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【9000字無料】 WEターン:人間の弱さを考える——『AI親友論』を読む(2)

*Kindle Unlimitedでもお読みいただけます!

2023年に刊行された『AI親友論』について、紹介・感想・議論を行ったダイアログ(対談)です。
全4回の記事に分けて、お届けします。
(今回は第2回!)

第1回 人間についての哲学的な本!?
第2回 WEターン:人間の弱さを考える(この記事です)
第3回 ドラえもんと共冒険者モデル:人間とAIの関係を考える
第4回 カント的人間:道徳と自由を考える

(どの回も一部は無料で読むことができます)

(今回紹介する本の書誌情報)
出口康夫『京大哲学講義 AI親友論』徳間書店、2023年


第1回はこちら

話している人

八角
 株式会社「遊学」の代表。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 哲学をやっている。

しぶたにゆうほ 
 株式会社「遊学」の一員。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 専門を尋ねられると、大学では「数学基礎論」、大学院では「宗教言語論」と答えていた。

「わたし」について考える

八角 前回の結論を言うと……。『AI親友論』において、「AIと親友になれるのは、いつですか?」「シンギュラリティの問題が解決した後に親友になります」って期待した話は出てこない。というのもそれは当然で、そもそも言ってる話が違う。これは技術的なAIの話ではなくて、「SFとかアニメとかの、ファンタジーで言われているAIを親友として考えようね」って話だった。

しぶたにゆうほ(以下「しぶ」) うん。それでは、ここから中身についての話を始めましょうか。

八角 まず「WEターン」についての話をしたほうがいいと思う。「AIと人間の関係」についてはあとで(次回以降)話すとして、その前段階。

しぶ 確かにそうだね。「WEターン」というのは、出口先生のオリジナルの用語。『AI親友論』の議論を考えるためには、「わたし」の捉え方を変える、というところから話が始めようか。

八角 「WEターン」が何の話かというと、「人間をどのように考えるか」っていう話で、具体的には、これまでの「わたし」ではなくて、「われわれとしてのわたし」と考えましょう、というもの。

しぶ そうだね。この「わたし」っていうのはこの1つの生物的な個体というか、それを指すわけだよね。一方で、「WEターン」では、「われわれ(WE)」を「わたし」だと考えるように転換する。転換だから、ターン。それで「WEターン」。「わたし」の捉え方が変化する。

八角 説明が必要なのは、そもそもの、その「わたし」というものをどのように考えるか、ってことですね。この本では、「わたし」を2つの「弱さ」で考えると書かれている。

しぶ 「弱さ」で考えるというのも、出口先生特有の考え方だね。最初(第1回)にも話したけど、「できること」ではなく「できないこと」でもって人間を捉えるというのは、この本全体に通じるモチーフ。

八角 「根源的なできなさ」っていう表現で最初に書かれてるけど、その根源的なできなさっていうのが2つある。つまり、「単独行為不可能性」と「完全制御不可能性」ということみたいだね(25頁)。

しぶ そうだった。2つはどう異なるんだっけ。

八角 「単独行為不可能性」は、自分1人では何もできないってこと。

しぶ 「完全制御不可能性」は?

八角 自分が何もできないので、誰かに支えられている。その支えてくれているエージェントがいっぱいいるわけなんだけど、いっぱいいても、「そのエージェント達が自分のコントロール下にない」っていうのが、「完全制御不可能性」だそうです。

しぶ つまり、最初に〈自分1人で何か行動しようとしても、それができない〉という不可能性が1つ目(単独行為不可能性)。そして、「何かをできるためには、前提として自分以外のものや人が不可欠」って自分の周りのパーツを考えたときに、その結果として、〈パーツ1つ1つが自分の思い通りにはならない〉という不可能性が2つ目(完全制御不可能性)。

八角 この2つを基本として、他の発展的な考え方を展開していくっていうのがこの本では重要なところかな。

しぶ 「自分以外のものや人が不可欠」「それは自分には制御できない」という発想からは、「われわれ」ということにつながりそうだね。

マルチエージェント

八角 あと、その関連で考えないといけないのは、「マルチエージェントシステム」。この本では、「多種多様で無数のエージェントからなるシステム」のことを「マルチエージェントシステム」と呼んでいる(27頁)。こういう考え方は哲学や思想ではお馴染みだと思うんだけど。

しぶ マルチエージェントシステムって表現で名指すかはともかく、主体をいわゆる自己だけに限定して考えずに、他のものとの関係性において捉えるという考え方は1つのパターンとしてあるよね。その場合、「他のもの」というのは、人間だけに限定されることもない

八角 本の中に登場する例を挟んだほうがいいかもしれないね。

しぶ この本の出口先生の例でいうと、自転車に乗る時に道路や信号や重力によってアシストされてるんだから、道路や信号や重力もエージェントとして考える(26〜27頁)とか、そういうふうに色んな人間以外の生物・無生物も、全部対等なものとして……「もの」としてっていう言い方は物体っぽいニュアンスを含むから正確じゃないかもしれないけど……「エージェント」だとか「アクター」として考える。その関係性みたいなので考えていく。そういう思考法。

八角 似たような話で言えば、ラトゥールとか、そういうのですかね?

しぶ ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論は、1つの例かもね。人間だけでなく、技術も自然物も制度も「アクター」として捉えて、そのネットワークを考える。まさにマルチエージェント。さっきの自転車の例が、まんまラトゥールって感じだね。

八角 ほかに流行っているもので何かあるかな……。

しぶ それで言うと、こないだ哲学の院生とラトゥールの話になったときに、「中動態とかの話でもラトゥールが出てくる」みたいなことを教えてもらったんだけど、それは当然そうだろうなって思うんだよ。中動態って、人間が主体的に何かをする(能動)のでも、あるいは人間が完全に受動的に動作を受ける(受動)っていうことでもない。協働的に他のものとかと相互作用の中で行動が行われるっていう発想だからね、哲学的に言えば。

八角 うん。そういうのも時代の流行りなんでしょうね。

しぶ だから、アクターネットワークだったりマルチエージェントみたいな発想と相性がいい。人間の孤立した主体性を相対化するときに、それを社会学的・人類学的に、俯瞰した視点で見るとマルチエージェントになり、人間の主体側からいくと中動態とかになる、みたいなことも言えそう。関心がちがうけど、いずれにせよ人間だけを孤立した主体として切り離して考えることへの批判がある。

人間の相対化の例:土地

八角 あとはあれもそうか、ピーター・シンガーとか。

しぶ 確かに。ピーター・シンガーは人間の権利を拡張して動物を含めたりする。さっきのとは違う角度からの、人間中心主義の相対化か。もっとラディカルなのだと、環境というか、土地とかを主体として考える思想もあるよね。ベアード・キャリコットとか……。

八角 キャリコじゃなくて、キャリコットなんだ。金魚にキャリコって種類があるんですよ。かわいいよ。

しぶ 「動物まで含めましょう」はまあどこかで連続的に思いつきそうだけど、「土地に主体性を見て土地の権利を認めましょう」は、少しびっくりするよね。

八角 ああ、要はあれだ。乃木坂とか六本木あたりがすごい坂なんだけど、坂をぶち抜いていいのか? とか、「なんとかヒルズ」っていう名前の建物なのに、そこが丘(ヒル)じゃないみたいな話とか。

しぶ なるほど。

八角 つまり、「リバーサイド」とか「なんとかヒル」っていうのは、そこの土地の上に、例えば川が流れてるから「リバーサイド」だし、丘の上にあるから「なんとかヒル」っていうふうに作るけど、そういうのと関係なく、谷にあるのに「なんとかヒル」にしちゃうとかっていうのが都心にあるらしくて、そういう話だよね。だからほら、イーロン・マスクが、「1本道を作って最速で行くんだ!」って……。

しぶ トンネルを掘った話があったね(笑)。地形が邪魔だから。

八角 その話のときには触れなかったけど、恐らく本来考えないといけないことって、そういう土地の歴史性だなと思いますね。「蛇」が地名に付くところは土砂崩れがあったりとか、「荒川」だったら荒い川だからそのまんまだし、そういうことで「本当はここは住んじゃいけないところだった」っていうことがわかるわけだよ。私の昔の祖父母の家には、関東平野なのに物置の二階に木で作った舟があったんだけど、それって今考えるとすごいよね。

しぶ 荒川流域ってそういう感じなんだ……。川もそうだけど、山もすごいよね。Google MAPとかで見ると明らかだけど、日本人は本当に、山ギリギリまで頑張って住もうとしてる。

八角 山、70%だからね。

しぶ 人口に対して国土もそんな広くない。それで、「なんとか平野」って名前が付いてないところ以外はほとんど山で、がんばって「盆地と言えば、盆地です」みたいなところに工夫して人が住んでる。だから、「どこまでが住んでいいか?」って重要な問題になるんだろうね。

八角 とにかくそういう感じで、土地に権利を認めるっていう発想は、土地の歴史性の話から連続的にわかるよ。

しぶ 日常的にも、単なるのっぺりとした空間があるっていうより、「いや、山とかもあるでしょ」って考えるわけだな。この森はなんか入っちゃいけない感じがするとか。で、それを理論的にガチでやろうとすると、様々な人間中心主義批判とか、そういうものになっていくということだと思うんだよね。

八角 今回のWEターンで言われているところのマルチエージェントシステムとか、「単独行為不可能性」みたいなのも、そういうことを踏まえて考えると分かりやすい。というか、つまりまあ、普通に暮らしていれば分かりやすいんじゃない?

しぶ いずれにせよ、理解しづらいほど不自然なことを言っているわけではない。

八角 そう。

二項対立の克服

しぶ まとめると、「WEターン」的なものは、人間を特権的な主体として考えないということについては、大きな流れの中に位置づけることができると。

八角 それで言うと、私が最初に読んだときに思い出したのは、ユクスキュルに由来する、ハイデッガーの「世界-内-存在」という発想だな。

しぶ 各々の生物にはそれぞれ固有の環境世界がある、という生物学者ユクスキュルの考え方を、ハイデガーが哲学的に取り入れた……。

八角 うん、結局そのハイデッガーの「世界-内-存在」とか、ユクスキュルの「環世界」みたいなものって何かって、要は、それまでの西洋の発想は「わたしと世界」っていう二項対立だったんだけれど、それを入れ子構造で考え直すってことなんだよ。つまり、2点があって、それが対立構造で交わらないみたいな感じじゃなくて、世界内存在=「わたしは世界の中に位置づけられる」って考える。完全にこの発想の先に連続性にあるなと思いましたね。

しぶ 自分が、最初から世界のいろんなパーツとかかわっている。そういうような状態としてしか、そもそも自己はありえないという発想。確かにその発展形というか、あるタイプの分岐をした先にあるんだろうね。

八角 まあだから根本的に新しい話ではないんだよね。

しぶ だけどじゃあ、新しくないから意味がないかと言うとそうでもなくて……。

八角 そうだね。うまく時代精神を捉えている。現代を生きる人がこれを読んだときに、「そうだよな」って納得できるような時代精神が書かれてる。

時代精神:自己責任論のジレンマ

しぶ 時代精神が書かれているというのを詳しく説明してもらえますか。

八角 例えば、自己責任論との関係。ここ5年、10年くらいすごく自己責任論がひどくて「それはあなたが選んだんでしょ。選んだんだからあなたがそれも責任取らないといけないよ」っていう風に言われる。こういう自己責任論に対するオルタナティブとして『AI親友論』が使える

しぶ 確かに、オルタナティブがあるってこと自体、相当工夫しないと考えられないんだよな。2000年代あたりからもうずっと「自己責任が当然」みたいな世界観に染まってるから。

八角 最近ようやく、「実際、そんなことはなくてね、自分たちは自分で選んでいるはいるけれども、それを選ばされちゃってるっていう面もあるよね」っていう話に差し掛かっている。つまり、自己責任論に対する批判として、「自分たちは確かに選んでいるけれども、その選択肢っていうのは自分が選んだわけじゃない。選択肢がA・B・C・Dしかないっていうのは自分の責任じゃないよね。より良いEっていう選択肢もあるんだろうけれど、Eをそもそも選択できない構造になっているっていう構造的欠陥があるよね。つまり、社会が悪いよね」っていう批判があったんですよ。

しぶ 少し前に扱ったレフ・マノヴィッチの『ニューメディアの言語』で、現代メディアに特有の操作=オペレーションの1つとして「選択」が挙げられていた。あれもまさに、ソフトウェア上ですでに選択肢が提示されているってことだね。自由に選択できるとしても、その選択肢はどこから来たの? ということになる。

しぶ これを社会全体に拡張して考えると、日本でも2000年代に流行ったところの「アーキテクチャ」論とかになる。例えばアーキテクチャ論の重要文献の1つにローレンス・レッシグの『CODE』 という本があるけど、あの本は、今の話で言うところの「ソフトウェア上の管理制限」に相当するものを「CODE」と呼んで、法とか市場とかとパラレルで考えたもの。

しぶ 関連して、「環境管理型権力」みたいな言葉が流行ったりもした。つまり、個人の視点では何かを自由に選択しているつもりでも、それが特定の方向に促されていたりすることがあるんじゃないの、という議論。よく言われる例としては、ファーストフード店の椅子が硬いから、自由に選んだ結果長居しないとか、居酒屋の音楽がうるさいから、自由に選んだ結果大声を出して喉が渇き、酒を多く注文するとかね。まあ、最近は「ナッジ」という言葉もすっかり市民権を得ているから、ビジネスとかだと、むしろ積極的に活用しようという議論のほうが身近かもしれないけど。

ナッジ:「特定の行動を強制せずに促す戦略」を指す行動経済学の用語

八角 そういう感じで、ずっと「選択肢がないのは自分の責任じゃないよね」という批判がなされてきたわけ。でもそれに対する再反論として「とはいえ、選んでるじゃん」っていうのがあるんだよ。「選ばないということもできたのに選んでしまってるじゃん」「他の可能性をもっと模索するべき」とかね。

しぶ 「自己責任だ!」→「でも選ばざるを得なかったんだよ!」→「だけど選んだんだよね?」という展開。

八角 ただここには問題もあって、責任の所在が不確かになってしまうっていうことがある。というのも、2つの矛盾することがあると。まず、選択肢は限られていて、その限られているということ自体は社会の問題なので、自分の責任ではない。これがここまで話してきたことで、1つある。一方で、だけど同時に、「だから人を殺したってOK、自分の責任じゃない!」ってなってしまう可能性がある。これがもう1つ。

しぶ パラドックスというか、ジレンマというか……。

八角 「ある意味ではあなたの責任ではないかもしれない、しかしながら、それを選んだんですよね?」っていうことでね。この2つの矛盾することがあるわけなんだけど、それに対する解決策として『AI親友論』のWEターンの発想は良いんじゃないかと思うよ。つまりね、「「わたし」は単に、最終決定のボタンを押す権限を委ねられた「one of them」なのです」(36頁)っていうのは非常に重要で。「わたし」はボタンを押しているに過ぎない。しかしながら……。

しぶ 押してはいる。

八角 押してはいるので、そこは責任がある。

しぶ ジレンマの2つのツノを掴んでるんだ。

われわれ全員の問題

八角 最後に出口先生が書いてたことには、何かを選択した先に責任があるんじゃなくて……つまりそこだけで権利を有した先に責任があるのではなく、責任を果たした「わたし」が権利を持ち帰る。

しぶ なるほど。矛盾の解決策としてWEターンが発想として使えそうで、そしてそれが現代人にはしっくりくるんじゃないかってことね。

八角 そう。例えば、『違国日記』っていう、今すごく読まれている漫画があって……。

しぶ いい漫画だよね!

八角 もう完結したんですけど、この漫画は「われわれ」っていう問題を考えるのに非常に良い。というか、ずっとその話をしてるみたいな感じの漫画なのね。例えば、医大の入試で不正があって、みたいなエピソードがあるんだけど……。

しぶ 医大の不正自体は、本当にあった話だよね。念のため。

八角 そう。医大の入試で実際に不正があって、それが作中に出てる。主人公は高校生の女の子なんだけど、おばさんの家に居候していて、微妙に距離感がある感じで。それでその主人公の友達が、医大を受験するっていうときに、その友達の志望校で不正があったことがわかって。主人公がその友達の話をおばさんに伝えたときに、おばさんはすごくショックを受けてて、それに対して主人公が「でもあなたにはこの問題は関係ないよね」みたいなことを言ったら、そのおばさんは「私たち全員の問題」っていうふうに言ったんです。

しぶ うんうん。

八角 「関係ないじゃん」って言われても「でも私たち全員の問題だから」と答える。われわれの責任を読んだときにこの話が思い出されて、うん、そういう話だなっていう風に思った。やっぱりこういう漫画が世の中で受け入れられているっていう事実があるわけだよ。この話だけじゃなくて、この漫画全体が、「わたし」自体を探したり……探すっていうか、「わたしは何か」っていうことを考えたりする話なので……。

しぶ そういう意味で時代精神なのか。

八角 『AI親友論』のWEターンも、そういう時勢を捉えているんじゃないかなって思いましたね。だからこの漫画の話をしなきゃと思った。昨今の過剰な自己責任論とか、それに対する批判、における解決できない矛盾についての解決策の提示になっている

しぶ そういう問題意識のもと書かれていると。

議論1 WEターンは西洋哲学のオルタナティブになるか?

「わたし」のいない日本

しぶ 最低限の紹介は終わったので、掘り下げたいことがあれば細かく話しましょう。

八角 さっき、ユクスキュル=ハイデガー的な仕方で二項対立を乗り越えるみたいな発想だって言ったけど、続きがあって……。そういう仕方で二項対立を乗り越えるという話をするときに、「古代ギリシャ」とか「日本」とかが例として出されるわけだけど、古代ギリシャも日本も、決してそんなことは考えてないんだよ。そもそも二項対立で考えてないんだから。

しぶ なるほど。

八角 そもそも日本人って、西洋で言うなら中世の世界観とかと一緒でさ。つまり、自我の発見よりも前の世界観で生きてるわけ。つまり、東洋思想とかはみんなそうだと思うけど、「自分は世界の一部だ」っていう意識がすごく強い。だから、何も新しくはないんだよね。「それはそうじゃない?」っていう感覚になる人の方が多いと思うよ。

しぶ つまり、西洋の人が、歴史的に西洋の苦しみを経たあとで、日本や東洋を見て「これだ!」と思って西洋に持ち込むならまだいいんだけど、日本はそもそもその問題を経てないので変なことになる?

八角 そうそう、WEターンは西洋哲学へのオルタナティブとして提示されている。ただし、WEターンを言えるのは「確固たる自己」が前提にあるから。だけど、「確固たる自己」は西洋のものであって、そもそも日本はそれを持ってないんだから、この話自体が西洋の文脈でしか説明できない。

しぶ なるほど。「われわれとしてのわたし」どころか、そもそも「わたし」がない。

八角 そう。だから結局、最後に収録されている座談会「AIと人間は親友になれるのか」(180〜197頁)でも、西洋文化のオルタナティブで出してます、みたいなことを言ってるけど、そもそも日本でまず求められてるのが西洋世界の価値観だよね。

しぶ 「西洋世界の価値観の乗り越え」ではなく、「西洋世界の価値観」が足りなくて困っていると。

八角 挙げ句の果てに、座談会ではバチカン素晴らしいですねって話まで出ちゃっていて、それがもう皮肉で面白いなって思った。バチカン、つまりキリスト教に代表される宗教って、その西洋哲学が批判したところの宗教なんだけどね。

しぶ 宗教の話は次の論点(AIと人間の関係;次回)に関わるので、そこで詳しく話しますか。

八角 そうだね。重要なのは、ハイデガーの世界内存在にしても、「わたし」はちゃんといるんだよね。「わたし」がちゃんと意思決定者として強くいる。だから「わたし」は世界に潰されないわけなんだけど、その強い自己っていうものが日本にない。日本はそういう文化じゃない、強い自己が存在しないこの国で、WEターンを西洋のオルタナティブあるいは西洋批判として出すっていうのはちょっと厳しいんじゃないかと思うね。

グローバルな哲学

しぶ 逆に、西洋の人に提案するにはいいんじゃない?

八角 そうだと思うよ。

しぶ その意味でこの本は「グローバル」なんだよね。

八角 アメリカでもてはやされそう。

しぶ 出口先生は英語での論文もたくさん出しているし、「英語圏の最先端の論理学と東洋の思想をつなげる」みたいな仕事を昔からしているので、「日本で使う」っていうよりかは「日本じゃないと出てこないような発想を、西洋の文脈に載せる」っていう発想だと思う。提案として、とても面白い。

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