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これから本が届くということ。
いつも投稿があるたびに、期待と憧れいっぱいでページを開く原正樹さんのnoteで、ウィリアム・トレヴァ―というアイルランド人作家の『ラスト・ストーリーズ』という本の書評を拝読した。
書評の内容の素晴らしさは、原さんのnoteそのものを読んでいただくとして(どうしてこんなにいつも、包括的なのに本質的な言語表現ができるのだろう)、じつは私は、その内容の深い洞察に行きつくまえの、この部分を読んだとき、す
遺さないという愛ー「君たちはどう生きるか」の主観的感想にかえて。
言葉にしなければ、しないだけ、
言葉は錆びつき、記憶は薄れていく。
やっと二月に公開されて、先日観にいった「君たちはどう生きるか」。
感動はすこしも薄れていないのに、
時間は恐ろしいほどの勢いで記憶をこそぎ取っていく。
だから今、どんなに言葉足らずでも、ここに記そうと思う。
先立って、ある古いYoutubeを見た。
その中で宮崎駿さんが言っていたことのひとつの答えが、
「君たちはどう生きるか
【解決編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。
おはようございます。
だいぶ前に、散歩がまったくできない自分を嘆いて、
「散歩がつまらないという自分が一番つまらない」
という記事を書きました。
やはり、アウトプットというのはアンテナを張るという意味もあったのか(蜂蜜をたっぷり塗った割り箸を二本、鉢巻きにさして歩きだしたら、蜂や蝶が見つけてくれる感じでしょうか)、その記事をあげたほんの2,3日以内に、「おおっ!」と気づきのきっかけが向こうから
娘と『不適切にもほどがある!』を観る。
長女と、宮藤官九郎脚本ドラマ『不適切にもほどがある』を観ている。
16歳になる長女は南欧生まれの南欧育ち。
小学生の頃に数回だけ、夏休みに合わせて日本に帰国し、7月の日本の小学校に数週間在籍させてもらったことはあったが、実際の日本社会で長く暮らしたこともなく、ましてや80年代の空気を体験したはずもなく。
果たしてこの世代間タイムスリップ・ドラマの、さらに国境越え・親子鑑賞は、そもそも成り立つのか
『年の残り』 丸谷才一著 1968年
一昨日、ようやくこちらで封切になった映画『君たちはどう生きるか』を観ることができた。
あんまり感動してそれ以来、口を開けば
「すごかった……」
「ほんとうにすごかった……」
しか出てこない自分の言語能力(の乏しさ)がほとほと嫌になったので、同じく人生で、おそらく同レベルの感動をうけ、未だその位置を維持している、映画とはまるでつながりのない小説の話をしようと思う。
このふたつの類まれなる物語の間に
【分析編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。
上のNoteを書いてから時間が空いてしまいましたが、その間もけっこう「散歩」について考えていました。
やっぱり、アウトプットすることの一番のメリットは、自分がテーマに対してアンテナを張れること。
ということで、なぜ自分が散歩が苦手なのか、考えられる理由をランダムに挙げます。
【生産性が感じられない】
この期に及んで「生産性」とは……。
書いてて恥ずかしいです。
散歩の醍醐味を知っている方からす
私の失われた時を求めて
プルーストのお仕置きならぬ、プルーストとの対話を黙々と続けております。
毎朝、子どもたち、主人、犬の順で朝食の準備をし、その後片付けをし、部屋を掃除し、洗濯を干し、午前九時から始まる授業の準備を整えると、ひとりそそくさと居間の一角に戻ってきて、さあプルースト。
好きなんかい?!と聞かれますとそう一筋縄で答えられるものでもないのですが、はい、なんといいますか、確実に沼ですね。
はまっています。
プルーストか、プルースト以外か。
「今世で読むべきか、読まざるべきか」と、実は10代から悩んできた本がある。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」である。
そんな大げさに今世をかけて悩むぐらいなら、さっさと手にとってしまえばよかったものを、一旦手にとればそのまま10年ぐらい他の本が読めなくなりそうな切なさに、若い頃は克てないままに、うじうじと来てしまった。
結果、マドレーヌの香りから邂逅するシーンや、見出された時の下りなど