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クリスマスに奇跡を、心に暖かさを
クリスマス・イブやクリスマスも「商業主義」の一つに過ぎない。
無償の愛ではない、創造される「愛」が最も活発になる日になった。
そこに入り込めない人々にとっては、苦しみでしかない。
誰か達の幸福を喜べないわけじゃない。
ただ、そこに自分がいない事実が悲しくなってしまうのである。
だから、何かで繋ぎ止めておくために試行錯誤をする。
その”繋ぎ止めておくための行為”は、とても純粋な心であったと
どんな形でも”一歩”を踏み出すために
泣き面に蜂 踏んだり蹴ったり 弱り目に祟り目
一難去ってまた一難、ぶっちゃけありえない(プリキュア)
そのようなことで心のキャパシティーを超えてしまった時、あなたはどのような手段を取ろうとするだろうか。
①もう何もかも諦めてしまう
②許せない、許せない、許せない、変わってやる
③ただただ泣いてしまう
どんな形でも踏み出すためには、どの手段を選んでも構わないと思う。
ただ変わるための
望まない1人だけの世界は「汚らしい」ものなのか
孤独であることを「受け入れる」というのは至難の業である。
しかし、今僕はどうにか受け入れようとしている。誰もが「孤独」を受け入れているとは言い難いなかで。
声をかけてくれる人がいれば、頻繁でなくても連絡をくれる人がいれば違う。僕の場合は、自分から連絡する、誘う、計画するなどが100%なため「本当の孤独」といってもいい。
僕は、孤独が一番怖い。今でも誰の心にもいない。誰かの心にいれば、今頃僕は
止まり木がなければ生きられない
どんな人にも”止まり木”が存在する。
止まり木に寄りかかり、止まり木で眠りにつき、止まり木が支えになる。
時には、自分自身が止まり木になって誰かを癒す。そんな木が誰の傍にも必ずある。
そうでないと人は生きてはいけない。
けれど、僕は止まり木で休むことを許されない。ましてや、止まり木でいてくれる人はいない。
いじめを繰り返している人にも
損得勘定で友人を選び自らを正当化する人にも
DV
時間の檻に幽閉されながらみる光
ちょうどこれぐらいの気温
もう秋に足をつけた涼しい夜の風に吹かれている。体温より少し高い微睡みの中でぷかぷかと浮かんでいると思い出す。
解決できそうで解決できない掴めそうで掴めない距離から、嘲笑われているそんな苦しみを抱えていた頃を。
まだ自分の見えない肩書きに苦悩を抱えて
ひたすらもがいていた日々
数年経って苦悩が別の形の苦悩に変われたことを「幸福」としても、多くの人と同じになれるわけで
”見守ってくれる人”と”見守られたい人”
あなたの周りには、見守ってくれる人や支えてくれる人はいるだろうか。
その関係性も多様であり、友達なのか親友なのか、家族なのか恋人なのかは人それぞれである。また、見守るにも段階があったり、いつも見守られていたり、見守り方にも多かれ少なかれ程度の差が生じる。
自分にとって、どのようなものが「癒し」として必要なのか。
それを、心や身体の危機に見合ったもの与えてもらえるかは別である。
逆に、自分自身
一匹狼の自己証明は不可能であること
自分を自分として、自分であるためには
自分の心を強く持つこと、そして自分を認めること
そんな謳い文句が世界に広がっている。
自分を自分だと認識し、承認するときに
一体何を我々は根拠にしているのだろうか。不思議に感じる。
誰かの心に思い出されればいいのか?
趣味や好きなものを持っていればいいのか?
声をかけられる人がいればいいのか?
そんな単純なものでいいのなら楽なことはない。
自分