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本能寺の変1582 第183話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第183話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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信長は、その裏を掻いた。

 おそらく、信長は、軍議を開いた。
 「賀・越両国へ攻め入るについて」
 諸将の攻め口を確認した。

「阿吽の呼吸」

 それにしても、手際がいい。
 いや、良すぎる。
 信長が到着した時、すでに準備は出来上がっていた。
 何もかも。
 「阿吽の呼吸」
 信長にとって、これは有り難い。

光秀は、信長のすぐ側にいた。

 斯くして、三度目の戦いが始まった。
 光秀は、越前作戦の最初から最後まで、深く関わっていた。
 信長の側近兼相談相手のような立ち位置にいたのではなかろうか。
 すなわち、常に、信長の側にいて、中心的な役割を果たした。
 この戦いにおいても、それは同じ。
 何とも、凄まじい働きを見せている。
 正に、「家臣の鑑」。
 信長の意図するところ。
 手本であった。

光秀は、重宝な存在だった。

 繰り返す。
 光秀は、洞察力に優れていた。
 光秀は、信長が考えていることをよくわかっていた。
 信長にとっては、きわめて、使い勝手の良い、重宝(ちょうほう)な存在だ
 ったのである。

信長は、光秀と秀吉を見事に使いこなした。

 そして、もう一人。
 それが、羽柴秀吉。

 二人は、同位。
 上下の差は、ない。
 有るのは、年齢差。
 そして、家臣になった時期
 光秀は、新参者。
 秀吉は、天文末頃から。

◎「重用すれども、心許さず」

 信長は、猜疑心の強い男。
 全幅の信頼を置くことなど、有り得ない。
 「重用すれども、心許さず」
 もっと、ストレートに言えば、
 「利用すれども、信用せず」、なのである。

 時は、戦国。
 骨肉、相食む時代。
 このこと、忘るべからず、である。

 ここが重要ポイント!!
  要注意ヶ所!! 

 だが、しかし、である、・・・・・。
 光秀は、その様な信長の心の奥深くに、次第に、入り込んで
 行く、・・・・・。
 秀吉、また、然り、・・・・・。

織田の大軍勢が越前へ雪崩れ込んだ。

この中に、光秀もいた。

 同十五日。
 信長は、攻撃を開始した。
 「以ての外の風雨」
 時節である。
 台風だろうか。
 
  八月十五日、以ての外の風雨に侯と雖も、
  先兵、悉(ことごと)く、打ち出だされ、


 織田の大軍勢が越前へ雪崩れ込んだ。
 その数、「三万余騎」と云う。
 
   越前牢人衆を先陣と為し、
  前波九郎兵衛(吉継)父子*・富田弥六(長繁)*・毛屋猪介、
 
  佐久間右衛門・柴田修理亮・滝川左近・
  羽柴筑前守(秀吉)・惟任日向守(光秀)・惟住五郎左衛門・別規右近・
  長岡兵部大輔(藤孝)・原田備中(直政)・蜂屋兵庫・荒木摂津守(村重)・
  稲葉伊予・稲葉彦六・氏家左京助・伊賀伊賀守・
  磯野丹波・阿閉淡賂守・阿閉孫五郎・不破河内・不破彦三・
  武藤宗右衛門・
  神戸三七信孝・津田七兵衛信澄・織田上野守・北畠中納言・同伊勢衆、
  初めとして、三万余騎、

 
  其の手々々々を争ひ、だいらこ(大良越え)へ、諸口より、御乱入。
 
 この中に、光秀の姿もあった。
 秀吉もいる。
 細川藤孝・荒木村重もいた。
 但し、村重は怪しい。
 これについては、後述する。
 また、畿内からは、原田直政が参陣していた。
 なお、『信長公記』には記されていないが、大和から、筒井順慶もこれに
 加わっていた(「多聞院日記」)。
 
 若狭・丹後の軍勢は、日本海を北上して、海上から攻め入った。
 
  海上を働く人数。

  粟屋越中・逸見駿河・粟屋弥四郎・内藤筑前・熊谷伝左衛門・
  山県下野守・白井・松宮・寺井・香川・畑田。
 
  丹後より働くの衆。
  一色殿、矢野、大島、桜井。
 
  数百艘、相催し、幡首(はたがしら)打ち立て々々々々、
  浦々・湊々へ上り、所々に烟を挙げられ侯。
                       
                          (『信長公記』)
 
  **前波吉継と富田長繁については、太田牛一の誤りである。
    両人とも、前年、争乱の内に死去している。



 ⇒ 次へつづく 第184話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛  


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