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八朔の月に、希う

 遺骨を抱いていた。二十歳の夏だった。

 葬儀終了後、斎場前のだだっ広い駐車場にて「ちょっと一服してくる」とのセリフと共に父さんから手渡された骨壺はまだほのかに温かく、いやむしろ熱いくらいで、両腕にはずしりと応える重みがあった。 

 これが、骨になっちまった人間の重さか……。

 脳天に響かんばかりのセミのトレモロをBGMに、棺に入ったばあさんの新雪のように白い顔が曖昧模糊として脳裏に浮かび上がっては、またすぐに消えてゆく。

 父方の祖母、希。享年七十六。

 五十代の頃に旦那――今は亡き、僕にとってのじいさんと熟年離婚したばあさんは、家賃二万円のオンボロ団地にてホームヘルパーを雇いながら、雀の涙ほどの年金を頼りに長らく独居生活を送っていたらしい。

 正直なところ僕は、生前のばあさんについて何も知らない。無類の八朔好きで、よく口にしていたという記憶がうっすら、本当にうっすら残っているくらい。何せ最後に会ったのは小学校低学年であり、とどのつまり十数年もの間、まともに顔を合わせていなかったのだ。それはひとえに、ばあさんと折り合いが悪かった母さんの存在が大きく、盆暮れ正月などの帰省シーズンでさえ父さんの実家を訪れることは稀であった。

 ゆえに葬儀中、なんの感慨も、なんの感情も湧いてはこず、僕はただぼんやりと単調な読経を聴きながら、まだ三十代半ばと思しきソース顔住職のリズミカルな木魚さばきにじっと見惚れているだけだった。

「…………」

 入道雲が立ち昇る、途方もなく続く北奥羽の空の下。喪主の役目をまっとうし、斎場前の喫煙所にて紫煙を燻らせている父さんの頭上三十センチには「疲労困憊」の太文字が旋回している。一方、母さんはというとマイペースにもつい先ほど館内のお手洗いに向かったばかりであり、高校生の妹に至ってはもはやどこに行ってしまったのかもわからない。

 ばあさんの遺骨が入った骨壺を抱えながら、尋常ならざぬ熱波に晒されながら、きらきらと反射するアスファルトの上でぽつねんと立ち尽くし、たった一人待ちぼうけを食わされている僕は今、このシュールなシチュエーションが現実なのか、はたまた白昼夢的な何かなのか、どうにも判断がつきかねていた。

「リョウ」

 と、そのときのことだ。突として、背後数メートルから声がした。鼓膜を揺さぶったのは男性の、やや高めの嗄声。間違いなく父さんのものではない。

 遺骨のあまりの重さに耐えかね、今まさに骨壺を地べたに置こうと腰を屈めた罰当たりは、脊椎反射でもって瞬時に後方を振り返る。

「……あ」

「お疲れ」

 八月末日の太陽が、青年の身体を隅々まで照らし出している。

 視線の先にいたのは、一つ年上の従兄だった。父さんの妹の長男に当たる人物で、名前は聖二。

 中肉中背、浅黒く焼けた肌、てらてらと艶めく七三分けのツーブロック。のっぺりとした一筆書きチックな顔立ちは、いかにも叔父さん似、いやむしろ叔父さんそのものである。隣接する学区に住んでいるということもあり、彼とは一時期、毎週のように遊んでいた仲だった。

 まあしかし、それも大昔の話だ。小学校高学年を迎える頃にもなると、僕らはもうすっかり疎遠になってしまっていた。たまの休日、父さんが「聖二に会いに行くか」と手土産片手に声をかけてくることもあったが、僕は何かにつけてその誘いを断り続けた。

 無論、聖二との関係性に亀裂が生じていたわけではない。ただ、当時の僕にとって従兄の存在はさして重要ではなく、サッカー部の練習や、ポケモン収集や、モーニング娘。のなっちこと安倍なつみのグラビアページに想いを馳せることの方が遥かに大事で、意味のある行いに思えていたのだ。

「それ、俺にも持たせてくれよ」

 約十年ぶりに再会した従兄が、目の前で打ち笑んでいる。ミントタブレットを百粒まとめて噛み砕いたかのような清涼感溢れる笑みを浮かべている。

 聖二の言う「それ」とはつまり骨壷のことなのだろう。内気な性格ゆえ、親族控室や会食の場においても彼から徹底してソーシャル・ディスタンスを取っていた僕は派手に動揺。今さらどんな顔を向けたらいいものか、わからない。まるでわからない。

 一拍、二拍の間のあと、

「どうぞ……」

 喉の奥の奥から、やっとのこと絞り出した声。汗だくの顔面はおそらく、ひどく強張っていたことだろう。

 恐る恐る差し出した骨壺をひょいと受け取った聖二は「サンキュ」と軽薄につぶやき、

「ばあちゃん、意外と重たいんだなあ」

 と一言、感嘆の声を上げた。

○○○

 ばあさんの住んでいた団地からほど近い住宅街の裏通りに、コカ・コーラの真っ赤なホーロー看板が目印の駄菓子屋が存在する。

 正式名称を臼田商店と言う。もっとも、この呼び名はまったくと言っていいほど浸透しておらず、近隣の子どもたちは皆こぞってグッピーと呼んでいた。店主のヨーコおばちゃんが熱帯魚のグッピーを飼っていたことに由来しているらしいが、真相は不明である。

「ここ、懐かしいだろ」

「ああ……マジで懐かしい」

 ちょっと一緒に行きたい場所がある、と聖二がのたまったのは今からほんの数十分前の出来事。喫煙所から帰還した父さんに骨壺を預けたあと、聖二の運転する擦り傷だらけのミニバンに乗り、そして半ば強引に連れられた先が他でもない、ここ駄菓子屋グッピーであった。

 木造二階建ての一階部分を店舗スペースとして活用した、築五十年は下らないであろう、いかにもな店構えの駄菓子屋さん。所狭しと定番商品が並ぶ狭小かつ薄暗い店内には蚊取り線香と、埃と、プラスチック容器のフタを閉め忘れたスルメの強烈な匂いが充満している。僕らの他に来客の姿はない。

 思えば昔、ここには聖二と、そして彼と同じ町内に住む真帆ちゃんという女の子とよく連れ立って遊びにきていた。

 藤井真帆。尾道市は因島からの転校生で、確か僕と同い年だったはずだ。ぽっちゃり体型の食いしん坊真帆ちゃんは、いつもおっとりとした口調で、僕らトリオにおいてのいじられ役だったと記憶している。ビタミンカラーのカチューシャと菓子パンがいやに似合う、今で言う、ゆるキャラのような女の子だった。

 彼女、元気でやっているだろうか……。

 瞬く間に、言い知れぬノスタルジーが身体全体をすっぽりと包み込む。2ウィーク・コンタクトレンズ越しの瞳に、幼少期の記憶が4K解像度でもって色彩豊かに蘇る。

 ほどなくして店の奥ののれんがめくられたかと思うと「いらっしゃい」という張りのある声が空間にこだました。現れたのはペイズリー柄のエプロンを召した、いかにも温和な雰囲気を漂わせた女性だった。年にして六十代前半といったところだろうか。その細い腕の中には、丸々太った茶トラ猫が収まっている。

 彼女がヨーコおばちゃんだという事実に気づくまで、時は二秒とかからなかった。

 二言三言の他愛ないやり取りのあと、壁際に設えられたテーブル筐体のくたびれた椅子に腰を下ろす聖二が「実は小学生の頃、よくここに遊びにきてたんです」と打ち明け、

「俺、聖二っていうんですけど」

 縁なしメガネの奥に潜む、ちりめんじわに囲まれたヨーコおばちゃんの細目がカッと見開かれたのは直後のことだった。

「聖ちゃん? まさか池上さんちの、あの聖ちゃん?」

「はい」

 口角を上げ、トレードマークのすきっ歯を輝かせる聖二。

「んまあ! 懐かしい!」

「ちなみに、こいつは俺の従弟で――」

「リョウちゃん?」

「うわ、正解」

 思わず面食らう。

 ヨーコおばちゃんは奇跡的にも僕らのことを覚えてくれているようだった。少し訛りのあるイントネーションで「本当にしばらくぶりねえ」と漏らし、これでもかと顔を綻ばせていた。キューティクルの剥がれ落ちたショートヘアにはたくさんの白髪が混じり、それはいかにも年月の経過を思わせたが、時折見せるてらいのない表情はびっくりするくらい、あの頃と変わりない。

「俺たちのこと、覚えていてくれたんですね」

「忘れるわけないじゃない。二人とも、ずいぶん男前になっちゃって」

 ねえ、ロドリゲス、とヨーコおばちゃんが飼い猫に同意を求める。空気を読んだロドリゲスが控え目に「ミャア」と鳴く。

 今が葬儀帰りだという事情説明のあと、二転三転した話題はいつしか各々の近況報告にまでおよんでいた。

 埼玉の四年制大学に通っているということ。大学の友人連中とバンドを組んでいるということ。今が夏休みで、実家に帰省中だということ。僕のどうでもいいような話に聖二が続く。高卒で入社したガソリンスタンドを一年半で退職し、今春から地元の美容専門学校に通っているということ。美容師を目指しているということ。将来的には自分の店を持ちたいということ――。

 菩薩半跏像さながらに微笑むヨーコおばちゃんは、ただひたすら相づちに徹している。

 気づけば、従兄に対し抱いていた当初の緊張も、気まずさも、戸惑いも、今や不思議なくらいきれいさっぱり霧散し、形を失っていた。ヨーコおばちゃんしかり、聖二しかり、何も変わっちゃいない。見た目の変化こそ否めないが、各々の根底に息づく核となる部分はまったくもって昔のままだ。おそらくあのコも、真帆ちゃんもきっと、同じなのだろう。そうであってほしい。胸中で密やかに独りごちる。

 不意に、軒先に吊るされた金魚柄の江戸風鈴が、チリンと繊細な音を奏でた。開け放ったガラス戸をすうっと通り抜け、やがて僕たちの頬を優しく撫でた生温い風は、かすかに夏草の匂いがした。

○○○

 徐々に陽の傾き始めた田舎町に、ヒグラシの輪唱が響き渡っている。低速で流れる雲と雲の間に、どこまでも真っ直ぐな飛行機雲が伸びている。水泳バッグを背負った小麦肌の小学生グループが、視界の先を珍走団よろしく駆けてゆく。

 ヨーコおばちゃん、そしてロドリゲスに別れを告げた僕たちは今、徒歩圏内にあるコインパーキングを目指し、住宅街の裏通りを肩を並べて歩いている。

 昭和の香りを色濃く残す、この中途半端に寂れた通りはかつて、僕らがまだお互いに「ちゃん」づけで呼び合っていた時代に、それこそグッピーからの帰りによく歩いていた道だ。

「つき合ってくれてありがとな」

 午後五時過ぎ。左方五十センチをぴたりとつける聖二が、ソーダ味の棒アイスを頬張りながら低く呟く。

 お礼を言わなければならないのは、むしろこちらの方だ。ほんの数分前までの余韻と共に思い、しかし口に出そうとするよりもコンマ数秒速く、

「駐車場で、勇気出して声かけてよかったわ」

「勇気?」

「こう見えてビビリなんだよ、俺。あのとき、内心ガクブルだったぜ」

 うはは、と鷹揚に笑い、発色の良いバーをまた一口。

 親戚との再会に身構えていたのは、どうやら僕だけではなかったらしい。昔から社交スキルが高く、周囲に天真爛漫な印象を与えていた彼だけあって、その発言はただただ意外でしかなかった。愛おしさにも似た感情が、腹の底から一気にせり上がる。

 ほとんど無意識のうちに、己が唇は言葉を紡いでいた。

「聖二。おまえって、本っ当に良い奴だよな」

「おいおい、今さらかよ。専門じゃ聖人君子の聖二くんって呼ばれてるんだぜ?」

「聖人君子……略してセイシって呼んでいいか?」

「やめい!」

 そうこうしているうちに、前方に古めかしい神社が見えてきた。石造りの鳥居の下では竹ぼうきを手にした小柄な巫女さんが、せっせと掃き掃除の真っ最中である。ここまで来れば、コインパーキングはもう目と鼻の先だ。

「家まで送るよ」

 と聖二。

「ありがとう」

 と僕。

 本音を言えば、まだまだ一緒につるんでいたい。できることならばこのあと、想い出話を肴に酒の一杯や二杯、しっぽりと酌み交わしたい。思いつつ、それでいてどうにも弱気になってしまうのは、「飲みに行こう」の一言を紡ぎ出せずにいるのは、頭の片隅を「忌中」の二文字がかすめているからだ。

「なあ、聖二」

 喉の奥で跳ねる心臓。高速で回り続ける思考。

 やはり言わなければ、と思う。何せ大学の夏休みも残りあとわずか。否が応でも二週間後にはメゾン・ド・ミラクルハッピーなるキラキラネーム・アパートメントに戻らなければならず、あまつさえ聖二の通う美容専門学校は一足早く、明後日には新学期を迎えてしまう。

 ざわめく焦燥を胸に、あらん限りの決意と共に、しかし視線はじっと足元に落としながら、

「今晩、軽く飲みに行かないか?」

「え?」

「俺と……飲みに行ってくれないか?」

○○○

「――でな、ばあちゃんの奴、俺に思いっきりビンタしやがってよ! マジで龍虎乱舞お見舞いしてやろうかと思ったわ!」

 頬を真っ赤に上気させ、明太チーズだし巻き卵を口いっぱいに頬張る聖二はすこぶる上機嫌、もうすっかり酒に飲まれている。

 地元歓楽街の中ほどに佇む、軒先の赤提灯が眩しい大衆酒場、友垣。暖色系の照明が灯るアットホームな店内の一角、小上がりになった座敷席で向かい合う僕らは今、大いなる宴の最中にあった。

「ほんと生真面目っつーか、冗談の通じない女だったよ、希ちゃんは! うは! うはは!」

 身振り手振りを交え表情豊かに、エモーショナルな語り口でばあさんとのエピソードトークを披露するアメカジ男を心地よい浮遊感と共に見つめながら、僕は数時間前の自分自身を心密かに褒め称える。

 何せあのとき勇気を振り絞っていなければ、聖二を飲みに誘っていなければ、当たり前のことだが、今この瞬間は存在していないのだから。

 聖二は、僕の誘いを快く承諾してくれた。混じり気のない、くしゃっとした笑顔で「お、いいねえ! 飲もうか!」と言ってくれた。本当に、本当に、バカみたいに優しい奴なんだ、こいつは。

「つーか……」

 店舗入口の縄のれんを潜ってから早一時間。ほろ酔いの意識の中、僕にはここに来てからずっと気にかかっていることがあった。

「おまえ、さっきからちょいちょいケータイいじってるけど、アレか? もしやカノジョか? カノジョなのか?」

「ちげーよ」

 きっぱりと否定しつつ、しかしとろけきった一対の瞳は明々後日の方向を向いている。怪しい。僕は追及の手を緩めない。

「声が震えてるぞ」

「気のせいだって、気のせい」

「白状しろよ、ブラザー」

 二人の頭上に重く凝った沈黙が垂れ込めたのは直後のことだ。五秒か、六秒か。やがて睨め回すような視線に根負けした聖二が、やれやれと言わんばかりに苦笑し、

「実は……」

「おう」

「実はな、おまえに内緒で一人、スペシャルゲスト呼んでるんだわ」

 スペシャルゲスト? 僕はいささか食い気味に反応してしまう。 

 はてさて、いったいどこのどいつを呼んだというのだろう。訝しく尋ねるも、聖二は「これ以上の詮索はよせよ」とぶっきら棒に一言、折れ曲がったメンソールタバコを気だるげに吹かしながら、頑なにその正体を隠し続けた。

「もうすぐ着くらしい。ま、楽しみにしてろって」

「……了解」

 それからほどなく廁に立ち、つつがなく用を足した僕の頭の中は言わずもがな、スペシャルゲストとやらのことでいっぱいだった。

 ここだけの話、聖二が声をかけていそうな人物に、かなりしっかりとした目星はついていた。何せ僕らに共通する知人というのはパッと思いつく限り二人しかいない。一人は真帆ちゃんで、もう一人は楓ちゃんだ。

 記憶の中に生きる楓ちゃんはスラリと伸びた長身で、しっかり者で、なおかつ大人びた顔つきの正統派美人であった。小三の夏に隣県に引っ越してしまった彼女とはもうそれっきり会っていないけれど、きっと今も、当時と変わらぬ美貌を保ち続けているに違いない。

 真帆ちゃんか、はたまた楓ちゃんか。

 答えを導き出せぬまま廁をあとにする。気づけば千鳥足になっている。四方八方から響く酔っぱらいたちの陽気な声が、耳に心地いい。

「……ん?」

 やがて視界の先に座敷席が見えてきたときのこと、僕は思わず立ち止まった。聖二の隣に女性のシルエットを捉えたからだ。線が細く、所作がたおやかな赤文字系ファッションの彼女は、遠目にも上玉だということが理解できた。

 僕は確信する。あれは楓ちゃんだ。スペシャルゲストは楓ちゃんだったのだ。

 再び動作を再開した両足が一直線に座敷席を目指す。下ろし立てのシューズがコツコツと床を打つ。心は躍りに躍っている。楓ちゃんの奴、僕のことを覚えてくれているだろうか。

 はやる気持ちを抑え、至って平静を装いながら、

「お待たせ」

「ゲスト、もう来ちまったよ」

「悪い悪い」

 言いつつ、ここでようやく、まともに視線を上げる。

 僕の右斜め前で艶然と微笑む楓ちゃんは、それはもうド偉い美人に成長していた。肩口まで伸びた、艶めくショコラブラウンの髪。肌荒れ一つない、きめ細やかな肌。目鼻立ちの整った、エキゾチックな面立ち。どこを取っても完璧な彼女は、こんな片田舎の大衆酒場にあっては無論、場違いとしか言いようがなかった。

「もはや説明不要だろうけど、一応紹介するぞ?」

「お、おう」

 そして、聖二は言った。叫ぶように、がなるように、

「今夜のスペシャルゲストは!」

 藤井真帆ちゃんです――と。

○○○

 よく見るとパーツの一つ一つに、面影はしっかりと残っていた。

 笑うと浮かぶ右頬の片えくぼに、左目尻の泣きぼくろに、ふっくら丸みを帯びた広い額。確かに、確かに真帆ちゃんだ。おっとりとした話し方なんてまるで変わっちゃいない。しかしそれ以外の特徴、主に体型に関して言うと、もはやまったくの別人。たとえるならば和田アキ子と矢田亜希子くらいの振り幅があった。

「久しぶりだねえ」

「いやいや、本当に久しぶり。元気してた? っていうか、聖二といまだにつながってたってことに驚きだよ」

「えーっとね、高校が別々だったから疎遠になってた時期もあるんだけど、専門でまた一緒になって」

「マジで?」

「わたしも驚いたよ。高卒でガソリンスタンドに就職したって風の噂で聞いてたのに、この人、いつの間にか後輩になってるんだもん」

 先ほどから枝豆ばかりつまんでいる聖二が、いかにも二枚目風な表情でもって横から口を挟む。

「たった一度きりの人生、やりたいことやらなきゃなって、やりたくもない洗車作業中にふと気づいたんだよ」

「聖ちゃん、前は給油作業中って言ってなかった?」

「そうだったか? うはは!」

 豪快な笑い声が耳朶を震わせたのとほぼ同時、テーブルにビールが運ばれてきた。中ジョッキになみなみと注がれた、黄金色に輝く、泡立ちの良い生ビールが三つ。

 店員がいなくなったタイミングで、崩していた足を正座に整えた聖二が、

「そんじゃ、あらためて乾杯といきますか!」

「だな」

「うんうん!」

 今宵はまだまだ、これからだ。

「それでは、トリオの再会を祝して!」

 カンパーイ!

 三人の晴れやかな声が、キンキンに冷えたビールジョッキの触れ合う音が、まるでユニゾンのごとくきれいに重なり合い、店内の隅々にまで響き渡る――。

 それから僕らはワイワイガヤガヤと、時間も忘れておしゃべりに興じた。正直なところ話の内容なんて、今となってはからきし覚えていない。けれど、しゃべれどもしゃべれども、話題は尽きることがなかった。幼少時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥りながら、聖二に、真帆ちゃんに、そしてこの夜に感謝する。

 たっぷり三時間ほど飲み交わし、店を出る頃にもなると、外はもうすっかり深い闇に包まれていた。

「楽しかったあ」

「ほんと、昔に戻ったみたいだったよ」

 深夜十一時。僕らトリオは別れを惜しむかのように、店先でだらだらと駄弁り続けている。

 何気なく見上げた夜空には、大きな、大きな満月が一つ。そのあまりの妖艶さに目を奪われている僕の傍らで、真帆ちゃんが出し抜けに「わああ」と甲高い声を上げた。

「ねえ、あの月、八朔みたいじゃない?」

「八朔?」

「八朔、知らない? わたしの地元、因島の名産品なんだあ」

 もちろん、知っていた。何せ八朔は、ばあさんの大好物なのだ。

 もしかすると、ばあさんは今、あの月から僕らのことを見下ろしているのかもしれない。

 突拍子もないメルヘンに浸りつつ、いたずらに聖二を見やると、奴もまた頭上を見上げていた。何を考えているのかはさっぱりわからない。彼の真っ直ぐ過ぎる眼差しの向こうに、果たしてばあさんの姿は映っているのだろうか。

 再び夜空に視線を転じる。胸を反らす。丹田まで深々と息を吸い込み、そして僕は八朔の月に、希う。三人の縁がこの先十年、二十年と続きますように、と。

「来年の夏もまた、このメンツで飲めたらいいな」

 あまりにも自然に口を衝いて出た言葉は、本心以外の何ものでもなかった。

 僕のつぶやきに、間髪入れずに二人が続く。

「飲めたらいいな、じゃなくて、飲もうぜ。なあ、真帆?」

「もちろん! なんなら今からスケジュール空けとくし!」

「うはは、さすがに気が早過ぎるって」

「だってだって! すっごく楽しみなんだもん!」

 首筋をかすめる涼やかな夜風が、夏の終わりを報せている。

 眩いばかりの月明かりの下。安っぽいネオンサイン煌めく歓楽街に、僕たちの賑々しい声がいつまでも響き続けていた。

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