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全体的に劣っているだけで得意なことがない発達障害者はニューロダイバーシティで包摂されるのか?

ニューロダイバーシティ(脳の多様性)なる単語が精神障害・発達障害の界隈で取り上げられることが多くなりました。ニューロダイバーシティとは「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう(経済産業省ホームページより一部抜粋)」という考え方です。そして、経済産業省のHPのつづきにはこう書いてあります。「発達障害のある方に、その特性を活かして自社の戦力となっていただくことが目的」と。

どうやら経済産業省としては、発達障害のある方も特性を上手く利用すれば、企業の経済活動や社会に貢献できると考えている、と私には読み取れます。

しかし、発達障害当事者である私の主観では「発達障害の特性はただの障害であって治すべきものであるし、その特性とやらが役に立ったことはない」ということです。何を活かしていけば良いのでしょうか?そんな才能なんて私にはありません。この記事のタイトル通りです。24時間テレビや発達障害の子どもを扱ったテレビドラマでは、「発達障害であってもキラリと光る才能がある」という設定がありそうですが、ニューロダイバーシティはそのような偏見から生まれた単語ではないでしょうか。

ニューロダイバーシティは発達障害の特性を活かすことに重点を置いていますが、当事者からすればどこか現実感がない印象を持ちます。綺麗事や美辞麗句を並べても解決策にはならないと思います。さらに言えば、キラリと光る才能がない発達障害はニューロダイバーシティの観点では必要ないとも経産省HPからは読み取ってしまいます。

ニューロダイバーシティは発達障害や知的障害がある方を包摂するどころか排除に繋がるのではないか危惧しています。発達障害の中にも優生思想や能力主義が取り入れられて新たな分断を生むのではないか。恐怖さえ抱いてしまいます。

私はニューロダイバーシティを「能力がなく劣っていても良い」「他人様の役に立てなくても良い」という意味に変えてほしいです。それこそが本来の意味での多様性になると思います。


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