本能寺の変1582 目次小 光秀という男 1『日本史』 92~96 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次小 光秀という男 1『日本史』 92~96
92 光秀は、坂本にいた。
坂本城は、明智の誇りであった。 『日本史』
光秀は、織田家の新参者だった。 『日本史』
93 光秀は、歴とした戦国武将だった。 『日本史』
光秀は、信長の同類だった。
光秀は、築城に秀でていた。 『日本史』
94 光秀は、信長に従順だった。 『日本史』
光秀は、信長の気性をよく知っていた。 『日本史』
95 光秀は、兵法に精通していた。 『日本史』
光秀は、信長の統一事業に大いなる成果を上げた。 『日本史』
信長は、褒美として、志賀一郡・丹波一国を与えた。 『日本史』
96 光秀は、度々、主を変えている。
光秀は、主替えによって立身出世した。
光秀は、忠義心が希薄だった。
光秀は、出世のために主君を利用した。
目次大 光秀という男 92~123
目次中 光秀という男 92~123
目次小 光秀という男 92~123
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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