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あの子のこと(完結済)

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【もう一度、人を信じて良いですか】 若葉ゆい。三十三歳。独身一人暮らし――。 ファミレスとスポーツクラブのダブルワークで生計を立てる彼女は、とある事情で生きづらさを抱え続けてい… もっと読む
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『あの子のこと』エピローグ 「あの子のこと」

『あの子のこと』エピローグ 「あの子のこと」

 夏が、少しずつ近づいている――。

 四月末の逗子海岸は、朝も早いと言うのに散歩する熟年世代が何人もいた。

「あら、飛島さん久しぶり。娘さん元気?」
 娘がお世話になった下野さんは、二年前より若干白髪が増えたようだった。
「下野さん、お久しぶりです。おかげさまで娘は元気過ぎるぐらい元気です」
「名古屋で一人暮らしでしょ? 大変ね」
 世間話を始めた下野さんの背中に張り付くようにして、小さな男の

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『あの子のこと』(65)「腕時計とネックレス」

『あの子のこと』(65)「腕時計とネックレス」

 私は、油まみれの体を清めた拓人さんとバスタブで差し向かいになった。
「俺ね、留学することに決めたんだ」
「えっ、絶対留学嫌だって言ってたじゃない!? どうしたの」
 私は思わず拓人さんにしがみついた。
 本当に聞き分けの悪いわがままな子供そのものだと思いながらも、私の体は私の心を忠実に表現した。

 
「今の俺じゃ、若葉ゆいの隣に立てっこないって思うようになったんだ」
「どうして。私がしっかり立

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『あの子のこと』(64)「私の誕生日」

『あの子のこと』(64)「私の誕生日」

 結局私の誕生日は仕事で潰れ、家賃三万八千円のアパートに戻る頃には日付が一つ進んでいた。
「あー疲れた」

 GoGoカナリオンの収録後に、とある女性誌のオーディションを兼ねたカメラチェック。それが終わったかと思えば事務所の先輩と共に会食という名の御接待。
 挙句の果てに終電近くの電車に揺られて午前様では、見た目が命の職業のはずが、ぼろ雑巾のようにくたびれる一方だ。

 数時間ぶりに覗いたスマホに

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『あの子のこと』(62)「女王」

『あの子のこと』(62)「女王」

 化粧台の前で自らの顔をされるがままにするのにも慣れてきた私は、熊野筆のブラシが肌を滑るのを感じながら自分の目を見つめていた。

 あと二時間弱で、招待客と奨学生の名前と顔に、来歴と代表的な作品を頭に叩き込まねばならない。
 メークが始まる前にざっと目を通しただけで、八十人近い人数だ。
 音楽に美術関連の相手ならば少しは話が出来そうだが、学術的な研究についてはまるで頭に入らない。
 それでも、谷崎

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『あの子のこと』(61)「誘蛾灯」

『あの子のこと』(61)「誘蛾灯」

 キッチンカーが誘蛾灯の如く人を集める中、かながわカナリオンのキャラバン隊として、地元ラジオのサテライトスタジオにいた私をするどく観察する目があった。

「順調そうで何よりですね」
「おかげさまで」
 特設サテライトスタジオから退出した私に、視線の主である立川さんが声を掛けてきた。
 

「今日の出番はこれで終わりですか?」
「はい。何とか噛まずにこなせました。立川さんもPRでこちらに?」
「そう

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『あの子のこと』(60)「野心」

『あの子のこと』(60)「野心」

「荒屋敷さん、また押しちゃいましたよー」
 八回目の収録も十分近くも時間が押したまま終えると、メイン司会の古淵さんが苦笑した。

「いやあ僕の悪い癖でね。乗ってくるとべらべら話しちゃうんだよ。だから地上波を首になっちゃったんだろうなー」
 すかすかの頭頂部を掻きながら苦笑すると、荒屋敷さんはごくごくとペットボトルの水を飲んだ。

「そういや若葉さん、ユリカの事務所に入ったんだって? ユリカからよろ

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『あの子のこと』(58)「キックオフ」

『あの子のこと』(58)「キックオフ」

「さあ今週もはじまりましたGoGoカナリオン! いよいよシーズンインに向けて、GoGoカナリオンも新メンバーを迎えて、最新のかながわカナリオン情報をお伝えします」
「今季こそはV奪還と行きたいものですね」
 スタジオでは、メイン司会の古淵さんと、解説の荒屋敷さんが軽妙なトークを繰り広げている。

 任期が終わる頃には、私も軽妙にトークが出来るようになっているのだろうか。
 付け焼刃でアナウンス実習

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『あの子のこと』(40)「縁は異なもの」

『あの子のこと』(40)「縁は異なもの」

 拓人さんの部屋から自室に戻って歯磨きをしていた私のスマホが、久しぶりに着信音を奏でた。
「ゆいにゃん久しぶり企画通ったから。超急ぎだからブルースクリーンの合成で、ゆいにゃんだけ別撮りするんだけど。今度の月曜日一日中開けられる?」

「本当にあの企画が通ったんですか」
「今更辞退とかまじ勘弁よ」
「通ったからにはやりますけれど、あの案のまま通ったんですか?!」
 私は三十三歳だ。まさか本当にセンタ

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『あの子のこと』(56)「闘うのは慣れてる」

『あの子のこと』(56)「闘うのは慣れてる」

「で、何しに来た」
 拓人さんは、私が聞いたことのないような声でつくしさんに鋭く問うた。
「泊めてよ」
「何でだよ!」
 語気を荒げる拓人さんのそばで、私はただあっけに取られるばかりだった。
「この状況見ろよ。分かるだろ?」
「そんなの関係ねえし」
 つくしさんは目を座らせたまま、白い厚手のタイツにミニのフレアスカートをはためかせてバタンとベッドに倒れこんだ。

「勝手に俺のベッド占領すんな。帰れ

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『あの子のこと』(55)「黄昏時の不審者」

『あの子のこと』(55)「黄昏時の不審者」

 二十年ぶり以上に名古屋の父の墓に参り小平の家の片付けをし、出張ヨガ教室を開いた上にファミレスの夜勤とインストラクター稼業も行えば、体に疲れも溜まるもの。
 私は休日をセミダブルベッドの上で屍のように過ごした。
 拓人さんはテスト期間中で、あんなにくっつきたがりの癖に私の部屋に顔を出しもしない。
 スマホの時計は午後四時を指していた。

「いい加減起きないと……」
 十六時間も寝ていた事に気づき、

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『あの子のこと』(54)「美しい人」

『あの子のこと』(54)「美しい人」

 あやのさんの呼びかけに応じた出張ヨガ教室には八人が参加した。
 かながわカナリオン広報担当の藤井さん夫婦に、エレナさんとユジャさん。それからあやのさん夫婦と同じく妊娠中のさと子さん夫婦だ。

 あやのさんとさと子さんが妊娠中なので、体を温めるメニューと呼吸法を中心にする事にした。
 あやのさんはまだ目につく見た目の変化は無いようだった。
 対してさと子さんは三月末にお産を控え、お腹も満月のように

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『あの子のこと』(53)「破魔矢」

『あの子のこと』(53)「破魔矢」

 墓参りを済ませ遅い昼食をとった後に、私は最寄り駅から遠ざかるように歩き始めた。

 一陽来復の言葉どおり、冬至を境に少しだけ日が伸びはしたものの、通りは刻一刻と薄暗さを増していた。
 午前中に拓人さんと手を繋いで歩いた自転車道路をゆっくりと歩き、一緒に行くつもりだった桜の名所へと足を延ばす。

 住宅街の明かりが途切れ、まばらに残る緑とこげ茶色の木の幹へと光景が変わる中、ちらりと視界に白が入っ

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『あの子のこと』(52)「コピー」

『あの子のこと』(52)「コピー」

「母さんはバカだよ、本当にバカだよ。美佐子と母さんは別の人格だって言うのに、そんな事すらついぞ分からなかった大馬鹿だよ」
 伯父からは母の七回忌の際に、母が祖母から受けていた虐待について詳しく聞かされていた。
 曰く、しつけと称してゴミ袋に入れる。髪の毛を無理やり引っ張って脱毛させたのにも関わらず、学校でのストレスで円形脱毛症になったと担任に怒鳴り込むなどなどなど――。

 友人も祖母が選別した人

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『あの子のこと』(51)「相克の家」

『あの子のこと』(51)「相克の家」

 名残惜しそうに何度も手を握りなおす拓人さんを見送ると、私は北口の階段を下りた。
「あらゆいちゃん、早かったわね」
 伯母さんがタオルを首から下げたまま、玄関まで出てきてくれた。

「伯父さんは」
「もう戦力にもなりゃしないわよ。片づけに来たんだか散らかしに来たんだか」
 無意識にこわばる体をなだめすかしつつ板張りの廊下を歩くと、耳なじみの無いオーケストラの曲が聞こえてきた。

「ゆいちゃん、お早

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