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「障害」じゃない、「私は私」だ。

中学生の頃に、
学期の終わりに受け取った通信簿。

「担任の先生からの一言」の欄に、
こんな言葉が書かれていた。

「“障害”を抱えながらの登校だけど、
よく頑張ってます。」

確かに私が、
“強迫性障害”であることには間違いない。

けれど、
わざわざ“障害”という言葉を書かれて、
すごく傷ついたことを今でも鮮明に覚えてる。

“強迫性障害”の私に、
“障害”という言葉を直接向けるのは、
あまりに残酷だ。

なぜなのか…。

ひとつには、
誰よりも自分がその言葉の重みを
理解しているから。

例えば、
自分の体型を気にしている人に、

「自分は頭悪いかもしれない…」
と悩んでいる人に、

面と向かってそれ相応の言葉を
言ってはいけないのと同じように。

そしてふたつには、
その先生の言葉によって、

「自分は“障害”という枠組みの中で
 見られていること」


それがはっきりと分かってしまったからだ。

「クラスの中の一人の
 不登校で“強迫性障害”の子」

そんな先生の脳内が、
決めつけが見えてしまったからだ。

あくまでも、
私が私として出来ることを頑張ったまでなのに、

「障害という枠の中にしてはよく頑張った。」

そんな評価に聞こえ、
本当にやるせない気持ちになったからだ。

多分それは、
どこか下に見られているような感覚と、
 
その枠組みに当てはめられたら
自力ではどうすることも出来ない無力感に
苛まれるから。

“障害”云々ではなくて、

「あなたはあなたなりに頑張ってる」


ただそれで良かったんじゃないか。

デリカシーというか、
ちょっとの想像力というか、
そんなものがあまりに希薄だった。

ある一線を越えるか越えないかは
人それぞれだけど、

でも余裕で越えてきてしまう感じの、
そんな先生だった…。

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今こうして振り返ると、
その先生なりに私に向き合おうと、
理解しようとしてくれていたことは伝わってくる。

また、
私とその先生は性格もタイプも違っていて、

何なら正反対くらいに
位置していた関係性の中で、

「強迫性障害について理解して」

なんて言われても、
なかなか難しいというのが正直なところ
だったのかもしれない。

けれどそうだとするなら、

「難しいからこそ、分からないからこそ、
下手に踏み込まないようにしよう」

きっとそんな態度が、
“分からない”相手に対する最大の配慮であり、

相手を“尊重”する
ということなのかもしれないと今では思う。


(赤裸々に書いてしまって、ちょっと恥ずかしいですね笑🫣)


りん





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