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本能寺の変1582 第22話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第22話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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重要 ◎目次 

永禄九年1566、春。

細川藤孝は、尾張にいた。

 藤孝は、和田惟政と一緒だった。
 「参洛の事」
 上洛について、信長と交渉を進めていた。
 「誓紙」、とある。
 最終段階に入っていた。

信長に対する、義昭の期待は大きかった。

 同年、四月。
 義昭は、近江矢島にいた(滋賀県守山市矢島町)。
 以下は、尾張の藤孝・惟政へ送った書状である。
 「何時比、参洛候哉」
 
「帰参、待ち入り候」
 期待は、膨らむばかり。
 吉報を待っていた。

  長々在国、辛労に候、
  信長参洛の事、別儀なきの由、喜び入り候、

 
 然れば、治定(決定)、何時比(いつころ)、参洛候哉、
  能々(よくよく)、相究め、信長誓紙申し調(ととの)へ、
  帰参、待ち入り候、

 長引くようであれば、一人でもいいから、先ず、帰って様子を報告
 するように。

  由断ある間敷く候へども、若し相延ぶ候はゞ、
  一人なりとも、先ず其方の様躰、
  上国せしめ、言上肝要に候なり、
                      (義秋)
     卯月十八日、           (花押)

 
 (宛名ウハ書)
  「(墨引)
           細川兵部大輔とのへ 
           和田伊賀守とのへ  」
                         (「和田家文書」)

藤孝は、信長に入れ込んだ。

 生年も同じ。
 波長も合う。
 勢いがあった。
 だが、やはり、信長自身の姿勢がそうさせたのだろう。
 その時までは、・・・・・。

結果、義昭の家中に二つ流れが生じた。

 すなわち、斯くの如し。

 一、越後の上杉。
   名家、名門。
   大覚寺義俊がこれを推した。
   謂わば、保守派。

 一、尾張の織田。
   成り上がりの俄か大名
   これには、細川藤孝・和田惟政。
   となれば、こちらは革新派となる。

 家中に、微妙な空気が流れ始めた。

藤孝は、尾張に踏みとどまった。

 同年、六月。
 藤孝は、信長のもとを離れず。
 交渉は、「詰めの段階」に入っていた。

ところが、状況が変わった。

 藤孝は、急いでいた。
 義昭へ、和田惟政を再派するよう要請した。
 以下は、義昭が和田惟政に送った書状である。
 これだけでは、まだ、よくわからない。      

  尾州より、兵部大輔申し上げ候、

  早々、惟政、罷り下るべくの由、申し候間、
  明日にも、小者一人にてなりとも、罷り下るべき事、頼み入り候、

長引くのには、理由があった。

 信長は、迷っていた。
 何事かを言ったらしい。

  尾張守(信長)申すに付き、

 上洛の事。
 必ず、成し遂げねばならぬ。
 とにかく、尾張へ急げ。

  子細の由候へども、
  我々、此の分、申し付くる由にて、
  早々、先々、尾州へ下国の事肝要に候、

  急度、織田参洛候様、馳走、此の節に候、

義昭は、不安だった。

 断られれば、すべてが水泡に帰す。
 義昭は、必死だった。

  存じ申し上げ候如く、方々調略の子細候間、連々候ては如何候旨、
  如何様にも、出勢の事、急ぎ申し度く候、

  呉々、先々、明日にも下国頼み入り候、
  かしく、
                      (義秋)
     六月十一日、           (花押)

  (宛名ウハ書)
  「
              和田伊賀守とのへ 」

                         (「和田家文書」)



 ⇒ 次へつづく  第23話 5藤孝との出会い 2上洛不発


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