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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)

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個々に具体的な実際の労働と、抽象化・一般化された概念としての労働力。この二つが倒錯的に混同されていることで、本来重層的な人間の「自然・本性」が、現実的な必要の名の下で一元化され人… もっと読む
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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈1〉

 労働と労働力。この二つの言葉の「違い」について敏感な人というのは案外と少ないものである。いや少ないどころかほとんど全ての人たちが、このことについてさして深く考えを巡らせるわけでもなく、それらをただ混同させたまま、日々実際に労働しているのだ。これはある種不条理な光景ではないか。
 「もともと『労働力』とは商品以外の何ものでもなく、『労働力が商品になる』のではない」(※1)と柄谷行人は言っている。つ

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈2〉

 人間の個別的で具体的な行為としての仕事が「一般的」であるということは、一方で実際そのような仕事に個別具体的に関わっている人間を「自由にする」ことでもある。
 人間は、自らの関わる仕事がそのように一般的なものであるからこそ、自分自身が今現在関わっているその、個別具体的かつ特定・限定的な行為=仕事に、自分自身そのものが恒久的に縛りつけられるようなことにはならずに済むわけであり、かつもし今現在関わって

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈3〉

 「労働力」とは、「一般的な労働」として抽象された、総体的な人間の活動力=生産力に対し、あらかじめ数量的に割り出され割り当てられるところの「力、およびその価値」である。
 一般的な商品としての労働力は、それが「誰の仕事=労働であるか」は全くどうでもよいことである。ゆえにその「それぞれの仕事=労働の特定の形態とは無関係に、その使用価値を使用できるような生産力」であり、つまり実際においてその生産力を使

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈4〉

 ハンナ・アレントは、「労働力の生産性は、労働の生産物にあるのではなく、実に人間の『力』の中にある。この力は、それが自分を維持し生存させる手段を生産した後も消耗されない。それどころか、自分自身の『再生産』に必要とされるもの以上の『剰余』を生産する能力を持っている」(※1)と言う。しかし、そのように生産性や力や剰余などについて語ってしまうことは、実はそれらに対して無用な誤解や期待を生じさせることにな

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈5〉

 ルイ・アルチュセールは、「労働力の再生産は、労働力に自らを再生産するための物質的手段を与えることによって、すなわち賃金によって保証されており、賃金は労働力の支出によって創り出された価値のうち、労働力の再生産に必要不可欠の部分を表わしているから、労賃はかくして(労働力の再生産の条件として)『作用する』のだ」(※1)と言っている。また、ここで「労働力の再生産に必要不可欠」と言っているのは、「賃金労働

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈6〉

 すでに言ってきたように、労働市場で売買されているのは実際の労働ではなく、労働力という商品である。そのように「商品である労働力」が実際に買われ、そして一定の生産力を持った生産手段としてその使用者に専有的に使用され、つまり「商品として消費される」ことによって生産物は生産されるのだ。それが実際に市場において売られる「商品」となるわけである。
 そこでは、個々の人間の生命と生活の維持のために消費される、

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈7〉

 一般的な労働として抽象された「労働力」は、まさしく「商品として見出される」わけであるが、その「商品」に対しては一般的に、使用価値と交換価値という二側面の価値が見出される。そのそれぞれの「意味づけ」の違いについて、例え話を交えながら考えてみよう。

 ここに2本の単三乾電池があるとする。その乾電池が使用者に買われ、そして実際に使用されるにあたって、1本は懐中電灯を点灯させるのに使う場合と、もう1本

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈8〉

 商品はあくまでも「その商品を買った者の使用価値」であり、またそうでなければそれはけっして「商品」たりえない。逆に言えば商品は、商品「として」はそれを売る者=所有者にとって何ら使用価値を持たないし、持つ必要がない。なぜならそれは彼らが「使用するため」に生産された物では全くないのだから。ゆえにマルクスは、「商品は、その所有者にとってはむしろ非使用価値なのである」(※1)と言うのだ。
 たとえば「単三

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈9〉

 労働者の労働は「一般的な労働」として抽象され、「労働力」という商品として市場に持ち出され売られる。そして一定の価格において買い取られた労働力は、彼を買った者が所有する生産手段の生産力として、一定の機能において使用されるために、その使用者の手元に集約される。一定の機能において使用されるために集約された生産力は、その機能を果たしうる「同一あるいは同程度の生産力」であることを、その生産力の使用価値の実

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈10〉

 たしかに労働者は、自らの唯一所有する労働力という商品を売らなければ、その生存をすら維持していくことができない宿命にある。
 とはいえ一方で労働者は、あくまでも「自分の労働力は自分に『所属している』商品つまり自分が『所有している』物だとして、それを市場で自由に売却することができる『自由な』労働者」(※1)でもあるのだろう。労働者は自分で商品を生産する自由はないが、自分を商品として売る自由はあるわけ

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈11〉

 自分で自分自身を売るということ。そのように自分自身を商品として売らなければならない人間すなわち「労働者」は、「もしそうであるならば、できればいっそ自分自身をより高く、なおさら価値のあるものとして売りたい」と誰もが思うことだろう。「自分自身はそれほどの価値を持った商品なのだ」と、労働市場において誰もが精一杯アピールしたいところであろう。
 しかし、繰り返しになるがそのような「価値」とはあくまでも、

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈12〉

 労働力である労働者が生産するのは、彼の使用者が市場で売るための商品であって、労働者「自身のためのもの」では全くない。ゆえに結局のところ「労働するということそれ自体」が、直接に労働者一人一人の生命を長らえているなどということは、実際のところでは全くもって「ない」のだと言える。労働者が自ら唯一所有する商品である労働力を売って、その売ったカネで市場から商品として生活の糧を買うという、「迂遠な過程を辿る

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈13〉

 労働者の労働力は、そもそも「商品」として見出されているものであり、それが売られ買われ使用されている。ではここからは少し、その「商品」というもの自体が、一体どういうものなのかという観点から考えていこう。

 商品の使用価値は、その商品が買われて実際に使用されることにおいて実現され、そしてまたその使用価値は、実際の使用において消費されることになる。使用価値が消費されるということは、それが使用されてい

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労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈14〉

 商品を実際に買い使用する者にとっては、「それぞれの商品の使用価値は一定である」と言える。
 たとえば「テレビ番組を録画したいと思う人」にとって、「VHSのビデオデッキ」も「ハードディスクレコーダー」も、「テレビ番組を録画するという、一定の使用価値として使用することができる商品」である。その一定の使用価値を、それぞれの商品が入れ替わり立ち替わり、その使用価値の使用者に実際に使用されることで、その使

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