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キリストと生きる日常について (散文)

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ただイエス・キリストと生きているわたしの日々を、誠実に、飾ることなく、じぶんの言葉で書くことが出来たなら。
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記事一覧

しなやかに、

しなやかに、



 朝から降りだした雨は、もう嵐となり果てていた。しずかな湖とみまごう相模湾は、そんなときでも波は高くない。「割れて砕けて裂けて散るかも」なんてふうになることはほとんどなくって、実朝はどこで詠んだのかしら、とふしぎに思う。

 (太宰治の「右大臣実朝」は、三浦岬に行ったときだと言う。確かにあそこは波が高い)

 助手席で夫が眠っている。ほんとうは出来るだけ、助手席には乗りたくないらしい。だって怖

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はるかに大きな、 大きな

はるかに大きな、 大きな



 「あなたはわたしに 
悪事を企みましたが、 
神はそれを善に 
変えてくださいました。」

 ヨセフはそう言った。じぶんに嫉妬し、憎しんで、挙げ句の果てに奴隷商人に売り飛ばした、みずからの血肉、血の繋がった兄弟たちに。

 -あなたがわたしを憎んで、苦しめてやろうとしたことを、神さまは良い結果のために
用いてくださったのです。わたしが売り飛ばされたおかげで、多くの民の命が救われました。

 

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All is well

All is well

 いつの頃からだろうか。どんな愚痴を牧師に宛てて書いても、「All is well」としか返ってこないようになった。

 牧師に愚痴を言うなんて、ですって?

 そう、わたしも愚痴という形で書いていたわけではない。でも「何々について祈ってくださいますか」と言いながら、クリスチャンは愚痴を語りがちなのだ。

 祈りのリクエストという名の愚痴、またはゴシップ、それから自慢話。

 All is wel

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ちいさな証し

ちいさな証し



 どんなにちいさくとも、神さまのしてくださったことには、感謝して、証しをしなさいと、いつか誰かの言葉を思いだしながら書いてみる。

 じぶんのことばかり語りたくない、と最近思う。語りたいのは、キリストのことだけ。言葉が表面的にならないように、じぶんが生きて、体験したことばを書きたい。けれどすべての行き着く先がキリストでなくては、書くことなど虚しい、とコヘレトの書みたいに思う。

 だからいまか

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メアリが信じていたもの

メアリが信じていたもの



 「神を信じる人と、頭のおかしい人との違いは紙一重だ」

 そうナイジェリア人のKさんの台詞を訳し終えたとたんに、背後からくすくす笑いがした。分かってる、これは中国人のFさんだ。元の英語では誰も笑わなかったのだから、わたしの訳が飛んでいたのだろう。意訳と誤訳の違いだって紙一重だ、とこのハチャメチャな通訳は思う。
 
 でも確かにそうだ、と思う。おかしいかもしれない、と思ったことはある。この前、

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根をたしかに持つこと

根をたしかに持つこと

 新年早々、根こそぎになったビルの映像を見た。あっけなくぺっしゃんと潰れた瓦屋根の家々、何百年も続く家並みや文化財。

 過ぎた年だって、思い返してみれば。六月、ウクライナで反転攻勢がはじまり、朝ごとに進捗を確かめた。戦争の終わりにつながるような戦果は、結局なかった。いまに至るまで、まるで第一次世界大戦のような、泥沼の塹壕戦がつづいている。

 そしてイスラエルの戦争。これはウクライナのように、分

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ウェディングドレスに スニーカーを履いて

ウェディングドレスに スニーカーを履いて



 あるとき夢をみた。夢のなかで、わたしはアンティークの美しいウェディングドレスを着て、とてもハンサムなひとと祭壇の前に立っていた。そのひとの顔はすこし夫に似ていたけれど、それがイエス・キリストであることは、言われずとも分かっていた。

 まっしろなレースが、エドワード朝みたいなハイネックの首を覆っていて、裳裾はうしろに長く広がっている。優雅な、うつくしいドレスだった。わたしが何年もまえに、じ

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ホフクゼンシンで進みながら -ホームスクーリングで幼児を育てながら、本を書いている母の記-

ホフクゼンシンで進みながら -ホームスクーリングで幼児を育てながら、本を書いている母の記-

 十月、クリスチャンのホームスクーリング団体、ちあにっぽんのコンベンションに行ってきた。

 ちあにっぽんは、もう二十年ほどの歴史がある、日本にホームスクーリングを根付かせるために大きな働きをしてこられた団体である。わたしも、幼なじみである夫も、子どもの頃に、ちあにっぽんのキャンプで楽しく遊んでもらった。

 すばらしいコンベンションだった。子どもとしてではなく、親として行った初めての、ちあにっぽ

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月明かりと この世の終わりと

月明かりと この世の終わりと

 夜なかに起きると、窓のそとになにか白いものと木の影とが、ぽわぽわと見えていた。

 なんでこんなに明るいんだろう、とふしぎに思いつも、裸眼だから、すべて世界はぼんやりとしている。

 ベランダに出てみようかなあ、でも眠いしなあ、それにもう寒いからなあ、と思って、その日は寝た。

 次の晩も、満月だった。

 ふたたび目が覚めて、トイレに立つと、窓のふちで、なにかがしろく輝いていた。

 月光を浴

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あなたはすべて 

あなたはすべて 

 「ぼく、忘れっぽいんだよねえ」

 と、最近四歳児が言うようになった。そのたびに、いいえ、あなたは忘れっぽくなんかありません、あなたはとても記憶力が良いじゃない、と否定しているけれど、たしかにそうなのだ。

 たしかに、人間は忘れっぽい。

 たくさんのことを、主から教わってきた。教わるたびに、文章を書いた。わたしのnoteは、主がわたしの人生にふれてくださった経験で出来ている。頭だけの知識は書

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仮庵の季節に

仮庵の季節に

 たくさんの命が失われた、ことしの仮庵の祭り。わたしも、うつくしいひとを失った。

 スコットともよばれる仮庵の祭りは、七日間続く。エジプトから荒野へと、神はイスラエルの民を連れ出して、ともに天幕のなかに宿られた。祭りの期間のあいだ、ひとびとはテラスや庭に仮小屋を作って、そこに寝泊まりする。これは喜びの祭りである。七日間、喜び祝うようにと、聖書は命じている。

 ことし、わが家で作った仮庵はこんな

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二世ではなくて

二世ではなくて

 宗教二世ということばが、世間を騒がせた。

 問題自体は、今に始まった話ではない。思い出すのは、司馬遼太郎の「ひとびとの足音」である。正岡子規の養子、忠三郎の実母が、まあなんというか毒親で、宗教で子どもたちの人生を害した。それは天理教だったけれど、どこでだってあり得る話だ。

 人間が頭だの感情だの、心以外の場所で神を捉えるとき、宗教が生まれる。

 わたしはクリスチャン二世と言うのだろう。父方

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もういちど、 井深八重さんのこと

もういちど、 井深八重さんのこと



 曾祖父の従姉妹に当たる、井深八重については、noteを始めたばかりのころに書いたことがある。ふしぎな経緯で、彼女の働いていたハンセン病療養所を訪れたときのはなしを、その生涯と合わせて書いた。

 八重さんのことは、ずっと祖母や伯父から聞かされていて、本もいろいろ読んでいた。親戚の偉いひととして。あの記事を書いたときのわたしに、八重さんの心情がどれだけ分かっていたかといえば、どうだろう。あれは

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みこころならば もう一年

みこころならば もう一年

 「友のために命を捨てる、それ以上に大きな愛はない。わたしはあなたを友と呼ぶ」

 ラブレターみたい、と思った。キリストのことば。倒置法で語っているのが、なんだか愛おしい。

 「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたの内にいつもあるなら、望むものを何でも願いなさい。そうすれば叶えられる」

 深夜、虫に起こされた。何だったのだろう、たぶん蜘蛛か何か。足に何かがポンと乗る感触がした。

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