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1日1とーん

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書くことを忘れないためのつぶやき集
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2019年2月の記事一覧

自分の尊敬している人について、その人と間接的にしか接したことがない人から、上から目線で貶める発言を他意なくされ、全然関係ないのにものすごくストレスを感じている。その意味で、とりわけ"噂由来の上から目線の貶め発言"なんて、するもんじゃないな、と、綺麗事でなく思っている。

昨日あんなことを言ったけれど、そうは言っても、何かが終わって解放されたのに、達成感と喪失感でなにも手に付かなくなった瞬間(というにはあまりにも長い)も確かにあった。その瞬間を知っていることも、きっととても幸せなんだと思う。

頭のなかや時間をずっと拘束していた何かから解放された瞬間は、それが達成であれ諦めであれ、世の中が楽しいことだらけに見える。本当は世の中楽しいことだらけなんだって、その瞬間は気付ける自分でいたい。

「お父さんはこの歳になってもちゃんと言葉に出して感謝してくれるのが本当に偉い」と母が言う。歳を取るにつれて仲が良くなる両親が娘からすると誇らしいが、感謝の言葉ひとつで関係がよくなるのなら、当たり前のことこそちゃんと感謝して、かつ言葉にして伝えないとなぁと思う。

最近は孫悟空じゃなくて、ルフィみたいなリーダーじゃないと、下が付いてこないと思うんだよねぇ、というリーダーの言葉にハッとさせられた週半ば。周りをいかに巻き込めるかって、自分がぐいぐい引っ張るよりも難しいかも。

金を使って楽してもいいんだ、というのが、東京で働いて学んだ価値観のひとつ。家まで来てくれるクリーニングからコンビニで受け取れるミールキット、ベビーシッターに至るまで、正当に対価を払って生きるために頼ってもいいんだ、というのは、地元ではあんまりなかった考え方で、結構救われている。

自分がいま置かれた環境で自分なりの「できること」が増えるほど、自分の現時点における限界も見えてしまう。というわけで、それこそ何か得ようという欲求の基になるわけだけれど、限界→→→欲求までのスパンを短くしたいなぁ、と思う今日この頃。

わたしは多分、過去からの文脈にいまが規定されているという考え方がとても好きなんだと思う。それは自分自身についてであっても、いわゆる「社会」や空間の履歴についてであっても。未来を独創的な発想で語る能がないぶん、過去を参照(≠踏襲)する楽しみを知っているのかもしれない。

早く帰れた仕事帰り、プレゼントを買いに煌びやかな銀座の街並みを歩いた。渋谷や原宿で居心地悪さしか感じない学生時代を過ごした私も、人並みにOLに擬態できてるじゃん、というくすぐったさと、大勢に迎合するなんて面白くない、と思っていた自分が遠ざかったような気がして、少しの寂しさと。

自分の求められる立場通りの振る舞いをしてしまってなかなか本音を語れないの、勿体無い気がしてきた。いつまでもそれじゃだめだけど、「空気を読まず」にーそれはあくまで空気を読んだ上でということだけれどー勢いが上回って行動できることがあっても、まだ許される年齢じゃないかなと思ってみる。

国内旅行のときは、旅先に縁のある小説の文庫を現地の本屋で1冊買うのがちょっとしたマイブーム。集団行動のときはできず、なかなかコレクションは増えないけれど、知ってる地名が出てくると、その地に辿り着いた道程の追体験が重なって、別の文脈で語られる思い出ができる気がしている。

街のなかの音って、音量/音圧感や言葉や、人工/自然といった音の質までひっくるめて、その街のカラーを反映してると思う。わたしにとってイヤホンをして歩くときは、あくまでも内面に閉じ籠りたいときであって、ほんとうは街の音を聴いていたいなと思うのだ、とくに初めての場所を歩くときには。

どこかに力を入れているときは、力を抜いているところを探すのも楽しいですよ、と言われて、自分が何においても脱力することが苦手なんだなぁと気づかされる。身体を動かすときも、演奏するときも、普段の生活だって、脱力を楽しめるような大人になりたいなぁ。

継続は力なり、と言うが、やめる、という決断は、継続するよりも実は難しいと思う。自分がそれまで時間、場合によってはお金を投資してきたことや、それまで築いてきた他者との関係性を考慮すると、惰性をそのままにしない、という選択肢を取ることは、私にとっては物凄く勇気のいることだ