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国を作るのはリーダーではない。福沢諭吉が伝えたい、国民の気風で未来を切り開く方法【学問のすすめ2.0:四編】

学者の職分を論ず
 近来ひそかに識者の言を聞くに、「今後日本の盛衰は人智をもって明らかに計り難しといえども、つまり、その独立を失うの患うれいはなかるべしや、方今目撃するところの勢いによりてしだいに進歩せば、必ず文明盛大の域に至るべしや」と言いて、これを問う者あり。あるいは「その独立の保つべきと否とは、今より二、三十年を過ぎざれば明らかにこれを期すること難かたかるべし」と言いて、これを疑う者あり。あるいははなはだしくこの国を蔑視べっししたる外国人の説に従えば、「とても日本の独立は危し」と言いて、これを難かたんずる者あり。もとより人の説を聞いてにわかにこれを信じわが望みを失するにはあらざれども、畢竟ひっきょうこの諸説はわが独立の保つべきと否とについての疑問なり。事に疑いあらざれば問いのよって起こるべき理なし。今試みに英国に行き、「ブリテンの独立保つべきや否や」と言いてこれを問わば、人みな笑いて答うる者なかるべし。その答うる者なきはなんぞや、これを疑わざればなり。しからばすなわちわが国文明の有様、今日をもって昨日に比すればあるいは進歩せしに似たることあるも、その結局に至りてはいまだ一点の疑いあるを免れず。いやしくもこの国に生まれて日本人の名ある者は、これに寒心せざるを得んや。今わが輩もこの国に生まれて日本人の名あり、すでにその名あればまたおのおのその分を明らかにして尽くすところなかるべからず。もとより政の字の義に限りたることをなすは政府の任なれども、人間の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し。ゆえに一国の全体を整理するには、人民と政府と両立してはじめてその成功を得うべきものなれば、わが輩は国民たるの分限を尽くし、政府は政府たるの分限を尽くし、互いに相助けもって全国の独立を維持せざるべからず。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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学者としての役割を考察する

 近年、専門家たちの間で「日本の未来は予測困難であるが、現在の勢いを持続すれば文明国としての地位を確固たるものにするだろう」との意見がある一方で、「日本の独立を維持するのは今後数十年での課題となる」との懸念も聞かれる。さらには、日本を見下す外国人の中には「日本の独立は危機的」と断じる者もいる。ただし、これらの意見に盲目的に従うわけではないが、これらの議論は日本の独立を維持するかどうかの疑問に基づいている。例えば、もし英国へ行って「イギリスの独立は維持できるか?」と問うと、誰も真面目に答えないだろう。彼らにとって、その問いは疑問の余地がないからだ。このことから、日本の文明が進歩しているとはいえ、独立に関する確信がまだ固まっていないことがわかる。私たち日本人としては、この状況に対して危機感を持つべきだ。私も日本生まれの日本人として、自らの役割を果たすべきだと考える。政府が持つ責任の範囲はあるが、国民の役割も非常に重要である。国の発展と独立を維持するためには、国民と政府が共同で取り組むべき課題である。

 すべて物を維持するには力の平均なかるべからず。譬たとえば人身のごとし。これを健康に保たんとするには、飲食なかるべからず、大気、光線なかるべからず、寒熱、痛痒つうよう、外より刺衝ししょうして内よりこれに応じ、もって一身の働きを調和するなり。今にわかにこの外物の刺衝を去り、ただ生力の働くところにまかしてこれを放頓ほうとんすることあらば、人身の健康は一日も保つべからず。国もまた然しかり。政まつりごとは一国の働きなり。この働きを調和して国の独立を保たんとするには、内に政府の力あり、外に人民の力あり、内外相応じてその力を平均せざるべからず。ゆえに政府はなお生力のごとく、人民はなお外物の刺衝のごとし。今にわかにこの刺衝を去り、ただ政府の働くところにまかしてこれを放頓することあらば、国の独立は一日も保つべからず。いやしくも人身窮理の義を明らかにし、その定則をもって一国経済の議論に施すことを知る者は、この理を疑うことなかるべし。
 方今わが国の形勢を察し、その外国に及ばざるものを挙ぐれば、いわく学術、いわく商売、いわく法律、これなり。世の文明はもっぱらこの三者に関し、三者挙がらざれば国の独立を得ざること識者を俟またずして明らかなり。しかるにいまわが国において一もその体をなしたるものなし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 物事の均衡は極めて重要である。例えば、人の体を考えると、健康を保つためには食事、空気、光、温度調節などが欠かせない。これらの外部からの要因と、体内の生体機能が連携し、均衡を取りながら働くことで健康が維持される。もし、外部の要因が排除され、体だけの機能に依存すると、健康は長続きしないだろう。国家も同じである。国家の運営と独立を保つためには、政府の力と国民の力が相互に連携し、均衡を保たなければならない。もし、国民の意識や影響が排除され、政府だけの力に依存するならば、国の独立も長続きしない。人体の機能やバランスを理解し、それを国の経済や運営に適用することができる者は、この事実を疑わないだろう。

 現在の日本の状況を考慮すると、学問、商業、法律は国際的な基準に達していない。文明の進展は主にこれら三つの要素に関連しており、この三つが完全でなければ、国の独立は確立しづらい。現状、日本においては、これらの要素が完全に成熟しているとは言えない。

 政府一新の時より在官の人物、力を尽くさざるにあらず、その才力また拙劣なるにあらずといえども、事を行なうに当たり如何いかんともすべからざるの原因ありて、意のごとくならざるもの多し。その原因とは人民の無知文盲すなわちこれなり。政府すでにその原因のあるところを知り、しきりに学術を勧め、法律を議し、商法を立つるの道を示す等、あるいは人民に説諭し、あるいはみずから先例を示し、百方その術を尽くすといえども、今日に至るまでいまだ実効の挙がるを見ず、政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ。あるいはわずかに進歩せしことあるも、これがため労するところの力と費やすところの金とに比すれば、その奏功見るに足るもの少なきはなんぞや。けだし一国の文明はひとり政府の力をもって進むべきものにあらざるなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 政府のリーダーシップが変わって以降、公務員たちも彼らの能力を最大限に活用しているし、その才能も決して劣っているわけではない。しかし、事を進める上でさまざまな障壁に直面し、意図した通りに進展しない事例が多々ある。その主な原因は、国民の知識不足や識字能力の低さである。政府は既にこの問題を認識し、教育を奨励し、法の整備を進め、商業の方針を示すなど、国民に啓発活動を行ったり、模範を示すなどの取り組みをしてきた。だが、これまでのところ大きな成果は見られず、政府は以前と変わらない権限中心の体制で、国民も以前と変わらない無関心・受動的な状態に留まっている。わずかな進歩はあるものの、そのための労力や資金の投入と比較して、その効果は限定的である。国の文明進化は、政府だけの力に依存するものではないことが明らかである。

 人あるいはいわく、「政府はしばらくこの愚民を御するに一時の術策を用い、その智徳の進むを待ちて後にみずから文明の域に入らしむるなり」と。この説は言うべくして行なうべからず。わが全国の人民数千百年専制の政治に窘くるしめられ、人々その心に思うところを発露すること能あたわず、欺きて安全を偸ぬすみ、詐いつわりて罪を遁のがれ、欺詐ぎさ術策は人生必需の具となり、不誠不実は日常の習慣となり、恥ずる者もなく怪しむ者もなく、一身の廉恥すでに地を払いて尽きたり、豈あに国を思うに遑いとまあらんや。政府はこの悪弊を矯ためんとしてますます虚威を張り、これを嚇おどしこれを叱し、強いて誠実に移らしめんとしてかえってますます不信に導き、その事情あたかも火をもって火を救うがごとし。ついに上下の間隔絶しておのおの一種無形の気風をなせり。その気風とはいわゆるスピリットなるものにて、にわかにこれを動かすべからず。近日に至り政府の外形は大いに改まりたれども、その専制抑圧の気風は今なお存せり。人民もやや権利を得るに似たれども、その卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず。この気風は無形無体にして、にわかに一個の人につき一場の事を見て名状すべきものにあらざれども、その実の力ははなはだ強くして、世間全体の事跡に顕あらわるるを見れば、明らかにその虚にあらざるを知るべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 何人かは「政府は一時的な戦略を用いて現在の国民を導き、その教養と徳性が進展するのを待ち、その後に文明化へと導くべきだ」と提案する。だが、この考えは理論的には言えても、実践上は不適切である。私たちの国民は長い間、専制的な政策の下で抑圧され、自らの意見や感情を表現する機会を持たなかった。欺瞞や詐欺が生き残るための必須のスキルとなり、不誠実な行動が日常的なものとなってしまった。その結果、誠実さや信頼感の欠如が社会全体に広がった。政府がこれを是正しようと強制的な手段を取れば、かえって信頼をさらに失う結果となる。結果として、政府と国民の間の溝は深まり、独自の文化や「スピリット」といったものが生まれた。このスピリットは直接触れることはできないが、その存在感は明らかに感じられる。近年、政府の形式は多少変わったかもしれないが、その根底の専制的な姿勢は変わらず、国民もまだまだ従順で不信感を抱き続けている。このような文化や気風は目に見えないが、その影響は社会全体に明らかに現れている。

 試みにその一を挙げて言わん。今、在官の人物少なしとせず、私わたくしにその言を聞きその行を見ればおおむねみな闊達大度の士君子にて、わが輩これを間然する能わざるのみならず、その言行あるいは慕うべきものあり。また一方より言えば平民といえども悉皆しっかい無気無力の愚民のみにあらず、万に一人は公明誠実の良民もあるべし。しかるに今この士君子、政府に会して政をなすに当たり、その為政の事跡を見ればわが輩の悦よろこばざるものはなはだ多く、またかの誠実なる良民も、政府に接すればたちまちその節を屈し、偽詐術策、もって官を欺き、かつて恥ずるものなし。この士君子にしてこの政を施し、この民にしてこの賤劣せんれつに陥るはなんぞや。あたかも一身両頭あるがごとし。私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして一愚人の事を行なうものと言うべし。豈あに怪しまざるを得んや。畢竟ひっきょうその然る所以はかの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民かみんを御ぎょしその知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強しゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺ぎを用うれば人民は容かたちを作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるにはただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 例として一つ挙げてみよう。現在、官僚や政府の職員たちは少なくない。私が彼らの話を聞き、行動を見ると、多くの人は洗練された、教養のある者たちであり、彼らの言動には敬意を感じることもある。逆に、一般市民もすべて不活発な無知な人々ばかりではなく、中には正直で誠実な良き市民もいる。ところが、これらの優れた人々が政府に仕え、政策を進めると、その結果はしばしば私たちの期待を裏切るものとなる。また、誠実な市民であっても、官庁に接触するとすぐに彼らも策略を用いるようになる。これは一体なぜなのか。まるで、同じ人が二つの顔を持つかのようだ。個人としては賢明で、政府としては愚かであるかのようだ。政府とは、多くの知恵を持った者たちの集まりでありながら、愚かな決定を下す場所であるとも言える。結局のところ、このような状況が生まれる背後には、特定の文化や気風が影響していると考えられる。それゆえに、人々は個人としての能力を十分に発揮できないのだろう。明治維新以来、学問や法律、ビジネスの推進が効果を上げていない原因も、この気風にあるのではないか。政府が力や策略を使って国民を導こうとするのは、文明を進める真の方法とは言えない。政府が強制的な手段を取れば、国民はそれに反発するだろう。また、政府が策略を用いれば、国民は形だけの従順さを示すだけになるだろう。そんな方法は最善の策とは言えない。たとえそれが巧妙であっても、真の文明化に対しては効果がないだろう。結論として、文明の発展には政府の力だけを頼りにするべきではない。

 右所論をもって考うれば、方今わが国の文明を進むるには、まずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず。これを一掃するの法、政府の命をもってし難し、私の説諭をもってし難し、必ずしも人に先だって私に事をなし、もって人民のよるべき標的を示す者なかるべからず。今この標的となるべき人物を求むるに、農の中にあらず、商の中にあらず、また和漢の学者中にもあらず、その任に当たる者はただ一種の洋学者流あるのみ。
 しかるにまたこれに依頼すべからざるの事情あり。近来この流の人ようやく世間に増加し、あるいは横文を講じあるいは訳書を読み、もっぱら力を尽くすに似たりといえども、学者あるいは字を読みて義を解さざるか、あるいは義を解してこれを事実に施すの誠意なきか、その所業につきわが輩の疑いを存するもの少なからず。その疑いを存するとは、この学者士君子、みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居おるの道を知らざるの一事なり。畢竟、漢学者流の悪習を免れざるものにて、あたかも漢を体にして洋を衣にするがごとし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 考えてみると、現在我が国の文化や価値観を更新するためには、まず国民の心に根付いてしまった古い考え方や慣習を変える必要がある。この変化を起こすために、政府の指令だけや単なる説教だけでは難しい。人々にとってのロールモデルや指針となる人物が必要である。そして、この指針となるべき人物を探すと、現代の農業や商業界、また伝統的な学者の中には見当たらず、新しい知識や技術を持つ洋学者の中にしかいないと考えられる。

 しかしながら、すべての洋学者に期待するわけにはいかない事情も存在する。最近、こうした洋学者が増えてきて、外国の文献を翻訳したり、研究に励む者も多い。しかし、彼らの中には、ただ知識を持っているだけで実践的な思考や誠意が欠けている者も少なからずいる。私の疑問は、これらの学者や専門家たちは、政府や組織のトップとしての役割を理解しているが、一般市民や実際の現場での役割や責任を理解していないのではないかということである。結局、彼らも伝統的な学者と同じく、古い価値観や考え方を持っていて、新しい知識や技術を表面的に取り入れただけの存在であるかもしれない。

 試みにその実証を挙げて言わん。方今世の洋学者流はおおむねみな官途につき、私に事をなす者はわずかに指を屈するに足らず。けだしその官にあるはただ利これ貪むさぼるのためのみにあらず、生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。あるいは世に名望ある大家先生といえどもこの範囲を脱するを得ず。その所業あるいは賤いやしむべきに似たるも、その意は深く咎とがむるに足らず、けだし意の悪しきにあらず、ただ世間の気風に酔いてみずから知らざるなり。名望を得たる士君子にしてかくのごとし。天下の人豈あにその風に倣ならわざるを得んや。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 実例を挙げて考察しよう。現在の洋学を学んだ専門家の多くは官僚や公的な役職に就いており、私的な事業を行う者はほとんどいない。しかし、彼らが公的な役職に就く理由は、単に権力や利益を追い求めるためだけではない。彼らは教育や社会の価値観に影響を受け、政府や公的な役職が最も価値のあるものと考え、そういった立場でなければ大きな成果を上げることはできないと信じている。この考えは、名の知れた権威ある学者や専門家にも見られる。彼らの行動や選択が批判されることもあるかもしれないが、その背後には彼らの悪意があるわけではなく、単に時代の流れや社会の風潮に影響を受けているに過ぎない。もし、社会のトップに立つ人々がこのような考え方をしているのであれば、一般の人々がその考え方を取り入れないわけがない。

 青年の書生わずかに数巻の書を読めばすなわち官途に志し、有志の町人わずかに数百の元金あればすなわち官の名を仮りて商売を行なわんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心ますますその風に靡なびき、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂へつらい、毫ごうも独立の丹心を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり。譬えば方今出版の新聞紙および諸方の上書建白の類もその一例なり。出版の条令はなはだしく厳なるにあらざれども、新聞紙の面を見れば政府の忌諱ききに触るることは絶えて載のせざるのみならず、官に一毫の美事びじあればみだりにこれを称誉してその実に過ぎ、あたかも娼妓しょうぎの客に媚こびるがごとし。またかの上書建白を見ればその文つねに卑劣を極きわめ、みだりに政府を尊崇すること鬼神のごとく、みずから賤しんずること罪人のごとくし、同等の人間世界にあるべからざる虚文を用い、恬てんとして恥ずる者なし。この文を読みてその人を想えばただ狂人をもって評すべきのみ。しかるに今この新聞紙を出版し、あるいは政府に建白する者は、おおむねみな世の洋学者流にて、その私について見れば必ずしも娼妓にあらず、また狂人にもあらず。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 青年の学生がいくつかの本を読むだけで公の役職を求め、起業家が少しの資金を持つだけで公的な名前を使って事業を始める。学校も公の認可が必要で、講演も公の許可を得なければならない。農業や畜産、事実上、民間の多くの事業が公的な関与なしには成り立たない。このような状況が、人々の心を公的なものに傾倒させ、公を尊敬し、公に頼り、公を恐れ、公に迎合する方向へと駆り立てている。その結果、真に独立した精神を持つ者はほとんどいなくなり、その様子は目に余る。例として、現在のメディアや公的な提案書を見れば、その傾向が明らかだ。出版のルールは厳格であるにもかかわらず、メディアは公的なタブーに触れることを避け、公の良い面を過度に称賛する。まるで取り繕う接客業のようだ。提案書を見れば、内容は極めて低俗で、政府や公的機関を過度に尊敬し、自らを過小評価するような文言が多用されている。これを読むと、その背後にいる人々を異常者と思うしかない。しかし、これらのメディアを制作したり、提案書を提出する者たちの多くは、教養を持つ学者や専門家たちで、彼ら自身はそういった低俗な人々ではない。

 しかるにその不誠不実、かくのごときのはなはだしきに至る所以ゆえんは、いまだ世間に民権を首唱する実例なきをもって、ただかの卑屈の気風に制せられその気風に雷同して、国民の本色を見あらわし得ざるなり。これを概すれば、日本にはただ政府ありていまだ国民あらずと言うも可なり。ゆえにいわく、人民の気風を一洗して世の文明を進むるには、今の洋学者流にもまた依頼すべからざるなり。
 前条所記の論説はたして是ぜならば、わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能よくするところにあらず。また今の洋学者流も依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、まずわれより事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かうところを示さざるべからず。今わが輩の身分を考うるに、その学識もとより浅劣なりといえども、洋学に志すこと日すでに久しく、この国にありては中人以上の地位にある者なり。輓近ばんきん世の改革も、もしわが輩の主として始めしことにあらざれば暗にこれを助けなしたるものなり。あるいは助成の力なきもその改革はわが輩の悦ぶところなれば、世の人もまたわが輩を目するに改革家流の名をもってすること必せり。すでに改革家の名ありて、またその身は中人以上の地位にあり、世人あるいはわが輩の所業をもって標的となす者あるべし。しからばすなわち今、人に先だって事をなすはまさにこれをわが輩の任と言うべきなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 その偽善的な態度、こんなひどい状態に陥っている原因は、まだ具体的な市民権を実践する例がなく、単に従属的な考え方に捉われ、国民の真の姿を表現することができないことだ。要するに、日本には政府はあるが、まだ真の「国民」は存在しないと言える。したがって、国民の心を変え、文明を前進させるには、現在の西洋学者の流れに頼るべきではない。

 前述した考えが正しいとすれば、私たちの国の文明を進化させ、独立を保持するためには、政府だけの努力では不十分だ。現代の西洋学者だけに頼るのではなく、我々自身が主導して行動を起こす必要がある。私は、自らが中心となり、一般の人々のリーダーとなるだけでなく、西洋学者たちの方向性を示す役割も果たさなければならない。私の現在の立場や学問的な背景は、決して深いものではないかもしれないが、西洋学への興味は長い。この国においては、私は平均以上の地位にいると言える。最近の社会改革にも、私が直接関与していなければ、少なくともサポートしてきた。その改革が私の理念と合致しているので、人々は私を改革家として認識するだろう。すでに改革家としての名声があり、社会的地位も持っているので、人々は私の行動をモデルとしてみるかもしれない。したがって、先頭に立ち、行動を起こすことは、私の責任であると言える。

 そもそも事をなすに、これを命ずるはこれを諭さとすに若しかず、これを諭すはわれよりその実の例を示すに若かず。然りしこうして政府はただ命ずるの権あるのみ、これを諭して実の例を示すは私の事なれば、わが輩まず私立の地位を占め、あるいは学術を講じ、あるいは商売に従事し、あるいは法律を議し、あるいは書を著あらわし、あるいは新聞紙を出版するなど、およそ国民たるの分限に越えざることは忌諱を憚はばからずしてこれを行ない、固く法を守りて正しく事を処し、あるいは政令信ならずして曲を被こうむることあらば、わが地位を屈せずしてこれを論じ、あたかも政府の頂門に一針を加え、旧弊を除きて民権を恢復かいふくせんこと方今至急の要務なるべし。

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 何かを実行する際、それを命令するのは指示やアドバイスに他ならず、そしてアドバイスするためには、まずその具体的な例を自ら示すべきだ。もし政府が命令する権限だけを持っていて、アドバイスや具体例を示す役割が私たちにあるならば、我々は独自の立場を築き、学問を教え、ビジネスに携わり、法律を議論し、書籍を出版し、新聞を発行するなど、国民としての役割を果たすべきだ。法律を順守し、正しく行動し、政府の方針に異議があれば、我々の立場を曲げずにそれに対して意見を述べるべきだ。政府の不完全な部分を指摘し、古い体制を改革し、市民の権利を回復することが、現在の緊急事項であると言える。

 もとより私立の事業は多端、かつこれを行なう人にもおのおの所長あるものなれば、わずかに数輩の学者にて悉皆その事をなすべきにあらざれども、わが目的とするところは事を行なうの巧みなるを示すにあらず、ただ天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。百回の説諭を費やすは一回の実例を示すに若かず。今われより私立の実例を示し、「人間の事業はひとり政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行なうべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくべし、疑うべからず親しむべし」との趣を知らしめなば、人民ようやく向かうところを明らかにし、上下固有の気風もしだいに消滅して、はじめて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝となり、学術以下三者もおのずからその所有に帰して、国民の力と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり。

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 確かに、個人のプロジェクトやビジネスは多岐にわたり、それぞれの人々には自らのビジョンや指針がある。全ての活動を少数の専門家だけで完遂させることは難しいが、我々の目的は技術的なスキルを展示することではなく、全ての人々に個人の方向性や役割を認識させることだ。言葉での説明よりも、具体的な実践を示すことの方が遥かに効果的だ。我々が独自の実践を示して、「人々の活動は政府のものだけではない。専門家はその専門分野で活動すべきで、市民はその役割で貢献すべきだ。政府は私たちのものであり、私たちもその一部である。政府に対しては怯えず、疑わず、接近し、協力すべきだ」という意識を共有すれば、国民は明確な方向性を持ち、階級や立場にとらわれる旧態から脱却し、真の日本国民としてのアイデンティティを形成するだろう。政府は単なる支配者ではなく、国民の意見や要望に耳を傾ける存在となる。そして、学問やその他の分野も各々が持つべき役割に従い、国民の力と政府の力が均衡を保ちながら、日本の独立と発展を実現するのだ。

 以上論ずるところを概すれば、今の世の学者、この国の独立を助けなさんとするに当たりて、政府の範囲に入り官にありて事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。すべて世の事物をくわしく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得あらざるものは必ず失あり、利害得失相半ばするものはあるべからず。わが輩もとよりためにするところありて私立を主張するにあらず、ただ平生の所見を証してこれを論じたるのみ。世人もし確証を掲げてこの論説を排し明らかに私立の不利を述ぶる者あらば、余輩は悦んでこれに従い、天下の害をなすことなかるべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 要するに、現在の学者たちは、この国の独立を支える際、政府の中での役割として働くのか、それとも独立して個人として活動するのか、その利点や欠点について議論している。本論は、個人としての立場を重視している。一般的に、あらゆる事象や問題について深く探求すれば、利点だけでなく欠点も明らかになる。利点と欠点、収益と損失が完全にバランスすることは稀だ。私自身は特定の目的のために個人としての立場を強調しているわけではない。単に私の持論や考えを述べているだけだ。もし誰かが明確な根拠を示してこの意見に反対し、個人としての活動のデメリットを指摘するならば、私は喜んでその意見を受け入れ、社会全体の利益を損なうことは避けたいと考える。

付録
 本論につき二、三の問答あり、よってこれを巻末に記す。  その一にいわく、「事をなすは有力なる政府によるの便利に若しかず」と。答えていわく、「文明を進むるはひとり政府の力のみに依頼すべからず、その弁論すでに本文に明らかなり。かつ政府にて事をなすはすでに数年の実験あれどもいまだその奏功を見ず、あるいは私の事もはたしてその功を期し難しといえども、議論上において明らかに見込みあればこれを試みざるべからず。いまだ試みずしてまずその成否を疑う者はこれを勇者と言うべからず」

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 付録

 本論に関していくつかの質問や意見が寄せられたので、ここにそれを記述する。

 まず、ある意見として「実際の事業やプロジェクトを進める場合、強力な政府のサポートが最も効果的ではないか?」との指摘がある。それに対し、私の回答は「文明の進歩や発展は、政府の力だけに依存するべきではない。この点についてはすでに本文中で詳しく論じている。実際、政府主導での取り組みが数年続いているものの、まだその効果は確認できていない。私たちの取り組みも、成功するかどうかは未知数であるかもしれない。しかし、議論の段階で明確な見込みや可能性があると認識しているならば、それを試すべきだ。まだ何も実行していないのに、成功や失敗を疑問視する人々を勇気ある者とは呼べない」というものだ。

 二にいわく、「政府、人に乏し、有力の人物、政府を離れなば官務に差しつかえあるべし」と。答えていわく、けっして然しからず、今の政府は官員の多きを患うれうるなり。事を簡にして官員を減ずれば、その事務はよく整理してその人員は世間の用をなすべし、一挙して両得なり。ことさらに政府の事務を多端にし、有用の人を取りて無用の事をなさしむるは策の拙なるものと言うべし。かつこの人物政府を離るるも去りて外国に行くにあらず、日本に居て日本の事をなすのみ、なんぞ患うれうるに足らん」
 三にいわく、「政府のほかに私立の人物、集まることあらば、おのずから政府のごとくなりて、本政府の権を落とすに至らん」と。答えていわく、「この説は小人の説なり。私立の人も在官の人も等しく日本人なり。ただ地位を異にして事をなすのみ。その実は相助けてともに全国の便利を謀はかるものなれば、敵にあらず真の益友なり。かつこの私立の人物なる者、法を犯すことあらばこれを罰して可なり、毫ごうも恐るるに足らず」

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 第二の指摘として、「もし有能な人物が政府を離れるならば、公的業務に支障が出るのでは?」との疑問がある。しかし、私の見解としては、そうではない。現在の政府は官僚の過多に悩んでいる。業務をシンプルにし、官僚を削減すれば、それらの人員は他の有益な場所で活躍できる。これにより一石二鳥の効果が期待できる。故意に政府の業務を増やし、有能な人物を使って無駄な仕事をさせることは、策略として非効率であると考える。また、有能な人物が政府を離れても、彼らが外国に行くわけではない。彼らは日本にとどまり、日本のための仕事を続ける。何の問題もないと考える。

 第三の指摘としては、「もし私立の有能な人々が集まると、彼らは政府と同じようになり、政府の権威が損なわれるのでは?」というものがある。しかし私は、そのような考えは狭い視野からのものだと考える。私立の人々も公務員も、みな日本の国民である。彼らの役割や立場が異なるだけで、その本質はお互いに協力し、国の利益を追求する者たちである。彼らは敵ではなく、真の協力者である。もし私立の有能な人々が法を犯すような行動をとるなら、当然ながら彼らを法で処罰すべきである。恐れることは何もない。

 四にいわく、「私立せんと欲する人物あるも、官途を離るれば他に活計の道なし」と。答えていわく、「この言は士君子の言うべきにあらず。すでにみずから学者と唱えて天下の事を患うる者、豈あに無芸の人物あらんや。芸をもって口を糊こするは難きにあらず。かつ官にありて公務を司つかさどるも私にいて業を営むも、その難易、異なるの理なし。もし官の事務易やすくしてその利益私の営業よりも多きことあらば、すなわちその利益は働きの実に過ぎたるものと言うべし。実に過ぐるの利を貪むさぼるは君子のなさざるところなり。無芸無能、僥倖ぎょうこうによりて官途につき、みだりに給料を貪りて奢侈しゃしの資となし、戯れに天下のことを談ずる者はわが輩の友にあらず」

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 第四の意見として、「私立を望む人々が、官職を離れた場合、他の生計を立てる方法がないのでは?」という疑問がある。しかし、私はその意見に同意しない。そんなことを言う者は真の学者やプロフェッショナルの言葉とは思えない。既に自らを学者や専門家と称し、社会の課題を考える人々が、いかにしてスキルや知識がないと言えるのだろうか。自分の専門分野を生かして生計を立てることは難しくない。公的な仕事をするのも、私立でビジネスをするのも、その本質的な困難さに大きな違いはない。もし公的な仕事が容易であり、その収入が私立のビジネスよりも高い場合、それは報酬が実際の労働の価値を上回っていると言える。過度な収益を追求し、怠けることは真のプロフェッショナルの行動とは言えない。特定のスキルや能力を持たず、偶然にも公的な立場に就き、不当に収入を得て浪費することを楽しみ、軽々しく社会の課題を語る人々を私は友とは認めない。

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