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【長編小説】 異端児ヴィンス

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北米のパリ、モントリオールで〝私〟が出会った〝偉大なる酔っぱらい〟。故郷と異国の都会の狭間で鬱屈した想いをもてあます〝私〟に最も影響を与えたのは、毎夜バーで大演説を繰り広げる謎の… もっと読む
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記事一覧

【長編小説】 異端児ヴィンス 1

【長編小説】 異端児ヴィンス 1

 その秋口のひと月というもの、私の中で世界は膨張したり収縮したりを繰り返していた。それはまるで失敗したシフォンケーキのように、順調に膨らんだかと思えばあともう少しというところでいきなりてっぺんが裂けて、ぺちゃんこになったりするのだった。理解不能な人たちのあいだで、私はともすれば失いそうになる自分自身の存在と立ち位置とを何とか確保しようとして、躍起になっていたような気がする。
 そのころの、私と周囲

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【長編小説】 異端児ヴィンス 2

【長編小説】 異端児ヴィンス 2

 その日私は、テオとどうしても折り合えない状況に陥って、いつものようにアパートを出奔し、ひとりでこのビア・パブに避難してきていた。Dieu du Ciel !《デュー・デュ・シエル》――天の神様!――という魅惑的な名を冠したこのパブは、ミクロ・ブルワリー、つまり地域の小規模な醸造所がそこで作ったオリジナルビールを出す店として有名だった。中でも人気なのは大麻を原料として作られたヘンプ・ビール。勿論違

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【長編小説】 異端児ヴィンス 3

【長編小説】 異端児ヴィンス 3

 「……両親のことを気にかけてるなんて言っている間はさ、君、結局誰も自立できていないってことなんだよ」
 トバイアスは言った。サンドラが帰った後、入れ替わるように彼女のいた席に座った彼は、大きな目を充血させながら、一杯目のエールを飲んでいた。
 褐色の細面の顔に、きつい天然パーマの髪を短く刈り込んだトバイアスはカリブ海に浮かぶ島国、トリニダード・トバゴ出身の26歳。モントリオールに来てまだ3ヶ月と

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【長編小説】 異端児ヴィンス 4

【長編小説】 異端児ヴィンス 4

 ラテン系の美女は、ヴィンスを残して帰っていった。彼女の席が空き、またちょうどそのとき満席だった我々のテーブルに常連のひとりであるアンソニーが近づいてきたので、私は彼に席を譲り、カウンターのヴィンスの隣に移動した。
「今夜はすごい美人を口説いてたじゃない」
 私は声をかけた。ちょうど一杯目を飲み終わったところでパトリックに向かって二杯目を注文していたヴィンスは、フゥ~ンと長く酒臭い息を漏らした。

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【長編小説】 異端児ヴィンス 5

【長編小説】 異端児ヴィンス 5

 その時のもの哀しい気持ちが、目が覚めてからも胃の腑の底にへばりつくように重苦しく私を支配していたのだった。
 テオは私の憂鬱症に辟易している、そう考えながら歯を磨いた。顔を洗って少ししゃっきりする。でも鏡の中に見えるのは、血の巡りの悪い、緑っぽい冴えない顔だった。
 試みに微笑みを作ってみる。そうすれば、私の顔もそこまでひどくはない。きちんと化粧をすれば、ウェイトレスとして働くに当たって何とか客

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【長編小説】 異端児ヴィンス 6

【長編小説】 異端児ヴィンス 6

 その時期は、まさに焦燥が私の人生を突き動かしていた。まるで、私という容れ物を飛び出し、焦燥そのものが主体となって前へ前へ進もうとしているかのようだった。何かに追われるように私は走り、何かから隠れようとするかのように、突然息をひそめた。誰かに自分のプライベートな領域に侵入してこられるような感じがいつもしていて、かと言って助けを呼ぶこともできないのだ。もし助けを呼ぶにしても、相手はいつも、「どうして

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【長編小説】 異端児ヴィンス 7

【長編小説】 異端児ヴィンス 7

 冬が近づいていた。
 私は買い物に行くために、モン・ロワイヤル通りをひとりで歩いていた。日曜日の昼下がりは、日増しに下がりゆく気温をものともせぬ人々で賑わっていた。夏の間だけ開いているアイスクリーム屋はとっくに看板を出して、「来年の夏までさようなら!」と賑やかに閉店を謳っていた。本屋で雑誌の立ち読みをする若い女性、重厚な石造りのコミュニティ・センターに出入りする人々、その二階の図書館からゾロゾロ

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【長編小説】 異端児ヴィンス 8

【長編小説】 異端児ヴィンス 8

 ――「どうして? 逃避することが悪いことだとは思わないけど……。誰だって根は怠惰だし、時には辛い現実から目を背けて休憩することも必要だよ。それに……」
「やめて。わかってる。そんなこと、わかりきってるじゃないの、レイ。あなたは独創的な人だと思っていたから、何か斬新なことを言ってくれるんじゃないかと期待していたの。なのにあなたが、そんなありふれた、オウムみたいに誰もが口を揃えて言ってるような意見を

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【長編小説】 異端児ヴィンス 9

【長編小説】 異端児ヴィンス 9

 その生粋のケベコワーズの少女は、モントリオール近郊に住んでいた。モントリオール近郊といっても、正確にどこだかは知らない。ただ彼女が市内のダウンタウンで週に一回行われる日本語とフランス語のエクスチェンジ会に頻繁に参加していたことと、家を訪ねた時に車で走った距離感からして、そう遠くはない、モントリオール市周辺に位置するいずれかの町だろうと推測できるのみだった。
 モントリオールの周囲には、ラヴァル、

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【長編小説】 異端児ヴィンス 10

【長編小説】 異端児ヴィンス 10

 危機はある日突然やってきた。
 その朝目覚めた時、私はもはやテオに対しては、語るべきことが何も残っていないことに気づいた。
 その日は平日で、彼はいつものように先に起きてひとりでピーナッツ・バタートーストとコーヒーの朝食を済ませ、クリーニングから帰って来たてのスーツに袖を通してネクタイを結んでいた。
 私はノロノロとした動作で寝室から出ていった。いつものように、彼におはようを言うために。
「Bo

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【長編小説】 異端児ヴィンス 11 

【長編小説】 異端児ヴィンス 11 

 表に出るともう夕暮れどきで、真冬の寒波が街を覆っていた。
 カナダ東部の冬は厳しい。モントリオールは、セント・ローレンス川に浮かぶ島の上に建設された街であるので周囲を水に囲まれ、その湿気のせいで骨身に沁みるような独特の寒さがある。雪が降っていない日は、なおさらだった。
 路上に降り立った私は、これまで生きてきた中で一番の孤独を感じていた。その孤独はこのしんしんとした寒さに増幅されて、一瞬目眩を覚

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【長編小説】 異端児ヴィンス 12

【長編小説】 異端児ヴィンス 12

 週末は、いつも独りで過ごした。私は本を読み、借りてきたDVDを観、そして今週一週間を振り返るための長い日記を書いた。その週に行ったこと、人に話したことや逆に人から聞いた話、そして心の中で考えたことや感じたことを、できる限り全部余すところなく書き出すことにのみ注力した。これはなかなか時間と集中を要する作業で、しかしやり出すとどんどん楽しくなってきて止まらなくなった。私は土曜の夜から日曜日にかけては

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【長編小説】 異端児ヴィンス 13 最終回

【長編小説】 異端児ヴィンス 13 最終回

 とうとうモントリオールにいる間、テオから電話がかかってくることはなく、また、偶然にどこかでヴィンスを見かけるということも起こらなかった。日記を始めてから一年四ヶ月ののち、私は居を移す決心を固めた。例の日本人、自分と同じルーツを持つ日本生まれの日本育ちの御仁が、もし興味があれば、僕の故郷を訪ねてみないかと誘ってくれたのだった。その頃になると、私もそろそろ生活を変えようという気になっていたし、それに

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