記事一覧
【長編小説】 初夏の追想 27
守弥がパリへ渡った翌年の、五月の初旬のことだった。犬塚夫人はいつものように休暇を開始するために、あの別荘を訪れていた。裕人も付いて行く予定だったが、仕事の都合で二、三日遅れることになった。
別荘地には誰もいなかった。その近隣では、向かいの建物に私の祖父が絵を描いているくらいだった。
犬塚夫人は別荘に着くと、裕人が到着するまで独りで過ごした。そのあいだ、連絡もなかったけれど、普段と違ったことは
【長編小説】 初夏の追想 26
月が変わり、東京の美術館で守弥の個展が始まった。
パリを拠点に活躍する新進気鋭の画家、ということで、多くの人が集まっていた。私もその人々の中に交じり、作品をゆっくりと見て回った。
その日は十六点の油絵が展示されており、そのほとんどは、風景と人物画であった。アルルであろうか、水辺の美しい景色が、優しいタッチで描かれていた。パリの女友達とおぼしき美しい白人女性の上半身の肖像があった。
なるほど
【長編小説】 初夏の追想 25
――今朝のことである。私はこの屋敷に到着してから初めての来客を迎えた。
昨夜その人のことを書いたばかりなので、言霊が呼んだとでもいうのだろうか、玄関の呼び鈴が鳴ったのに驚いて出て行くと、扉の向こうに立っていたのは、何と篠田その人であった。
「ご無沙汰しています」
屋敷に上がりながら、篠田は紳士らしい仕草で、被っていたパナマ帽を脱いだ。いまでもこの土地に別荘を所有している数少ない人士の一人で
【縣青那の本棚】 最初の人間 アルベール・カミュ 大久保敏彦 訳
『異邦人』を読んで感銘を受けたので、その流れで買い求めたカミュの、私にとっては2作目。オビに書かれてあるように、この小説が未完なのは書いている途中でカミュが自動車事故で亡くなってしまったからだ。それを双子の娘の内のひとりがまとめて出版したらしい。
カミュは幼少の頃、父親を亡くしている(確か1歳)。アルジェリアの葡萄酒輸出会社に勤める貧しい労働者だった父は、第一次世界大戦(フランス軍がドイツ軍をマ
【長編小説】 初夏の追想 24
その後、私は山を降りた。犬塚家の人々がそれからどうなったのかは知らない。
胃潰瘍の症状は、もうすっかり良くなっていた。祖父はいたわるような目で私を見、この先頑張るようにと言葉をかけて、送り出してくれた。
最後に祖父と交わした会話のことを、いまになっても私は細部までよく覚えている。
――出て行くときふと見ると、いつもの窓辺の画架に、まだ完成を見ない絵が架かっていた。それは犬塚母子の肖像画
【長編小説】 初夏の追想 21
パタン、と、扉が閉まった瞬間から、その部屋には私と守弥の二人きりになった。部屋の中は閉め切られている上、照明の熱によって暑苦しく、この盛夏の時期にはじっとしているだけでも汗がにじみ出てくるようだった。
私は背中に汗が伝い落ちるのを感じながら、部屋の中央に守弥を歩み出させた。
私が手を放すと同時に、彼はへなへなとその場に崩れ落ちた。彼の体は嘘のように軽く、抵抗といったものがまったくなくて、まる
髪を切れない理由 ーあるトラウマの話ー
* ~タイトル画像はイメージです 本人ではありません~
――突然だが、私はもう何年も髪の毛を長く伸ばしている。
試みにメジャーを使って計ってみたところ、肩から下の長さだけで軽く50cmはあった。毛先は腰をとうに通り越して、お尻にまで届いている。
途中、何度か毛先を切りそろえる程度のケアはしつつも、ロングストレートの髪型を続けて、間違いなくもう10年以上になる。
それには特に大きな理由はない
【長編小説】 初夏の追想 20
私は再び犬塚家の別荘に戻った。平生通り、祖父は一切のことに無関心だった。あちらに行くと告げて私が出ていったときも、恐ろしいほどの集中力をもってあの母子の肖像画に精魂を注ぎ続けていた。
――別荘の中の雰囲気は、以前とはガラっと変わってしまっていた。あんなに人々のざわめきや笑い声に満ち、歓談の雰囲気に包まれていたのに、いまや建物のどこにも人影はなく、あたりはしーんと静まり返っていた。犬塚夫人の姿
【長編小説】 初夏の追想 19
――あまりにも突然の、あの心地良い共同生活の破綻から、しばらく私は立ち直れないでいた。何もかもが、本当にあまりにも呆気なく終わってしまった。
祖父は制作の手を止めて、たったいま私が持ち帰った衝撃的な話を聞いてくれた。途中無言で何度もうなづき、そうだろう、……そういうこともあるだろう、と言い、一点を注視したまま何ごとか考えているようだった。
気まずい沈黙が、私たちのいる離れにも、向かいの犬塚家
【長編小説】 初夏の追想 17
――蝉の幼虫が、地中における七年間の精進の末ついに地上に出ることを許され、成虫となって声高らかに盛夏の訪れを謳い始めた。
守弥はそのころ、私の肖像画の最後の仕上げに取りかかっていた。丹念に油絵具が重ねられていき、画布の中心に段々と私の姿が現れてくる過程は、見ていて面白いものだった。私は、守弥の手が忙しく動いているあいだ、あのベル・エポックの画家たちも同じような手順を踏んで彼らの作品を仕上げてい
【長編小説】 初夏の追想 16
――やがて、季節は本格的な夏の到来を迎えた。
毎日蒸せ返るような暑さが続いた。平地と違って、自動車の排気ガスやエアコンの室外機による弊害としか思えないあの気違いじみた暑さに比べれば遙かにましだったが、やはりこの山中の森にも、それなりの暑気というものはあった。木陰にいれば涼しかったが、それ以外の場所では草いきれによって濃縮された空気が匂い立ち、標高の高い土地に特有の射るような強い陽射しが照りつけ