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本能寺の変1582 第190話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第190話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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信長は、諸将を豊原に呼び集めた。

 同二十九日。
 今後の展開について。
 「次」
 信長は、策を練っていた。
 各所に散開している諸将を豊原に呼び寄せた。

 以下は、滝川一益に送った黒印状である(①~④)。
 この書状は、何故か細川家に伝えられた。
 どの様な経緯(いきさつ)があったのだろうか。

 ①一益は、一揆勢を追撃していた。
  所在地は、わからない。
  越前の内と思われる。
 
     尚々、走り入り候者ども、悉(ことごと)く、くひ(首)を切る由、
     然るべく候、

 ②台風が襲来した様子である。
  「洪水」、とある。
  九頭竜川水系だろうか。
  作戦行動は、このような状況下で行われていた。
 
   委細、披見候、
   仍って、一昨日は、洪水により、相動(はたら)かざるの由、
   其の意を得候、

 ③信長は、越前を根本からつくり変えようとしていた。
  「猶々、念を入れ」
  掃討は、まだ終わっていなかったのである。
 
   漸(ようや)く、水も干し落つべく候間、
   猶々、念を入れ、残らず打ち果すべき事、専一に候、

 
  ④信長は、滝川一益に、次の作戦を説明するから豊原に来るよう命じた。
 
   左候て、隙明き候はゞ、此の表へ罷り越すべく候、
   さきざき手遣いの様子、申し聞かすべく候、
   先書に申し遣わす如く、昨日豊原に着陣候、
   其の意を成すべく候、
   謹言、
    (天正三年)
     八月廿九日          信長(黒印)
       瀧川左近殿
                         (「細川家文書」)

光秀は、加賀から豊原に出向いた。

 九月一日。
 信長は、越前豊原にいる。
 
 おそらく、光秀は、加賀から同所に出向いていた。
 細川藤孝の手元に、「滝川一益宛信長黒印状」があった。
 藤孝は、光秀の与力。
 とすれば、知らぬわけはない。
 ことから、それが分かる。
 
 また、大聖寺(石川県加賀市大聖寺八間道)は、豊原の北、五里(20km)に
 満たぬ地にある。
 近い。
 先ずは、加賀の事。
 状況を報告せねばなるまい。
 
 そして、今一つ。
 近江高島郡について。
 解決せねばならぬ問題があった。 

信長は、北ノ庄を視察した。

 同二日。
 信長は、豊原から北ノ庄へ出かけた。
 西南方向、三里(12km)ほどの距離。
 
  九月二日、豊原より北庄へ、信長御越しなされ、

光秀は、信長に同行した。

 おそらく、そうだろう。
 そのことは、後でわかる。

信長は、柴田勝家に築城を命じた。

 これが北ノ庄城である。
 城は、現在の福井市中央一丁目にあった。
 
  城取りの御縄張させられ、御要害仰せ付けらる。 

信長は、林員清を粛清した。

 同日。
 邪魔者は、消される。
 信長は、林員清を成敗した。
 
  北の庄、御普請場にて、
  高島打下(うちおろし)、林与次左衛門、生害させられ侯。

不意討ちは、信長の常套手段。

 林員清にとっては、不意打ち。
 否、騙し討ち。
 全く、予期せぬ出来事だった。
 「謀られた」
 そう、思った時は遅かった。
 「問答無用」、「即日執行」。
 一片の弁解、その余地もなし。
 「北ノ庄、御普請場にて」、露と消えた。
 人の命の儚さよ。
 それにしても、何という、手際のよさ。
 磯野員昌は、震え上がったに違いない。

信長は、理由をこじつけた。

 話しは、五年前に遡る。
 元亀元年1570のこと。
 あの時、林員清は浅井・朝倉方に与していた。
 
  子細は、先年志賀御陣の時、
  浅井・朝倉引き出だし、早舟にて渋(さび)矢を射懸け申し、
  緩怠の条々、御遺恨に侯ひしか。
                          (『信長公記』)

 だが、これは表向きのこと。
 ならば、真の理由は、・・・・・。



 ⇒ 次へつづく 第191話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 
 
 
 
 
 




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