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恥辱、それ以外の何ものでもない。川上未映子「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」音楽の失われた迷路的なる場所。////花よ、黄金色の滴る〈がらんどうの童子〉を抱いて跳べ、そして、音楽を奪い返せ!

/巨大な洪水のような言葉たちに飲み込まれる前、今の時刻を外すことなく、今の時刻の瞬間の時間の中で、ことばを書く。極小の堡塁として砦として/

今の時刻:2023/04/08/20:01/
今の時刻を外すことなく、今の時刻の瞬間の時間の中で、ことばを書く。
迅速に正確に照準を合わせ的を外すことなく、撃つ。洪水が襲来する前に。

 断片的なメモ書きを。搔き集めたことばの塊を。よせあつめた論理と意味で作られたありあわせのことばの料理を。現在という時間の中で渦巻く急速の流れの中で、極小の堡塁として砦として、これを書かなければいけない。わたしのことばが意味を失ってしまう危機があるからだ。何よりも時間を優先させること。非力なわたしのことばが砂のように流れに浸蝕され崩壊するまでの僅かな時間を逃さず掴まえること。体裁なんかどうだっていい。なぜならわたしのことばを蹴散らして去って行くことになる、巨大な洪水のような言葉たちが目前に迫っているからだ。わたしの足許はすでに踝まで水に埋もれている。飲み込まれるまでの瞬間がわたしのすべてだ。わたしの手元に存在する瞬間の時間にできること。さあ、瞬間を疾走してみることにしよう。

/No.1/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」について/川上未映子の最新の長編小説。書かれた言葉を〈読み物〉ではなく〈小説〉として読むことについて、あるいは、すべての〈小説〉は世界を変更する。例外は存在しない。

川上未映子の最新の長編小説「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」について。2023年2月25日発行。2021/7/24〜2022/10/20の期間、読売新聞に連載されていたものを単行本とした小説。連載時のものといくつかの部分に変更あり。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は〈読み物〉ではなく〈小説〉。小説の言葉としての「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」について。それを読むこと

当たり前すぎて今更だけど、〈読み物〉とは時間潰しのために言葉で作られた使い捨ての消耗品/道具/ツールのことであり、〈小説〉とは世界を変更するための/変更を可能にするための想像力が封じ込められた、フィクションという形式をした言葉の容器のことだ。想像力を内包した言葉のフィクション

〈小説〉の中に入れられた想像力を反転させて裏返してそれを呼べば、それは〈根源的なるもの〉となる。〈小説〉の中には世界を変容させる〈根源的なるもの〉が眠っている。想像力、あるいは〈根源的なるもの〉を平明に言い表せば「想像力とは、時間/空間/風景/光景/世界/人の感覚/人の思い/人の気持ち/記憶等がかたちを有して顕れること、そして、それを出現させる力」となり「〈根源的なるもの〉とは世界に存在する存在のありようを決定する何かしらのもの/こと」となる。〈小説〉に於いて〈根源的なるもの〉は想像力の形をして表出し、想像力は〈根源的なるもの〉として人間に作用する。

〈小説〉を読むとは、小説という言葉の容器を開封しそこから〈根源的なるもの〉である想像力を取り出し、読み手がそれを受け取ることだ。受け取る前と後で世界(=わたし)が変更されることになる。〈読み物〉とは世界を忘れる方法であり、〈小説〉とは世界を変更する方法である。存在するすべての〈小説〉は読み手に想像力(〈根源的なるもの〉)を与えることを理由として世界を変更する。形式も内容も問うことはなく、それを実行し成すものが〈小説〉であり、小説を読むという出来事/事件だ。例外は存在しない。

〈小説〉の想像力とは、仮構される世界の構造と仕組み/ストーリー、プロットの変転の流れ(発端と途上と終末)/造形される人間たちの相貌と背負う宿命と貫く意志と吐く感情/用意される舞台装置と無数の道具たち/文体(文の身体)/語り口(声の響き)/描写される風景と光景のひかりの色彩と音響/等によって構成された小説の言葉が、読み手の内部に生成し出現させる想像力のことだ。小説家は言葉を駆使し物語を用いて想像力を象る。小説家は不定形の虚空に存在する暗闇の堆積物のような姿をした言葉の塊から、言葉によって言葉を削り出し、想像力(imagination)を造形する言葉の彫刻師だ。

忘れずに付け加えておくけれど、読み物と小説の間に優劣を見出すことは愚かなことでしかない。人生という単純にして複雑な時間のありようを知る者であれば、その意味が分かるだろう。人が生きて行くためには時間を通過させための〈読み物〉と時間を停止させるための〈小説〉の両方が必要なんだ〈読み物〉を侮ることは許されることなんかじゃない。しかし〈読み物〉であるにもかかわらず〈小説〉の装いで欺くこともまた罪深きことでしかない

川上未映子は小説家であって、決して、読み物作家ではない。川上未映子が作り出す物語は〈小説〉であって〈読み物〉ではない。とわたしは思っている。以下にわたしが書くことのすべては、それが〈小説〉であることを前提にしている。仮に〈読み物〉だとしたら、わたしが言っていることは全部が全部、誤りでしかない。同じことを繰り返すけれど、小説家・川上未映子が書いた小説と小説家・川上未映子について、わたしは語ろうとしているんだ

/No.2/
小説のタイトルは「黄色い家」/しかし「家」の物語であり「SISTERS」の物語でもある小説「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」。この表記が必要であり、これ以外の表記はできない。

尚、小説のタイトルは「黄色い家」である。カバーを外すと「SISTERS IN YELLOW/MIEKO KAWAKAMI」と書かれてある。今回、わたしは意図的に「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」と記述することにした。何方かひとつではなく二つのタイトルを併記することが必要だと判断したからだ。「家」の物語であり「SISTERS」の物語でもある「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」。わたしがこの小説を語るためには、これ以外の表記はできない。と判断した。

/No.3/
恥辱、それ以外の何ものでもない。//「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は現実に抗い戦う者たちへの侮辱だ。//帰還する者たちへの挽歌、あるいは、敗北の音楽/

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」が小説であり、小説を読むこととはそこから〈根源的なるもの〉である想像力を取り出し、読み手がそれを受け取ることだとすれば、さらに受け取った想像力=〈根源的なるもの〉を存在のありようを決定する何かしらの事柄とするのであれば、そのように仮定するのであれば、わたしたち読み手が「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」から受け取ったものは、何かの錯誤ではないのかと体が戦慄する信じられないものだった

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は恥辱だ。恥辱、それ以外の何ものでもない。現実に抗い戦う者たちへの侮辱だ。現実に棲息する暗黒の欲望と対峙し格闘の只中に存在する弱き者たちへの侮辱。抗い戦うことを辱めること。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は敗北の肯定/承認/受容であり現実の肯定であり、抗い戦い現実を変更することからの撤退/逃亡である。これは獰猛で醜悪なる現実に完膚なきまでに惨敗し抵抗することをあきらめた者たち、元の場所にしか帰ることのできなかった、何処にも辿り着くことのできなかった者たちへ贈られる挽歌。その場所で歌われる歌は敗北の音楽でしかない

そのことを理由として根拠として「恥辱、それ以外の何ものでもない」とわたしは叫び、断罪する。それ以外に小説を語ることはできない。小説の言葉の形をした恥辱。痛い。気が付いた時、激しく固く握られた拳に指が食い込み、血の涙で頬が濡れ嗚咽に声を失い、震える手で黄色と青の本を閉じる。

何度でも言う。何処にも辿り着くことのできなかった者たちの敗北の歌。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は、恥辱、それ以外の何ものでもない。

物語の終わりがこれでいいわけはない。絶対に。救い出さなければいけない花を、失われてしまった音楽を、家族/仲間たちを、このままにしてはならない。わたし/わたしたちはあがなわなければならない、恥辱を、何としても。

/No.4/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を横断し、最深部へ辿り着くための地図、あるいは、恥辱をあがなうために必要な事、読み手もまた小説家と同じく小説の世界のありようを決定する。

恥辱をあがなうために、わたしは駆け足で「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を横断する。執拗に足に絡み付きごうごうと水音が鳴り響く暗渠の中に引き摺り込もうとする粘着性の汚泥を蹴り倒し、無数の簾のように垂れ下がり前方を塞ぐ、仲間たちの甘い囁きを騙るセイレーンのような魔物たちの声を振り払い「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の最深部を刳り貫き、根幹に何が存在するのか見極め、向こう側へ辿り着くための脱出の通路を探し出す。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の地平に向こう側への出口があると仮定して。

/No.5/に於いて「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を横断するわたしの道行地図の素描を〈解読9個のリスト〉として提出する。番号とタイトルと内容

小説と現実と想像力と抵抗と戦いと敗北と勝利が、小説家と読み手を巻き込み絡み合う。小説家が創造する小説の世界、読み手の中で生まれる小説の世界、二つの小説世界が二重螺旋を生成し相互作用し、シンプルにストレートに話が進行することを困難にさせる。そこが迷路的なる場所であれば、迂回こそが行くべき最短の道となる。瞬間の時間を駆け抜けるための迂回と停滞

わたしたち読み手の読むという行為によって、小説の姿も色彩も意味も全く異なったものとなる。小説家が空白の場所に言葉を刻み込むことによって、小説と対峙することと同じく、わたしたち読み手もまた無数の言葉の連なりをひとつひとつ拾い上げることによって、小説と向き合わなければならない読み手も小説家と等しく、小説の世界のありようを決定する者なのだから。

/No.5/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の解読のために用意された9個のリスト、あるいは、迷路的なるもの/路上/ストリートの横断の途上のための目次のような目印

[リスト1](No.6)「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」とは血と肉体を与えられた〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉、あるいは、そのままの姿でわたしたちの現実そのもの、そして、わたしたちの現実の部分的な肯定。」
そこに描写され出現した世界がいかなるものであるのか、その全貌について受け入れざるを得ないことと肯定について。〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉としての日本の現在。わたしたちはその世界で今まさに生きている

[リスト2](No.7)「フィクションの中で現実に敗北することについて、あるいは、敗北は厳然と世界の中に存在している。しかし〈小説〉は抵抗と戦いからの撤退/逃亡は許されない。なぜなら〈小説〉とは世界を変更するための想像力なのだから。」
現実に敗北することについて、その意味。〈小説〉の中の敗北の取り扱い方。世界に敗北が存在していても、〈小説〉は決して敗北してはいけない。〈小説〉とは現実への抵抗であり戦いであり、人間に残された最後の希望なのだ。それを根拠として〈小説〉は藝術(art)となる。藝術としての小説。

[リスト3](No.8)「「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」はそうした意味において〈小説〉ではない。/小説への裏切りであり、小説を求めていた者たちへの裏切り。二重の裏切りが意味するもの」
世界を変更するための想像力が封じ込められた言葉の容器としての〈小説〉希望/絶望の言葉としての小説。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は、そうした意味において〈小説〉ではない。小説が小説であることの根拠の否定、小説である根拠を持つ存在である小説を求めること/求める読み手の存在の否定、二重の否定。小説への二重の裏切り。小説家の避け難き確信的な裏切り

[リスト4](No.9)「小説家・川上未映子とは迷路的なるもの/路上/ストリートそのものなのだ。/愛と憎しみと悲しみを込めて、その場所を肯定する」
小説家・川上未映子の生誕の場所について。彼女の存在はそこにある。小説家・川上未映子はその場所を否定できない。愛と憎しみと悲しみを込めて。

[リスト5](No.10)「「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」、裏切りとしての小説の誕生の理由、あるいは、小説家・川上未映子が小説家として生き延びるために」
彼女は現実として迷路的なるもの/路上/ストリートそのものを、遅かれ早かれ書くより他になかった。小説家・川上未映子の解放。差し出される小説への裏切りと生贄としての花。小説家の論理と倫理において、登場人物たちに決着をつける時が訪れるだろう。小説家とその読み手にとって、試練としての「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」。小説家・川上未映子が闇を潜り抜ける

[リスト6](No.11)「花の現実との戦い、そして、敗北、あるいは、「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わりについて/読み手もまた覚悟を試される/誰がどう考えても〈どうかしている〉」
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わりについて。結果として読み手が試されることになる。終わりを受け入れることのできる者たちと受け入れることのできない者たち。小説は人を分ける。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」が何を人にもたらすのか、決定的な違い。分かり合うことのできない厳粛なる違い。それでも分かり合うことのできない者たちのかりそめの呼応によって、世界は今日も静かに回転している。みんな〈どうかしている〉よ。小説が孤独の中で開かれ閉じられる。ほんとうにほんとうに〈どうかしている〉

[リスト7](No.12)「花の現実との戦いの敗北に対する従順さ、あるいは、花に欠損している重要なもの/黄美子が体現するものの外部に存在するもの」
花には無条件の人間の生への肯定、そして、その意志が欠落している。〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉の世界の内部の限界。花の抵抗と戦いは光の欠けた闇の中の闘争。あらかじめ用意されていた敗北。迷路的なるもの/路上/ストリートが自身の暗黒に敗北する。外へ出なければ光は存在しない。

[リスト8](No.13)「花の物語は終わってはいない。花の物語はこれから始まる。/その後の花の物語を必ず存在させなければならない。」
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わり、花の物語の終わり、別の仕方で〈その後の花の物語〉をわたしたちは書かなければ/読まなければならない。それをプロローグとすること。わたし/わたしたち読み手が果たすべき責務。

[リスト9](No.14)「音楽の失われた迷路的なる場所/花よ、黄金色の滴る〈がらんどうの童子(わらし)〉を抱いて、迷路的なる場所から跳べ、そして、音楽を奪い返せ!すべての恥辱をあがなうために」
音楽の断片が星屑のように散在しきらめく。しかし、迷路的なるもの/路上/ストリートの暗闇の中へ、音楽は失われて行く。音楽の失われし迷路的なる場所。花よ、花よ、花よ、跳べ、奪い返せ!すべての恥辱をあがなうために

/No.6/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」とは、血と肉体を与えられた、〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉、あるいは、そのままの姿でわたしたちの現実そのもの、そして、わたしたちの現実の部分的な肯定。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」には破壊も跳躍も離陸も超越もない。何もない。何処にも出口はない。出口を示すであろう道標さえ存在しない。誰もその場所から脱出することはできない。鮮明に明確にしておかなければならないことは「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の世界が、現実の実相を暴き出すために小説家が人工的に創造した誇張された虚構の世界ではないということだ。(それはつまりカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」とは本質的に異なったものだということを意味している。)小説というフィクションの形式でありながらも、そのままの相貌でわたしたちの現実そのものなんだ

ディストピアは、ファンタジーとしてのユートピアを逆転させ覆したディストピアでさえない。用意された偽の演劇が上演され黄金が湧出する微分された局所的な領域のファンタジーの世界と、本物の黄金が保存される積分された大域的な領域のリアルの世界が融合したディストピア。ファンタジーがリアルを浸蝕し無数のファンタジーの孔が穿たれたリアル/ファンタジー。ファンタジーとリアルが行き交う「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の世界は、夢と現実が混濁した〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉=現在の日本。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」とは、わたしたちの現実である〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉の混沌の描写であり、限りなくリアルであり限りなくファンタジーであるディストピアに実質の血と肉体を与えたものである。そして、〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉の闇の側面を否定しつつ、光と影を肯定したものでもある。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉を部分的ではあるけれど、肯定している。受け入れざる得ない愛と憎しみと悲しみの濁流するディストピア。

〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉は幻想ではない。わたしたちはそれを生きているんだ。黄金色のお金が泥人形の身体に生命を吹き込み、いきものとして生存させ維持し支配する。売り買いのツールではなく生命の源としてのお金。黄金色の場所ではなく黄色い家であること。本当に必要なものは黄金でも場所でもなく、生命であり家であるということ。夜の闇としての青から零れ落ちるようにきらめく黄色いひかり。生命のひかり。希望と絶望の場所、構築と崩壊の場所、黄色い家。「黄色い家」とは、わたしたち人間が人間的であるために必要な〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉という荒れ狂う暗黒の海の中に浮かぶ小舟なんだ。現代の漂流者たち、花と仲間たち

善悪の裁定者たる父と存在の全的肯定者たる母と、父と母に守護される子供たちの集う〈家族〉、世界から生命を狩猟すべき存在の大人と生命を授受すべき存在の子供の集う〈家〉、双方が壊れ失われてしまった〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉。〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉は人間的であることの拠り所としての〈家族と家〉を破壊し、世界を、ツールが生命化する現在という時間の平面で覆い尽くす。そこに人間の未来は存在しない「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は必然として現在の日本の泥の中から蠢くように生まれ出て、出口のない存在としてわたしたちの眼前に横たわる。

しかし、それを直視する者など誰一人いない。こんなはずはなかったと、その入口も出口もない存在に背を向けていれば、それがいつの間にか消滅してしまうとみんな思っているんだ。そんなことがないことが分かっていても。

わたしたちは日々の暮らしの中で〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉をアップデートし、より一層磨きをかけて身体を錬成する。それが〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉の存在を忘れる唯一の方法であるかのように。

/No.7/
フィクションの中で現実に敗北することについて、あるいは、敗北は厳然と世界の中に存在している。しかし、〈小説〉は抵抗と戦いからの撤退/逃亡は許されない。なぜなら〈小説〉とは世界を変更するための想像力なのだから。

敗北は厳然と世界の中に存在している。フィクションの内側であろうがなかろうが外側であろうがなかろうが。勝者がいれば敗者もいる。敗北を存在しないことにすることはできない。誤魔化しようのない現実だ。飲み込むことのできない敗北をそれでも飲み込むこと。耐え難き痛みと伴に生きる悲しみ。避けることのできない人の生の痛みと悲しみ。誰もそのことを否定することはできない。繰り返す。フィクションの内側であろうがなかろうが外側であろうがなかろうが、敗北は敗北として存在する。不完全で愚かな存在の人間はそのことから逃れることはできない。誰もがそうだ。誰一人として。

しかしだからと言って、現実を変更しようとする抗いと戦いに於ける敗北を肯定/承認/受容し、醜悪な現実を追認してよい理由にはならない。〈小説〉の抗い戦うことからの逃亡は許されざることでしかない。世界に敗北が存在しても〈小説〉は決して敗北してはいけない。なぜなら〈小説〉とは現実への抵抗であり戦いであり、人間に残された最後の希望なのだから。〈小説〉は形式と内容を問うことなく、人間が人間的であることの証明であり、世界を変更するための想像力であり、藝術(art)であり続けなければらない。

/No.8/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は、そうした意味において〈小説〉ではない。//小説への裏切りであり、小説を求めていた者たちへの、裏切り。確信的な二重の裏切りが意味するもの

世界を変更するための/変更を可能にするための、想像力(〈根源的なるもの〉)が封じ込められた言葉の容器としての〈小説〉。希望の言葉、あるいは、絶望の言葉としての小説。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」はそうした意味において〈小説〉ではない。小説が小説であることの根拠の否定、小説である根拠を持つ存在の小説を求めること/求める読み手と読むことへの否定二重の否定。これは小説への裏切りであり、小説を求めていた者たちへの裏切りだ。二重の意味での裏切りだ。あらためて言うまでもなく、これはもしかしたら〈読み物〉かもしれないという可能性は完全に排除されている。

わたしはこの小説を受け入れることができないし、受け入れてはいけない。小説家・川上未映子がそのことを自覚していないわけはない。とわたしは思う。それでも小説家・川上未映子は「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を書いた。書かざるを得なかった。理由を語る前に重要な事柄を明らかにしておく必要がある。小説家・川上未映子による確信的な避け難き裏切りの理由。

/No.9/
小説家・川上未映子とは迷路的なるもの/路上/ストリートそのものなのだ。小説家が愛と憎しみと悲しみを込めて、その場所を肯定する。

小説家・川上未映子は迷路的なるものとしての世界を肯定した。自身が誕生した場所である迷路的なるもの/路上/ストリートを肯定するために「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は書かれた。その場所に潜む邪悪なる暗黒の欲望も込み込みで、愛と憎しみと悲しみを込めて、小説家・川上未映子はその場所を肯定した。その場所の生み出す黄金色の時空の存在を肯定した。いや正確に言えば肯定せざるを得なかった。小説家・川上未映子の身体と魂はその場所に今もなお根差しているからだ。否定は自分自身の魂の最も深く柔らかい部分を否定することになってしまう。彼女にそれ以外を選び取る方向はない

さらに残酷なことを言えば、小説家・川上未映子の身体と魂そのものが迷路的なるもの/路上/ストリートを形成していること、部分であるということ。生成と崩壊の途上として、現在進行形として、小説はその場所から誕生する

小説家・川上未映子とは迷路的なるもの/路上/ストリートそのものなんだ。小説家が、愛と憎しみと悲しみを込めて、その場所を肯定する。

/No.10/
「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」裏切りとして、その誕生の理由、あるいは、川上未映子が小説家として生き延びるために

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は小説家・川上未映子による自身の誕生の場へ向けた讃歌であるとも言える。彼女は小説家として象徴でも舞台装置でもなく、現実として迷路的なるもの/路上/ストリートそのものを、遅かれ早かれ書くより他になかった。小説家・川上未映子は「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を書くことによって、或る意味、解放されることになる。迷路的なるもの/路上/ストリートが内的なるものから外的なるものへと変貌する。部分的であるとしても。川上未映子は小説家として生き延びるためにそうするしかない。自身の身体とそのオリジンを守護するために、小説への裏切りが実行され、花は生贄として「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の中に閉じ込められてしまった。小説家・川上未映子は何れ到来するその時、花を何かしらの方法で救い出さなければならない。小説家の論理と倫理において、フィクションの登場人物たちに決着をつける時が訪れるだろう。小説家の宿命。

裏切りとしての小説「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」が生まれたことには、鮮烈なる理由が存在している。それでも当然のことながら理由が明らかになったところで、「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」が変容することはない。しかし、その存在の意味を知ることは小説家・川上未映子を理解する上で、大切なことだとわたしは思う。現在進行形の小説家である川上未映子の作品をこれからも読み続けようとする者たちの、これは巨大な熾烈な試練なのだ。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」は小説への裏切りであり、小説ではないしかし、同時に、小説家・川上未映子が小説家として生き延びるために放たれた叫びであり、そのことを根拠として、小説である。小説家・川上未映子が誕生し、死に、そして、生きる、現在進行形の小説家の抵抗と戦いの記録 

/No.11/
花の現実との戦い、そして、敗北、あるいは、「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わりについて/読み手もまた覚悟を試される/誰がどう考えても〈どうかしている〉、その終わり/

花は敗北した。花は現実に敗北した。わたしは花を責めているんじゃないんだ。誰も彼女を責めることなんかできない。それでも、そこには目を背けたくなるような厳然とした冷酷な現実が現実として存在している。あれだけの胆力と実行力と繊細さを持っていた花のその後が「これなのか?」とわたしは心底、震え上がってしまった。安直で空虚な贋物めいたサクセス・ストーリー、あるいは、ハッピー・エンドを求めているのではない。そんな嘘で塗り固めた物語など求めてはいない。当たり前じゃないか。それでも何かしらの花の花らしい〈その後の花の物語〉があってしかるべきじゃないだろうか

花のその後の人生の苛烈さ、裏返せば現実の凄まじいまでの冷徹さに、わたしは体の芯から震えてしまい本を読み終わった後、自分の足だけでうまく立ち上がることができなかった。しばらくの間、茫然とし何かのまちがいではないかと思った。前編が終わっただけで後編があるはずだと、バカじゃないかと思えるくらいに必死になって「続く」の文字を探したんだ。はじめからそんなものが存在しないことは知っているはずなのに、それでもそれでも。

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わり方はこれでいいのか?

「花が花として出来得る限りを尽して生きて来た」ことを否定しているのではない。花のこれまでの人生を絶対的な安全地帯の高みから侮り蔑んでいるのでもない。何ひとつ花が全力で生きて来たことを疑うものはない。そのことをもってして花を讃えるのでれば、わたしに異論は全くない。その通りだ。完璧にその通りだ。しかし、そのことは「花は彼女の持てるすべてを尽くしたけれど、現実に敗北してしまった」事実を覆すことはできない。

「何を言っているんだ。お前は。そうではなく花が花としてこれまで生きて来たということが大切なんだ。花は人生を全うしている。」「花、よく頑張ったね、うん、花は頑張ったよ、ほんとうに」「現実なんて、世界なんて、簡単に変えることなんてできない。そこにある世界の中で全力を尽くすしか方法はない。結果がどういうものであれ、花は必死に生きてきたんだよ。そのことを讃えないでどうするんだ」さらに「人生を勝利、あるいは、敗北と分けること。その傲慢さに我慢できない。慎ましく与えられた自分の人生の場所で花を咲かせなさい。」という厳しい戒めの声もあるのかもしれない。

それでもわたしは、再び、問いたい。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」を終わりまで読んだすべての、一頁を一頁を正確に読み終えたすべての人に。

花が最後に行き着いたところは、花が求めていた場所なのだろうか?
そこはほんとうに花が求めている世界なのか?

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わりはこれでいいのか?

それでいいの? ほんとうにほんとうに、それでいいの?

「花が求めるとか求めていないとか関係なく、花はその世界を受け入れるしかないんだよ。悲しいけれどそれが現実なんだ。辛いかもしれないけれど、わたしたちにできることは現実を現実として受け入れることだけなんだ。それが子供が大人になるということだ。花は子供から大人になったんだよ」と本気でそのように思う者がいるとしたら〈どうかしている〉とわたしは思う

そうとしかわたしには思えない。何をどのように考えても〈どうかしている〉。それはあらゆる意味において〈どうかしていること〉だとわたしは思う。大人の意味も現実の意味も完全な誤りでしかない。現実はそれが現実であることを根拠としてそれは変更されるべき存在であり、変更されることを待っている存在であり、子供が大人になることとは、現実の囚人になることでもなければ現実の奴隷になることでもない。何もかもが誤りであり何もかもが〈どうかしている〉。ほんとうに、何もかもが、〈どうかしている〉。

それとも、〈どうかしている〉のは、わたしの方なんだろうか?

/No.12/
花の現実との戦いの敗北に対する従順さ、///あるいは、花に欠損している重要なもの/////黄美子が体現するものの外部に存在するもの/闇の中の暗黒との闘争

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の終わり方は、まるで辱めを受けて辱めを受容する自分自身を、肯定し陶酔することではないかとさえ思えてしまうのだ。花がそうだとわたしは言っているわけではない。しかし、花の醜悪なる現実との戦いの敗北に対する従順さには、彼女に重大な何かが欠損しているのではないかという疑問を抱かせるものが存在している。彼女には生命の源であるお金以外の、生存のために必要不可欠な重要な何かが欠落している。

花だけではない。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の中の花の家族にも、〈SISTERS〉の中にもそれを見つけることはできない。その断片さえも姿を現すことのない何か。黄美子が体現するものの外部に存在するもの。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の世界の内部で巧妙に排除されている重要なもの

それは人が人として生きることへの無条件の肯定だ。無条件であること。何一つそこには条件が存在しないということ。お金があろうがなかろうが、家族がいようがいなかろうが、家があろうがなかろうが、ひとりであろうがなかろうが、さらに言えば、善であろうが悪であろうが、イノセンスであろうがギルティであろうが、そうしたことに関係なく人間は人間として世界に存在したその瞬間に無条件に生を肯定されるべき存在であること。根拠も理由も不要な無条件の人間の生への肯定、そして、その意志。わたしたち人間はそうした存在であり、世界はそうしたものでなければならない。仮に、その無条件の肯定を嘲り否定する者たちが世界を支配しようとするならば、わたしたちは抗い戦うしかない。繰り返す。人間の存在の全肯定、善悪の彼方の

「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」にはその無条件の肯定があらゆる形で決定的に欠如している。〈リアル/ファンタジー・ディストピア〉としての迷路的なるもの/路上/ストリート、「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の世界の内部の限界。花には無条件の人間の生への肯定、そして、その意志が欠落している。花の戦いには敗北があらかじめ準備されていた。光の欠けた闇の中の抵抗と戦い。迷路的なるもの/路上/ストリートが自身の暗黒に敗北する。

/No.13/
花の物語は終わってはいない/花の物語はこれから始まる。あるいは、わたしたちの〈その後の花の物語〉を必ず存在させなければならない

物語は終わってはいない。物語はこれからはじまる。花の物語を小説のラスト・シーンをもってして終結させてはいけない。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」のラスト・シーンをファースト・シーンとして新たに開始されなければならない。花にとってもそうだし、誰にとってもそうしなければならない。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」をプロローグとしてシン・花の物語を始めること。わたし/わたしたち読み手が行うべき果たすべき責務なんだ。

小説家・川上未映子は花を元の場所に帰還させ、物語を収束させ「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の中に閉じ込めてしまった。そうだからこそ言わなければならない、読み手のひとりとして。「黄色い家/SISTERS IN YELLOW」の結末をわたし/わたしたちは書き換え、花の物語を再びスタートさせなければならない。ほんとうの〈その後の花の物語〉はわたしたちの手の中にある

〈その後の花の物語〉を世界の何処かに必ず存在させなければならない。物語が何かしらの物質的/情報的な存在として形を成して実在しなくてもいい。ひとりひとりの読み手の中で〈その後の花の物語〉が新しく誕生し存在すれば、それでいい。その時「花に言葉をかけよう」とわたしは思う。花、それまでの少しの時間だけ、待っていてほしい。少しの時間だけ。少しだけ。

/No.14/
音楽の失われた迷路的なる場所/花よ、黄金色の滴る〈がらんどうの童子(わらし)〉を抱いて、迷路的なる場所から跳べ、そして、音楽を奪い返せ!すべての恥辱をあがなうために

迷路的なる場所において、ひとつの歌が歌われる。そして、歌が失われる。

その後〈その後の花の物語〉を決定する出来事が転がるように進展し、気が付いた時、花は黄色い家から逃亡し脱出することになる。それは漂流する筏だったのかそれとも方舟だったのか。黄色い家の中央に位置していたはずの者を遺棄するように、花はその者と場所から遠く離れる。〈その後の花の物語〉はすでに述べた通りだ。花が地上から離陸することができなかった理由は、花が遺棄した者を地上に残すことができなかったからかもしれない。

かくして、二十年余りの後、花は再び、黄色い家の中央に位置していた不動の者を迎えるためにその場所に帰還する。しかし、そこに存在していたのは〈がらんどうの童子(わらし)〉と化した黄色の者だった。〈その後の花の物語〉の始まりの始まりの瞬間、花の躍動が幻影のように鮮明に浮かび上がる。生と死。取り戻すことのできない時間と空間。〈その後の花の物語〉が辿り着く場所。花よ、わたし/わたしたち読み手ひとりひとりに任せてほしい

幾つかの細切れの音楽の断片が星屑のように散在しきらめく。しかし、迷路的なるもの/路上/ストリートの暗闇の中へ、音楽は失われて行く。音楽の失われし迷路的なる場所。花よ、邪悪なる暗黒の欲望への怒りを解放し、体が持つすべての力を燃焼させ炎をぶちまけ叩き付け、破壊せよ!黄金色の滴る〈がらんどうの童子(わらし)〉を抱いて、迷路的なる場所から跳び、そして冥界を泳ぎ切り音楽(琴/桃)を奪い返せ!すべての恥辱をあがなうために

夜の闇としての青を纏い黄金色の野に降り立つ花、シン花のその後の物語。漂流する方舟の黄色に塗られし空の玉座の傍らには〈がらんどうの童子(わらし)〉が蹲り、花の地獄巡りの旅からの帰還を待つ。風が吹き渡り、青き花の体から血が滴り落ちる。音楽が奪回され、再び、歌が歌われる。父と母を知らない棄てられし者たちの集う方舟で音楽が青の闇を切り裂き響き轟く

撃て!花よ、生誕の迷路/路上/ストリートを。愛と憎しみと悲しみを込めて撃て!花よ、囚人としてフィクションの檻を。愛と憎しみと悲しみを込めて撃て!花よ、夜の闇の青と昼の闇の黄色を。すべての恥辱をあがなうために 

/No.15/
瞬間の時間が終わる。書かなければならないことを書くために、言葉は書かれた。/一人でも多くの人が小説を手にして/花の物語とは、わたしとわたしたちの物語に他ならない。

瞬間の時間が終わる。わたしに残された時間はもうない。書かなければならない書くべきことを書くために、言葉は書かれた。瞬間の時間であってもそのことを譲ることはできない。洪水の後に言葉がかき消されことになっても

すべてはこれが小説であることを理由として書かれている。これが小説でなければこれらの言葉は書かれることはなかった。すべての起点がそこにあるわたしは力の限りを尽して読んで、そして、書いた。人は小説にそれ以外の向き合い方をすることはできない。ありがとう、川上未映子/花、ありがとう

わたし/わたしたちが生きている現在が刻明に存在し呼吸している、読み物として読み終えることのできない〈本物の小説〉。読む者は小説の持つ残酷な力に打ちのめされることになる。それでも、わたしは一人でも多くの人に小説を手にして読んで欲しいと願う。そして、花の物語を分かち合って欲しいと痛切に思う。花の物語とはわたし/わたしたちの物語に他ならないからだ。

あらためていうまでもないことだが、わたしの書いたことばが小説の存在のありようを限定するものではない。読み手が自身の存在を賭けて決めるしかない。決めるのは読み手ひとりひとりだ。それが小説を読むということだ。

終わりに小説家の言葉のいくつかを。川上未映子さんの「VOGUE JAPAN」のロングインタビュー(2023年3月15日)とRealSoundのインタビュー(2023年2月23日)のリンクをここに。

〈ひとまずの了〉

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