ふとしたこと

雑多にふと思ったことを書いています。静かで深くて思いやりがあるのが好きです。/内向型で…

ふとしたこと

雑多にふと思ったことを書いています。静かで深くて思いやりがあるのが好きです。/内向型で(https://bit.ly/3uA7yMH)HSPという気質で(https://hsptest.jp/about)INFPという性格タイプです(https://bit.ly/323FhSy

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概念美術館が好き。

私は 美術館、博物館、 図書館のような 空間が好きです。 それらに 共通する(場合が多い) 私の好きな特徴として、 以下の3つがあります。 ・興味があって 自ら出向…

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いないことにはしたくないけど、無理に広めたくもないから

ふだん、あまり見かけない人や 自分の空間を大切にしている人を、 “いない”ことにはしたくない。 だけど 無理やり引っ張り出すとか 大声で知らせるとか そんなんじゃな…

ふとしたこと
2週間前
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「ある基準では間違っていたとしても、そのまま存在していていい(それもまた個性だし)」「ある誰かには許されないとしても、そのまま取り組んでいていい(大勢が生きていれば自然と起こることだし)」……とできるだけの余裕が、精神的にも時間的にも、金銭的にも資源的にもあったらいいなと思う。

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全体的に見れば結局どちらも必要な役割であり選択だけど、個人の好き嫌いとしては「すぐに切り替え、心をスッキリさせることで前に進んでいく人」よりも「絶えず考えに耽り、心に降り積もらせることで質量を増していく人」が好き。そういう事の積み重ねで生じる重みや深み、陰りや濃密さが大好きだよ。

幸せの押しつけは、辛い人には辛いもの。でも、つい自分勝手に願ってしまうことも多い。だからせめて、それが辛い人に対してではなく、それが嬉しい人に対して願えたらと思う。

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逆にこういうもの(1つ前の記事)が毒になる人もいるんだろうなあとは思いつつ……。人と世界は、住み分け、接し分けが本当に難しい。

やさしい人に逢いたい。でも、無理しないで。きっと幸せになって。

やさしくて あたたかくて 深くて 純粋な人って もともとの数(母数)が ちょっと少ない とか なかなか 目立つばしょには 出てこない とか まわりの人に 嘘にされてし…

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意味なんて考えなくても自然とやっていて楽しいものが向いているもので、「これ、やる意味あるのか……?」とつい考えてしまうものは向いていないものなのかもしれない。得意・不得意的な意味ではなく、興味の持ち具合やモチベの湧き具合的な意味で。

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ポジティブな意味で「自分には意味も価値もない」と思っている。

そもそも 人間が生きるのに 意味や価値が必要だとは 思えないのです。 だってそれって 元は存在しなかった概念を 人間が後づけ的に付与した いわばトッピング みたいな…

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「反発心からとにかく何も受け付けない頑固」と「自分で判断・決定した道だからそこだけを行く頑固」は全く違うなと思った。前者は「何も見つけていないし考えていない中でとにかく跳ね除けている」、後者は「とにかく考えて見つけた中でその1つにまっすぐ向かっていっている」という感じがする。

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昔から何となく「これはオシャレだけど冷たいから、自分の日常生活には取り入れたくないな」みたいな、オシャレさや見栄えよりも、自分の気持ちに直結するあたたかみや馴染みやすさを優先する傾向があった。いくらオシャレでも、自分の気分に繋がらない、冷たくて浮いた風に感じるものが何故かある。

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生きていることの慰みや支えになる要素はいくつかあれど、積極的に生きたいと思う要素はどこにもない。だけどそれが自分の性質らしい感じ方なのかもしれないし、それでいいのだと思う。もしいつか変えたくなったなら、その時はまた変えればいい。

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明るく笑うことが幸せとは限らない。

幸せな状態って 固定化された 一つのイメージでは なくて “自分の性質に沿った 生き方ができること” なのではないだろうか…… と、 ふと思いました。 明るく笑っ…

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「相手がきっかけ」なのと「相手が悪い」のは別かもしれない。

「相手がきっかけである (=相手に原因がある)」 というのと 「相手が悪い (=相手に責任がある)」 というのは もしかしたら 別々であり 必ずしも同一だとは 限ら…

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△環境によって人は変わる
○環境によって、その人の中のどの部分が引き出されるかが変わる
なのではと思う。表に引き出された部分がその人の主なイメージとなるから、同じ人でも、引き出された部分が違えば、充分違う人の様に映るのだろう/関連記事→https://note.com/futoshita/n/nc7e1a0e0bd93

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絶対的な真実はなく、それぞれの解釈と本能が無数にあるだけなのかもしれない。

何かを 気持ち悪いと思った時 その対象そのものが 実際に気持ち悪い 存在なのではなく それを 気持ち悪いと感じる 価値観あるいは本能が 自分に内在している というだけ…

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いないことにはしたくないけど、無理に広めたくもないから

いないことにはしたくないけど、無理に広めたくもないから

ふだん、あまり見かけない人や
自分の空間を大切にしている人を、
“いない”ことにはしたくない。

だけど

無理やり引っ張り出すとか
大声で知らせるとか
そんなんじゃなくて、

ただ

確率的に存在するだろう
ということを知っていたいし、
心でも、そういう人がいることを
当たり前のこととして信じていたい。

世界に、そういう人がいることを
知っている・感じている人が
いるように(いる状態に)してお

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「ある基準では間違っていたとしても、そのまま存在していていい(それもまた個性だし)」「ある誰かには許されないとしても、そのまま取り組んでいていい(大勢が生きていれば自然と起こることだし)」……とできるだけの余裕が、精神的にも時間的にも、金銭的にも資源的にもあったらいいなと思う。

全体的に見れば結局どちらも必要な役割であり選択だけど、個人の好き嫌いとしては「すぐに切り替え、心をスッキリさせることで前に進んでいく人」よりも「絶えず考えに耽り、心に降り積もらせることで質量を増していく人」が好き。そういう事の積み重ねで生じる重みや深み、陰りや濃密さが大好きだよ。

幸せの押しつけは、辛い人には辛いもの。でも、つい自分勝手に願ってしまうことも多い。だからせめて、それが辛い人に対してではなく、それが嬉しい人に対して願えたらと思う。

逆にこういうもの(1つ前の記事)が毒になる人もいるんだろうなあとは思いつつ……。人と世界は、住み分け、接し分けが本当に難しい。

意味なんて考えなくても自然とやっていて楽しいものが向いているもので、「これ、やる意味あるのか……?」とつい考えてしまうものは向いていないものなのかもしれない。得意・不得意的な意味ではなく、興味の持ち具合やモチベの湧き具合的な意味で。

「反発心からとにかく何も受け付けない頑固」と「自分で判断・決定した道だからそこだけを行く頑固」は全く違うなと思った。前者は「何も見つけていないし考えていない中でとにかく跳ね除けている」、後者は「とにかく考えて見つけた中でその1つにまっすぐ向かっていっている」という感じがする。

昔から何となく「これはオシャレだけど冷たいから、自分の日常生活には取り入れたくないな」みたいな、オシャレさや見栄えよりも、自分の気持ちに直結するあたたかみや馴染みやすさを優先する傾向があった。いくらオシャレでも、自分の気分に繋がらない、冷たくて浮いた風に感じるものが何故かある。

生きていることの慰みや支えになる要素はいくつかあれど、積極的に生きたいと思う要素はどこにもない。だけどそれが自分の性質らしい感じ方なのかもしれないし、それでいいのだと思う。もしいつか変えたくなったなら、その時はまた変えればいい。

明るく笑うことが幸せとは限らない。

明るく笑うことが幸せとは限らない。

幸せな状態って

固定化された
一つのイメージでは
なくて

“自分の性質に沿った
生き方ができること”
なのではないだろうか……

と、
ふと思いました。

明るく笑っていたいと思う人が
明るく笑っていられるなら
それは幸せだと思うのですが

明るく笑いたいとは
思わない人は

明るく笑うことではない
他のやり方を自由に追求できて
実践できて

それを誰にも
邪魔も口出しもされないことが

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「相手がきっかけ」なのと「相手が悪い」のは別かもしれない。

「相手がきっかけ」なのと「相手が悪い」のは別かもしれない。

「相手がきっかけである
(=相手に原因がある)」
というのと

「相手が悪い
(=相手に責任がある)」
というのは

もしかしたら
別々であり

必ずしも同一だとは
限らないのでは?

と、
ふと思いました。

たとえば

過去に子供を
亡くしている人が

それを知らない人に
「うちの子がね〜」
という話をされて
傷ついたとしても

それは相手に
責任があるのではなく

本人の心の中に
過去

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△環境によって人は変わる
○環境によって、その人の中のどの部分が引き出されるかが変わる
なのではと思う。表に引き出された部分がその人の主なイメージとなるから、同じ人でも、引き出された部分が違えば、充分違う人の様に映るのだろう/関連記事→https://note.com/futoshita/n/nc7e1a0e0bd93

絶対的な真実はなく、それぞれの解釈と本能が無数にあるだけなのかもしれない。

絶対的な真実はなく、それぞれの解釈と本能が無数にあるだけなのかもしれない。

何かを
気持ち悪いと思った時

その対象そのものが
実際に気持ち悪い
存在なのではなく

それを
気持ち悪いと感じる
価値観あるいは本能が
自分に内在している

というだけなの
かもしれません。

それを知っていれば

距離を取って
避けることはしても

貶めたり排除したり
するようなことは
ほとんどしないでしょう。

また

自分側が言われた時も

それ(言われたこと)で
事実が揺らぐわけでも

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