らのファンは「デッド・ヘッズ」と呼ばれていました。ライブでは客にLSDを配ったり、通常では違法であるはずの録音を許し、ファン同士で共有することも自由にさせていました。ライブでは長尺のセッションがなされたのも特徴で、ヒッピーたちの心をとらえたのでした。

この時期のカウンターカルチャーと関係が深いアーティストやバンドとしては他に、ジミ・ヘンドリクスドアーズジェファーソンエアプレンママス&パパスヴェルベット・アンダーグラウンドジャニス・ジョップリンなどがいます。

1967年にカリフォルニアのリゾート地で開催された、モントレー・ポップ・フェスティヴァルは五万人が集まり、「ロックフェスの源流」だといわれています。

そして、1969年8月に開催された「ウッドストック・フェスティバル」でムーブメントは最高潮に達しました。このイベントはヒッピーを中心としたカウンターカルチャーを最も象徴する歴史的イベントとして、かつ、ロック史上最も重要なイベントとして知られることとなります。企画当初は1~2万人程度の入場者を見込んでいましたが、事前に18万6000枚のチケットが売れ、当日それをはるかに上回る40万人以上が詰めかけ、半数以上が入場料金を払わなかったため、事実上無料イベントの様相を呈したといいます。会場へと続く道は大渋滞し、出演ミュージシャンも巻き込まれたり、雨に見舞われて中断が重なったり、と進行も遅れてしまいます。食糧不足、トイレや医療体制の不備、大雨による環境の劣悪化などがありましたが、参加した若者たちは互いに助け合い、暴力事件なども報告されずに無事閉幕しました。

フェスティバルの成功は新聞やニュース、ドキュメンタリー映画やライブアルバムなどを通して世界中の若者に届けられ、「若者たちの夢の実現が決して不可能なものではない」「愛と平和と音楽がこの世界を変えるかもしれない」ということを証明したかのように思わせたのです。しかし、奇跡に近い理想の幻想は、これが最後となってしまいました。

4ヶ月後の1969年12月。カリフォルニア州オルタモントで、ローリング・ストーンズが同じような大型のフリー・コンサートを開きました。このコンサートで警備にあたっていたのはヘルズ・エンジェルスというギャング集団で、反体制活動の象徴と見なされていた一方、売春や麻薬密売などで多額の資金を得るなどしていた犯罪組織でした。コンサート中、ステージに駆けあがろうとした黒人青年をヘルズ・エンジェルスが惨殺するという事件が起こってしまい、大混乱になりました。これが「オルタモントの悲劇」と呼ばれ、音楽関係者やロックファンに大きな衝撃を与えてしまいました。その後も世界各地で開催されたロック・フェスティバルでさまざまな事故や混乱が続き、大型ロック大会は自粛されるようになり、ヒッピー・ムーブメントに対する人々の関心は完全に冷めてしまいました。

さまざまなプラスの可能性が信じられていたLSDですが、服用後に錯乱状態に陥るバッド・トリップによる副作用が知られるようになり、1960年代末には世界各国で禁止されるようになりました。ドラッグによって廃人となったり、命を落とすミュージシャンも多く出てしまいました。

現実の世界では、ベトナム戦争は泥沼化、ケネディ大統領やキング牧師が暗殺された後反体制運動が過激化し、民主党党大会に応援デモに集まった群衆を、警官が暴力で蹴散らすという流血事件も起きています。音楽は世界を変えられるのではないかという夢は打ち砕かれ、サイケデリックのムーブメントも幕を閉じることになります。「オルタモントの悲劇」は「ラヴ&ピース」の時代に終わりを告げた象徴的な出来事となったのでした。


ビートルズの崩壊

「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で一つの到達点に達したビートルズでしたが、その直後に、マネージャーであるブライアン・エプスタインが急死します。交渉やスケジュール調整を行っていた存在が突然いなくなり混乱しただけでなく、自分たちが不利な契約を結んでいたことにここで気づきます。ビートルズは自らの財産を運用するための会社、アップル・コアを設立しましたが、経営に関して全くの素人である4人が会社をコントロール出来るはずもなく、深刻な金銭問題が発生していきました。

また同年、プロの映画監督を雇わないという無謀な状況下でビートルズ主演による「マジカル・ミステリー・ツアー」というテレビ映画の制作が行われ、酷評となってしまいます。このころからメンバー間での不和が大きくなってしまい、バンドとしての結束が希薄になっていきます。

「サージェント・・・」の次に出たアルバムは、このサウンドトラック盤である「マジカル・ミステリー・ツアー(1967年12月)」です。映画は酷評でしたが、このアルバムに収録されている「ペニー・レイン」「All You Need Is Love」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などの楽曲は、「サージェント・・・」前にシングルとして発売されていて、本来「サージェント・・・」のタイミングのアルバムに入る予定の楽曲でした。これらは現在でも非常に有名な楽曲であり、これらが収録されている「マジカルミステリーツアー」というアルバムは非常に完成度が高く聴きやすいものだという評価にもなっています。


その次のアルバム「The Beatles(1968)」は初の2枚組のアルバムで、真っ白なジャケットから「ホワイト・アルバム」という通称で有名です。この作品は各自のソロ作品の集合体という性格が強く、「ごった煮」であると呼ばれます。バンド内の関係性の悪化があらわれているといわれ、すべての音楽ジャンルが2枚に詰まっているとも言われるほどです。まさに賛否両論だと言えるでしょう。「Revolution No.9」という楽曲では、クラシックの系譜である「現代音楽」のトレンドであったミュージック・コンクレートミニマル・ミュージック的要素まで取り入れられました。


ビートルズのオリジナルアルバムとして最後の2枚となった『アビイ・ロード(1969)』と、『レット・イット・ビー(1970)』は、録音時期と発売順が逆になっています。

1969年1月、バンドの状態に危機感を覚え、原点回帰を目指して「ゲット・バック・セッション」が行われました。過度な編集はせずバンド演奏を大切にし、最終的には「ゲット・バック」というアルバムの完成が目指されていたものの、メンバー間の軋轢が収まらず、一度お蔵入りになってしまいます。

メンバーが皆、バンド脱退や解散を口にする中、金銭問題・契約上の問題により繋がっていたという状態でした。そんな状況の中、1969年9月に発売された「アビー・ロード(Abbey Road)」が、ビートルズとして最後にレコーディングした作品になっています。ジャケット写真も非常に有名ですね。

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既に解散が目に見えていた状況で、割り切って制作されたこのアルバムは、逆にバンドとしての最後のまとまりをみせ、随一の完成度となったと言われています。

その後、ゲットバックセッションの素材を再編集してアルバム発売する話が持ち上がります。事実上ビートルズが解散した後の、1970年5月に「レット・イット・ビー」として発売されたのでした。このアルバムにおいて、多重録音で有名なフィル・スペクターが編集を行っています。

ゲットバックセッションは、原点回帰を志して、多重録音を是としないコンセプトだったにもかかわらず、フィル・スペクターによってさまざまな多重録音がなされていったことについて、ジョン・レノンやジョージ・ハリスンは非常に満足だったことに対し、ポール・マッカートニーは不満だったようです。しかし、契約上の問題から発売を差し止めることもできず、発売されてしまいました。(オーケストラなどが重ねられていない、本来のバンド演奏に近い再編集版が、2003年に発表されているようです。)

こうして、ビートルズの物語も終了し、オルタモントの悲劇とともに、60年代の若者たちの異様な熱狂は幕を閉じていったのでした。




「ソウル」から「ファンク」への “リズム革命”

「黒人音楽」という枠組みが再び浮かび上がっていきつつあった1960年代中盤、ジェームズ・ブラウンはリズム&ブルースやゴスペルをルーツとする歌やハーモニーが基調のソウル・ミュージックから脱皮させ、ギターやホーン・セクションまで含めた、バンドの全楽器がリズムを強調するような音楽を目指すようになります。50年代は、もともとレーベルの意向にそってソウル・ミュージックを歌っていたジェームス・ブラウンですが、1964年の「Out Of Sight」や1965年の「Papa's Got A Brand New Bag」から、ビートを強調させる兆候が始まったとされています。

リズムやビートの強調とともに、コード進行の最小限化が志向されるようになります。上に挙げた60年代半ばの作品では、まだブルース進行の名残が見られる曲も多いですが、徐々にブルース進行さえも否定されていき、ただひたすら1コードか2コードを繰り返す楽曲形式になっていきました。このようにジェームズ・ブラウンが推し進めた音楽スタイル「ファンク」と呼ばれ、ソウル・ミュージックの新しい段階となったのでした。ロックにおける8ビートのリズムから、ファンクではハイハットを刻んだ16ビートへの移行が進んだことが重要な点です。

ジャズではコードの機能的な進行を避けた「モードジャズ」がうまれ、クラシックから続く現代音楽の分野でも、ひたすら反復を要求する「ミニマル・ミュージック」が誕生しており、サイケデリック・ロックでも、長尺のセッションの増加や東洋趣味(インド的な輪廻転生)にその志向を見出せます。この時代、既存の秩序からの脱出という「ポスト・モダン」の方向性として、「反復」に興味が注がれるようになったということがいえます。

さて、ジェームズ・ブラウンは黒人社会での影響力を大きく持つようになりました。68年にキング牧師が暗殺されたあとには、ラジオを通して平静を呼びかけたり、翌日のライブに急遽テレビ中継を付けて、「暴動を起こさず、家にとどまって俺のショーを見るように」と呼びかけ、放送された地域では実際に暴動が抑制されたといいます。

1960年代末になると、ジェームス・ブラウンが産み出したリズムやボーカルスタイルが、他のソウル・ミュージシャンも取り入れるようになります。

ソウルの段階において“funky”という言葉を使った最初の楽曲は1967年のダイク & ザ・ブレイザーズの「Funky Broadway(1967)」だとされています。

また、ジョージ・クリントンが結成していたパーラメントというドゥーワップ・グループが、契約上の問題で名前が使用できなくなってしまったことを機に、それまでのバックバンドを前面に出して1968年「ファンカデリック」を結成します。これは「ファンク」と「サイケデリック」の造語で、もちろん当時のカウンターカルチャー、LSDの影響がありました。それまでのモータウン調のボーカルグループからサイケデリック・ハードロック・ファンクバンドに変容し、ジョージ・クリントンはジェームス・ブラウンとともにファンクの最重要人物となります。「パーラメント」と「ファンカデリック」、及びその構成メンバーによるファンクミュージックを総称して「Pファンク」という音楽ジャンルで呼ばれています。

また、サイケデリック文化が花開くサンフランシスコにおいては、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがより麻薬的なムードを作り出して成功しました。人種・性別混合編成のバンドであり、ロックとの融合したサウンドは白人にも人気となりました。彼らの全盛期は1968~1973年とされます。

以上のように、ジェームス・ブラウン、Pファンク、スライ&ザ・ファミリーストーンが、この時期「ファンク」というジャンルを確立した重要アーティストです。



ポスト・バップの発生(もしくは「新主流派」)

公民権運動の高まりを受けて、ジャズ界では「自由」というキーワードと前衛表現が結びついた「フリージャズ」が先鋭的なムーブメントとなっていましたが、基本的には60年代は「モード・ジャズ」と「ファンキージャズ」が2つがジャズの柱だったといえるでしょう。その中での「バップからモード、そしてその次の段階へ」という方向のジャズ史の物語が、マイルス・デイヴィスを軸に語られていることを前回までの記事で触れてきました。「ロックンロールからサイケデリックロックへ」という変化がビートルズを軸に語られ、「ソウル・ミュージックからファンクへ」という変化がジェームス・ブラウンを軸に語られているのと同じ構造だと考えると非常に理解しやすいと思います。ロックの項でビートルズの時系列を少し細かく確認したのと同じように、マイルスの時系列も確認していきます。

マイルス・デイヴィスは1950年代の「ハード・バップ期」の演奏メンバーが「第一期黄金クインテット」と呼ばれ、そのメンバーは、ジョン・コルトレーン(Ts)、レッド・ガーランド(Pf)、ポール・チェンバース(Ba)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(Dr)でした。彼らはそれぞれハードバップを代表するミュージシャンとなっていきます。マイルスは1956年にプレスティッジからコロムビアへ移籍し、移籍第一弾のアルバム「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を発表しますが、一方で、その前に契約していたプレスティッジとの間にはまだあとアルバム4枚分が残っていたのでした。この契約を済ませるために、1956年、たった2日間でアルバム4枚分24曲、すべてワンテイクでレコーディングを行ってしまいます。これが伝説の「マラソン・セッション」と呼ばれ、この音源を『Cookin' 』『Relaxin'』『Workin' 』『Steamin' 』という4つのアルバムにして、プレスティッジは1年ずつ分けて発表していったのでした。これがマイルス・クインテットの「前期4部作」と言われています。

その後マイルスバンドの演奏メンバーは流動化し、1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」から試みられたモードジャズへの移行においては、クラシックの素養を持つ白人ピアニストのビル・エヴァンスが重要な役割を果たしたことは以前の記事で既に書きました。

コードからモードへの移行において、ドビュッシー以降の近代音楽と同じく、「機能和声」「調性感」からの解放が特徴だということも説明しましたが、ここで注釈を入れると、1959年のこの段階においては、「アドリブ演奏のアプローチのしかたがコード進行から音階(モード)へと変わっただけ」であり、楽曲としてはまだまだわかりやすい調性感が残っているといえます。

時代区分として「モード → フリージャズ 」と一方向的に捉えたとき、モードジャズの代表作としてこの「カインド・オブ・ブルー」だけが注目されてしまいがちなため、逆にモードジャズというジャンルの特徴が分かりにくくなってしまっていると思います。「カインド・オブ・ブルー」だけを思い出して「モードというのは大人しい感じ」というイメージで捉えてしまっているジャズファンもたくさんいるでしょう。しかし、音楽理論上のアプローチの仕方である「モード」に、激しさ/大人しさという軸は実は関係ありません。モーダルなアプローチで作曲されていて、ビバップのように激しさのある楽曲も存在しているのです。

そのように、アコースティックなジャズにおいて、楽曲全体で機能的なコード進行を崩してモードなどの音階を中心に作曲される「モードジャズ」の作風は、2020年代の現在まで豊かに発展して続いていますが、そんな「モードジャズの典型」が確立されたのは、むしろ今回紹介する60年代後半の音源においてなされていったのだといえます。

それを推し進めていったのが、1964年からメンバーが固定化された、マイルスの「第二期黄金クインテット」なのです。ハービー・ハンコック(Pf)、ウェイン・ショーター(Sax)、トニー・ウィリアムス(dr)、ロン・カーター(Ba)、というメンバーが迎えられたのでした。

このメンバーで発表された『E.S.P.(1965)』『マイルス・スマイルズ(1967)』『ソーサラー(1967)』『ネフェルティティ(1968)』という4枚のアルバムが、マイルス・クインテットの「後期4部作」と呼ばれて評価され、残っています。以下の音源を聴いていただくと、徐々に和声感・コード進行感が崩れていく感じがわかると思います。

(「マイルス・スマイルズ」というアルバムタイトルに関しては、笑っているマイルスの顔がシュールであり、「何故急にダジャレ?」と、つい失笑してしまいます。w)

このような音源でみられる和声感覚が、従来の機能和声を否定していった近現代クラシックのハーモニー感覚と非常に類似しています。フリージャズのようにひたすら無秩序で前衛であるだけというわけでも無く、ビバップやファンキージャズのような従来の手法でもない、絶妙なバランス感覚で成り立っていた、モードジャズの発展形を、日本のジャズ評論では「新主流派」と表現されます。このあとジャズ史はロックやファンクと融合して「フュージョン」という方向へ向かっていくのですが、「新主流派」という言葉は、バップとフュージョンの間に挟まれた、この「60年代後半のムーブメント」だけに限定する意味合いが強いため、70年代以降も引き続いたこのような路線の音楽を指し示すことが難しくなってしまいます。分け方として、スウィングジャズまでのアーリージャズと、40~60年代のモダンジャズ、70年代以降のフュージョンという大分類になるのです。

従来の日本のジャズ史分節

ところが英語圏では近年、60年代以降のモーダルなジャズを総称して「ポストバップ」というジャンルで指し示すようになってきたといいます。この概念を用いることで僕は、この後のフュージョンをジャズのサブジャンルではなく、新しい1ジャンルと見なし、それと同時並行で2020年代まで続くアコースティック・ジャズも認めて俯瞰で分類することができる、非常に良い概念だと思いました。したがって、この記事ではこの「ポストバップ」という言い方を採用したいと思います。

ポストバップ

さて、マイルスバンドにおいて、50年代に第一期クインテットに招かれたメンバーが各自それぞれ、ハードバップを牽引するミュージシャンとして活躍したのと同じように、第二期クインテットに招かれたメンバーたちも、ポストバップを牽引する存在に成長していきます。

1965年1月に録音された『E.S.P.』から、1966年10月に録音された『Miles Smiles』までのあいだ、実はマイルスは股関節痛の悪化で手術などすることになり、入退院をくりかえし、活動を休止していました。そのあいだにも、マイルスバンドメンバーをはじめとした新感覚の若手ミュージシャンたちは、各自の活動や録音を進めています。このようにして、1965ごろから展開していった新感覚ジャズが、「新主流派」もしくは「ポスト・バップのはじまり」「モードジャズの発展形」だと言えるのかもしれません。

先述したとおりマイルスバンドのハービー・ハンコック(Pf)、ウェイン・ショーター(Sax)、トニー・ウィリアムス(dr)、ロン・カーター(Ba)をはじめとして、フレディ・ハバード(Tp)、マッコイ・タイナー(Pf)、ジョー・ヘンダーソン(Sax)らが活躍しました。(また、この時期、彼らに遅れてチック・コリア(Pf)が同じ路線でデビューしていますが、タイミングとしてはこのあとすぐに電化の波にのまれていくことになります。)




電化していくマイルス

さて、「後期4部作」を発表した後、マイルス・デイヴィスはジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックスといった、同時期のロック、ファンク、R&Bに関心を持つようになります。そして、1968年の『マイルス・イン・ザ・スカイ』というアルバムでついに、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入したのです。既存のクインテットメンバーに加えてギタリストにジョージ・ベンソンを迎え、ロン・カーターにはウッドベースだけでなくエレクトリック・ベースを、ハービー・ハンコックにはアコースティックピアノだけでなくエレクトリックピアノを弾くことを要求したのです。ただ、このアルバムにおいては、アコースティック編成も混ざっており、エレクトリック・ジャズへ移行し始めた最初のアルバムであると同時に、マイルスのアコースティック・ジャズとしての最後のアルバムだとも言えます。また、電化していくと同時に、プロデューサーのテオ・マセロによる積極的なテープ編集もなされるようになりました。

何の先入観もなく「ジャズとロックの融合」というと、現在に生きる我々はもっと違ったサウンドをイメージするかもしれません。しかし、この時代において、ジャズが「フリージャズやポストバップ」といった、難解なハーモニーや前衛的な空気感があったことと、同時期のロックというのがLSDに影響を受けた「サイケデリック・ロック」であったという、この時代ならではのカオスな状況下での融合であった、ということを頭に入れてから聴くことではじめて、このようなサウンドが解釈可能になるでしょう。

1969年、「In A Silent Way」でこの方向性がさらに推し進められ、ギターにはジョン・マクラフリン、オルガンにジョー・ザビヌル、エレピにはハービー・ハンコックに加えてチック・コリアが迎えられ、電化ジャズの先駆けとなる作品になりました。16分のハイハットが刻まれる中で、ひたすらワンコードで即興演奏が進むさまは、ファンクの影響も強いと言えるでしょう。

そして、1970年のアルバム「ビッチェズ・ブリュー」で、ジャンルの融合が完全に確立されたとされます。このアルバムはジャズ界に革命をもたらした大問題作として、賛否両論を巻き起こしました。録音には15人が参加し、複数人のエレピやドラムが左右のチャンネルに振られ、コンガやバスクラリネットなども入り、さらに自身のトランペットにはワウ・ペダル(エフェクター)を取り付けるなどして、サイケデリック・ロックやファンクに対抗できるようなサウンドを目指したのです。

ジャズ史上では、このアルバムをもって「フュージョン」の段階に進んだとされます。ただ、当時はジャンルの掛け合わせである「クロス・オーバー」という言い方がされました。さらに、音源をよく聴けばわかることですが、この時期にマイルスが目指したサウンドは、このあと主流となるフュージョンというジャンルの方向性とは若干異なり、ファンクやサイケデリック・ロックと、ポスト・バップやフリージャズの要素をすべて詰め込んで好き勝手に混ぜ合わせた、形容しがたい独自の「マイルス・ミュージック」であるといえるでしょう。

ともあれ、1960年代後半~1970年代前半にマイルスバンドに招かれて演奏した「マイルスバンド出身者」「マイルス卒業生」たちが、それぞれの活動において、クロスオーバージャズ/フュージョンという分野をさらに開拓していき、新しいジャズ界を形成していくことになります。

ビバップ、クールジャズ、ハードバップ、モードジャズ、フュージョン、とジャズの主要なジャンルの発展がすべてマイルスの先見性によって進められたため、マイルスはジャズの「帝王」と呼ばれるようになったのでした。


ロックミュージカルの登場

ミュージカル界においても、この時期に大きな方向性の転換が起こります。ブロードウェイにもロックが持ち込まれたのです。オペレッタをルーツとした従来の「声楽的ミュージカル」に対して、「ロック・ミュージカル」呼ばれました。1968年の『ヘア』という作品がそのはじまりだとされています。ベトナム戦争やヒッピー文化、反戦などのテーマを扱った作品でした。

その後、『ジーザス・クライスト・スーパースター』などにも引き継がれ、ロックミュージカルが発展していきました。



「サルサ」の誕生

 キューバなどのスペイン語圏では1950年代まで、いわゆるエリート層による主導によって、土着文化と西欧近代的美学との折り合いをつけて様式を落ち着けていた状況だといえます。以前の記事で触れてきた、ソン、ダンソン、ルンバ、マンボといった音楽がそれにあたります。しかし、1960年代から、アメリカと同じくマイノリティの政治参加の声が上がる時代になり、「国民音楽・舞踏」といった旧来の"社交ダンス的"なステレオタイプに反抗する若者が発生したのでした。「ヌエバ・カンシオン(新しい音楽)」や「カント・ポプラール(民衆の歌)」といった言葉とともに、スペイン語圏全域にこの風潮が広がり始めます。

その後キューバは、キューバ革命~ミサイル危機・社会主義化を経て、アメリカとの国交が断絶されてしまいました。ニューヨークに住むスペイン語話者たちも本国と国交を分断されてしまい、おりしも対抗文化運動の盛り上がる1960年代ニューヨークにおいて、彼らはロックやソウルに触発されつつ、アフロ・キューバン音楽を継承・発展させた新しいスタイルを実験し始めていました。このような、1960年代に発生したニューヨークのラテン系移民(特にプエルトリカン)を中心とした音楽を総称して「サルサ」といいます。

キューバの基幹音楽「ソン」やそこから発展した「マンボ」を基調にしながら、ティンバレスや「モントゥーノ(トゥンバオ)」(=ピアノのバッキングパターン)が強調されたピアノが発展し、ジャズ・R&B・ロックにも関心を寄せており、同時期の英語圏のロックに対する、スペイン語圏の応答だともされています。ジョニー・パチェーコが設立したファニア・レコード「サルサのモータウン」と呼ばれるほどのレーベルとなり、サルサ・ミュージックが生産されていきました。他に、ティト・プエンテボビー・バレンティンらが影響力を持ちました。

一方、国交断絶したキューバは独自の道を歩み、サルサとは別の、ロックドラムが加わったティンバというスタイルが発展していくことになります。



「ロック・ステディ」と「サウンドシステム」

60年代初期にスカが発生したジャマイカでは、スカをゆっくりにしたロック・ステディというジャンルが発生します。時期がはっきりと区分されており、スカの時代が1962年~66年ごろだったのに対し、ロック・ステディは1966年から1968年の間の音楽を指します。このあと60年代末~70年代初頭にかけてレゲエの発生へとつながっていくのですが、ロック・ステディはスカとレゲエの中間の音楽です。

この時期はジャマイカの音楽産業にとって大きな発展を遂げた時代でした。ジャマイカ特有の音楽文化であった「サウンドシステム」がより明確に音楽ビジネスとして行われるようになったのです。

「サウンドシステム」とはもともと、40年代~50年代に酒屋・バーの経営者等がストリートにスピーカーを持ち出してアメリカのリズム・アンド・ブルースやブギウギなどをかけたりしていた集団・サービスを指します。オーディオセットが普及していなかったため、多くの島民にとってはレコードを鑑賞できるよい機会でした。

その後、ジャマイカ国内でスカが多く録音されるようになるにつれて、サウンドシステムはダンスのできる娯楽の場所へと変わっていきました。サウンドシステムのオーナーはレーベルを経営するようになり、客から入場料を取ったり、食物やアルコール、レコードを販売して利益を上げるようになったのです。さらに、レーベル経営にあわせて、積極的に音楽をプロデュースするようになりました。重要な2人のレーベル経営者として、コクソン・ドッドデューク・リードがあげられます。スカからロック・ステディになるにつれて、サウンド・システムの数も増え、各サウンド間の競争は激化したのでした。スピーカー設備はより巨大な音が出るように改善され、サウンドのオーナー(兼レーベルの経営者)たちは選曲に趣向を凝らすことはもちろん、特注レコードも量産していったのでした。

このようなジャマイカのサウンドシステム・音楽文化は、70年代のレゲエの特徴になっただけでなく、DJ文化・MC文化を有するヒップホップの発生にもつながる重要なルーツとなったのでした。


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